第2話 コーヒーミルの恋

 その手が私に触れたとき、ふいに心が高鳴ったのを覚えている。長い指で体の線をそっと撫でられ、たおやかな手つきで抱き上げられた私は、顔を見るまでもなくその手の持ち主に恋をしていた。


「これ、まだ使えるの?」

「もちろんだよ。手入れさえすりゃ、ずっと使えるさ」


 赤ら顔の店主はいそいそと寄ってきて、太い手で取っ手をぐるぐると回してみせる。私はその乱暴な仕草に苛立ちつつも、ようやくこの店主と退屈な蚤の市ブロカントから解放される期待で胸をときめかせていた。


 粉受けの引き出しはガタついているし、取っ手の塗装も少し剥げている。姿かたちは年寄りだけど、私はこれでも現役のコーヒーミルである。


「じゃあもらおうか。少しおまけしてよ」


 美しい手の男は交渉も上手だった。安くてもいい、この手に毎日触ってもらえるなら。店主が提示した金額の三分の一に値切られて、私は薄暗い紙袋の中に閉じ込められた。



 目を覚ましたとき、私の前には目を輝かせた若い女の顔があった。


「素敵。アンティーク?」

「ああ、でもまだ使えるよ。さっそくコーヒーを挽いてみよう。あ、でもまずは掃除してやらないとね」


 そう言うと男はこちらが恥じらう暇もなく、器用な手つきで私を分解しはじめた。その手際のよさ。ミルをよく知っている手だ。ブラシを入れ、巧みな指づかいで刃の汚れを取る仕草は、気持ちのいいところをくすぐられるよう。

 体じゅう丹念に磨かれたあと、新鮮なコーヒー豆が私の中に注がれた。この香りはキリマンジャロの深煎りだ。うっとりとしていると、美しい手で取っ手を柔らかく握られた。

 私は息を呑んだ。しばらくぶりに力強く回される快感。豆を挽く刃は少しも衰えていない。しなやかな手とキリマンジャロの豊潤な香りに恍惚となり、吐息が零れる。

 ああ、私のを見る目に狂いはなかった。この人といたら幸せになれる。私は長い間忘れていた悦びに身を震わせた。


 しかし。


「エスプレッソもいいけど、フィルターで淹れるコーヒーも格別だろう」

「ありがとう。最高の誕生日プレゼントよ」

 

 私は唖然となった。プレゼントですって? この女への? てっきり彼のものになると思っていたのに。

 

 香ばしいコーヒーの湯気の中、唇を寄せ合う二人。私は視線を逸らす。釈然としない。でも決められたことには逆らえない。

 こうして私は仕方なく女のアパートで新しい生活を始めることになった。


 男は決まって木曜日の夜にやってきた。夕食のあとのコーヒーは私の担当。一週間に一度だけ、私は彼に触れてもらえる。彼の飲むコーヒーを挽くことができる。それだけが生き甲斐だった。

 たわいもないお喋りのあと、二人は隣の寝室へと消える。彼らの愛し合う声が、台所に佇む私にも聞こえてきた。男の慣れたしなやかな手つきが浮かび、眠れなくなった。


「ねえ、このミル、私が挽こうとすると動いてくれないのよ」

「そんなはずないだろ。ほら、ちゃんと回るじゃない」


 別に意地悪をしているつもりじゃない。ただ女の手が取っ手を回すのが好きじゃないだけ。私は彼だけに触れられたいの。

 私の生活は木曜日を中心に回っていた。もう一度分解してほしくてわざと刃に豆のかけらや粉を残してみたりした。


「ちゃんと手入れしてる? 雑に扱っちゃダメだよ」

「そんな言い方しないでよ。私が大事にしてないみたい」

「まあいいさ、僕だけを大事にしてくれれば」

「もう……」


 私はまた目を逸らす。なによ、ひとをバカにして。


 そうして、三カ月も経っただろうか。

 一度挽いた豆がどんどん酸化するように、恋も酸化する。木曜の夜に繰り広げられる会話には、だんだん雑味が混じるようになってきた。


「嘘つき、奥さんと別れるって言ったくせに」

「束縛しないなんて嘘だな。君ほど嫉妬深い女は見たことがない」

「卑怯者に言われたくないわ」


 賞味期限があるのはコーヒーだけじゃないらしい。もう男は私を手入れしなくなった。刃に詰まった豆のかけらが痛い。二人の浴びせ合う言葉の刃だけが鋭さを増していく。

 私は台所の隅で全部聞いていた。女の責めるような泣き声も、男の苛立った言い訳も。寝室から聞こえてくるのは愛し合う声ではなく、孤独なすすり泣きに変わった。


 灯りの消えた台所で、私はそっと溜息をつく。

 バカね。初めから叶うはずなんてなかったのに。

 あんたも私も、同じなのね。あの美しい手にたぶらかされただけ。

 台所の椅子に座り、じっと私を見つめる瞳。後悔と恨みの混じった瞳。なのにまだ、あんたは私を手放すことができないのね。恋って、愚かで滑稽なものね。


 いいこと、あんたは値切られるような女になっちゃだめ。未練なんて、古道具より役に立たないものよ。


 私が埃をかぶりはじめたある日、宅配便のベルが鳴った。大きな箱から女が取り出したのは、ボタンひとつでエスプレッソが注がれるマシンと、カプセルに入ったコーヒー豆だった。

 私は苦笑した。そう、それでいい。


 お別れのしるしに、女は私で最後のコーヒーを挽いた。

 私は最後のサービスに、初めて気持ちよく豆を挽いてあげた。


「……なによ、ひとをバカにして」


 女の呟きが台所に響いた。

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2024年12月17日 06:00
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名もなきオブジェの呟き 柊圭介 @labelleforet

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