名もなきオブジェの呟き
柊圭介
第1話 イーゼルの落書き
北風が体の間を通り抜けてゆく。
朝は青みがかっていた空も、すでに灰色の雲が隠してしまった。私は一枚ずつ落ちてゆく枯葉と、まばらに舗道を行き交う人々をぼんやりと眺めている。
ブロカントと呼ばれる蚤の市に並ぶようになって、もうどれぐらいの年月が経つだろう。私の横には、足踏み式ミシンや飾り棚が並んでいる。彼らは新参者だから、買ってもらえるなんて思うな、ただ客を眺めて一日やり過ごせばいい、と最初にアドバイスしておいた。
今の店主はものぐさで、私を磨こうという気概もないから、樫の肌はいつもカサカサしている。キャンバスの受台にもささくれが目立ち、二メートルを超す背骨のような中軸は、先の方が少しひび割れている。それで週末は寒空に立たされるのだから、老体には酷である。
H型アトリエ用イーゼル、というのが私の本来の名前だ。だが私は「おじいちゃんのイーゼル」という呼び方が気に入っていた。私の背骨には、私をそう呼んでいた少年の名前が記されている。拙い字で書かれたアルファベットの文字。四十年のあいだ誰にも気づかれることなく残ってきた、小さな落書きが。
フランス北部の片田舎。あの頃アトリエの窓から見えていた景色は、今日のように灰色がかった空ばかりだった。
生まれてからずっと、売れない絵描きのアトリエでキャンバスを支え続けてきた。偏屈な男で、近所づきあいはおろか、親族とも疎遠、もちろん結婚など望むべくもない。
彼は目の前のテーブルに置いた果物や野菜だけを見つめ、黙々と筆を走らせていた。独特な輪郭や色使いは、画壇には相手にされなかった。それに加えて人づきあいの悪さが拍車をかけた。
私はこっそりと彼に話しかけたものだ。
──あんた、静物画ばかり描いているけど、本当は人恋しいのだろう。
画家は知らんぷりをしてキャンバスに色を塗りたくった。ときどき私もとばっちりで絵の具のシミをつけられた。
孤独な男は孤独なまま歳をとった。ときどき絵筆を握る手を止め、ふと物思いに耽るような顔をした。あるじが何を考えていたのか、私には知る由もない。
ひとりの少年が出入りするようになったのはその頃である。
きっかけは飼い猫が家に紛れこんだというだけの些細なものだった。しかし少年は画家のアトリエと、そこに乱雑に立てかけられた絵を見て目を輝かせた。
「おじいちゃんち、美術館みたいだね」
少年はあるじを「おじいちゃん」と呼んだ。なんの邪心もなく素直に出た言葉に、老人の頬が赤らむのを見た。
それから少年は毎日のように学校帰りにアトリエへ来るようになった。
「家にいてもつまらなくてさ」
彼はやんちゃ坊主なのか、よく傷やあざを作っていた。後ろから画家の手をのぞき込んだり、遠くからじっと見つめては、色や構図についての質問をどんどん投げかける。彼が来た途端、寒々しいアトリエは賑やかになった。
意外にもあるじはこの小さな招かれざる客を邪険には扱わなかった。それどころか彼の質問に大真面目に答え、普段買うこともないビスケットなどを用意して待つようになったので、私は失笑を禁じえなかった。
「おじいちゃんの絵は素敵だよ。きっとルーヴルの絵よりすごいよ」
「そうかい、そう言ってくれるのはお前さんだけさ」
小さな理解者に巡り逢った画家から少しずつ仏頂面が消えてゆく。私の抱いたキャンバスを仲睦まじく揃って見つめる瞳。その光景はまるで本物の祖父と孫のようであった。
──変われば変わるものだな、あんたも。
私はビスケットの匂いを嗅ぎながら二人の会話に耳を傾けた。
おじいちゃんのイーゼル。
彼は私をそう呼んだ。
「大きくなったら僕も絵描きになるんだ。そのときは、僕におじいちゃんのイーゼルを譲ってくれる?」
「図々しい奴だな。まあ本当に画家になるのなら考えてやってもいい」
勿体をつけながらも、くすぐったそうに口を歪める。これで笑っているつもりなのだ。
ある日少年は画家の目を盗んで、私の背骨に自分の名前をこっそりと書いた。売約済のしるしか。拙い文字には悪戯心よりも愛情を感じた。私は苦笑しながら甘んじてその落書きを受けいれた。
しかし。
十二歳になったある日、少年は突然姿を消した。父親から逃れるため、母と二人、夜逃げ同然で家を出たらしい。彼の傷やあざは、友達との喧嘩によるものではなかった。
画家は背中を丸め、ため息をついた。絵筆を握る時間も目に見えて少なくなった。
ずっと続くはずの日常は、前触れもなく絶たれる。変わらないものなどありはしない。
あるじを亡くしてからの私も同じだ。絵は親類によって叩き売られ、ひとり残った私は物置の肥やしになった。流れ流れてブロカントで古道具になり果てる未来など、誰が予想しただろうか。
「風情はあるけど、ずいぶん傷んでるな。もう使い物にはならないね」
私を品定めしていた客が独りごち、踵をかえして去っていく。その通りだ。もう使い物にならない私など、暖炉の薪にでもなった方がマシだろう。
北風がふたたび骨だけの体を通り抜けた。心が軋む。またひとつひび割れるような心地がしたその風の先に、労働者風の中年の男が立っているのに気づいた。
私たちの目が合った。
おかしな言い方だが、私たちははっきりと互いの顔を見た。
男は目を見開いた。吸い寄せられるようにこちらへ近づき、迷うことなく私の背中に残された落書きに触れた。
震える吐息が木枠にかかる。
──君なのか。
答える代わりに男はゆっくりと指で自分の名前をなぞった。無骨で大きな手が、ささくれだった受台や乾いた背骨を懐かしむように撫でる。北部からパリへ流れ着き、母を支えながら必死で駆け抜けた人生が、その掌から伝わった。
──歳をとったなあ、お互い。
皺の寄った目尻が切なく微笑んだ。
「絵描きにはなれなかったな……」
四十年ぶりの再会にしては寂しすぎる独り言に、私は吹き出しそうになる。
──かまわないさ。私もこんなザマだ。
私たちは黙って見つめ合っている。
これ以上、何も望まない。君が生き延びたことを知っただけで充分だ。
だが彼はおもむろに店主に話しかけた。
「あの、このイーゼル、うちまで届けてもらうことはできますか」
私は思わず微笑した。
そうか。取り戻すのだね、思い出を。君の宝物だった時間を。
"
私はやっと、君のものになる。
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