第9話 姉のような存在

「旦那様から教えていただきました。十六歳までの記憶しかないのだとか……」

 髪に櫛を通しながらそう言ったのは、目が覚めたときにいたメイドのサリィだ。彼女の髪型が急に変わっていたのも今なら納得できる。

 

 起きてからも体型の違和感(主に胸元)を認め、記憶が戻っていないことを知った。クローゼットを開けてみれば、私が好きな寒色系で揃っていて、脱着が簡単で動きやすさ重視のワンピース、訓練用の女性用トラウザーズが並び、漸く自分の足跡を感じることができた。

 部屋だって、ここは夫婦の寝室のようだがよく見てみれば、家具など小物は可愛いもので集めたい私の趣味に合っている。少しだけささくれていた心が落ち着いたところで、サリィが訪れて支度を手伝ってくれたのである。

 

 昨日はあまり会話をしていないために気付かなかったが、私より五つ年上の彼女はしっとりとした色気と共に、記憶よりも少しふっくらとしていた。聞けばこの屋敷の執事をしているマイクと結婚したらしく、彼女は今や二児の母だという。

 もちろんマイクのことも知っている。彼の父は本宅であるホルスト伯爵家の執事長の息子なのだから。どうやら彼らは親子それぞれに仕えているらしい。知っているとはいえ顔見知り程度で、マイクとは挨拶以外、あまり話したこともなかったけれど。エリックに負けず劣らず真面目そうな青年という印象だ。そんなマイクがサリィと、ねぇ……。

 私の知っているサリィの恋人は、家にも配達にきていた酒屋の軽薄な男だったが、結婚相手に選んだのは真逆のタイプで、彼女も色々とあったのかもしれないと察する。一体どんなロマンスがあったのだろう。

 

 八年もあれば関係だって変化するんだなと感慨深い。そりゃそうか、私だって人のことも言えないもの……。

 そこまで考えて、昨晩胸に覚えた痛みを思い出す。皆が過ごした日々を、私は知らない。

 

 幼い頃からカーライル家に仕えてくれている彼女は、頼もしい存在であると同時に姉のようでもあった。どういう経緯があって嫁ぐ私についてきてくれたのだろう?

 

「ごめんね、サリィが結婚や出産をしたこと、全然思い出せないの」

「そんなっ! どうかお気になさらないでください。身体の不調がなく目覚めてくれただけで私は嬉しくてしかたがないのです」

 慈愛に満ちた笑みは、なるほど年月を感じさせる。元より包容力抜群の彼女だから、母になってさらに懐の深さが一段とアップしているのかも。

「サリィ……。でも一緒に歩んできたのに分からないなんて」

「このことを知っているのは、旦那様が決めた限られた者たちです。お側では私と、私の夫である執事のマイクだけ。だから不安なことがあれば私やマイクに何でもお話下さいね。無理せずゆっくりと思い出を辿っていきましょう」

「うん……。ありがとう」

 サリィがいてくれてよかった。今日までの私も、彼女には何度も救われているのだろう。

 

「旦那様はお忙しいですから」

「……うん?」

 サリィの言葉に少し棘を感じて、髪を整えるのを邪魔しないように小さく首を傾げる。

「妊娠、出産と目を光らせていた私が動けないのをいいことに、旦那様には私の立場を根こそぎ奪う勢いで随分距離を縮められましたから」

「あは、なるほど……?」

 エリックに説教をされれば、サリィに甘やかされる。私がサリィに懐くのをエリックは面白くなさそうだった。そういえば私を挟んで火花が散っていたのを思い出す。

「それなのに私と一緒にきてくれて、この家にいてくれるの、すごく嬉しいわ」

「もちろんです! 夫との出会いも仕組まれた感はありましたが、今となっては有り難いですし? それに私は奥様にどこまでもついていくと決めてましたから」

「ふふ、ありがとう」

「でも旦那様以上に奥様を大切に想う男性はいらっしゃらないのも事実です。手段や行動はさて置き、尊敬しておりますし、何があっても護って下さるから結婚されて本当に安心しているのですよ」

 そういえば私が魔法の実験で無茶をすれば、二人は結託したかのように怒るし心配してくれる。それは今でも変わらないらしい。とても嬉しいことだ。

 

「カーライル様にも、旦那様が記憶の件を相談されていますから、ね。百人力ですよ」

 違和感はあるが、サリィの言う旦那様はエリックのことだ。彼女がそう言うと、つい父を連想してしまうから、目が覚めたときに勘違いしてしまったのである。

「……そっか! そうだね!」

 魔術師団のトップである父が、私が重傷になったと知らないはずがない。そして今の状況もすぐにエリックがお父様に伝えてくれたのだろう。これほど心強い味方もいない。なんせ国一番の魔術師なのだから。

 

 エリックはというと、サリィにゆっくりと寝かせておくように伝えてから、書斎にいるようだ。今は学生ではない。彼にもすべき仕事があるのだろう。

 

 腹の虫が騒ぎ出す前にお食事を、とサリィに促されて食堂に向かいながら、やはり記憶にあるエリックの祖父の屋敷だと知ることができた。これなら記憶がなくても困ることはない。エリックの本家であるホルスト邸よりかは小ぢんまりとしているものの、二人で暮らすには充分に大きい。ここなら今後、子どもが一人、二人と増えたところで問題はないだろう。

 

「……って気が早いってば」

「どうかされました?」

 

 記憶と違うところがあるかもしれないと、屋敷を説明しながら前を歩いていたサリィが振り返った。なんでもない、と手を振ってから、

「お祖父様たちがいた頃と変わっていなさそうだから、迷うことはないわね」

 と誤魔化した。

「奥様が嫁ぐ前に、浴室や洗面所など水回りや、趣味に合ったものをと壁紙の交換や家具を買い替えたりはしましたが、大まかな場所などは変わっていませんよ」

 

 サリィの言う通り、寝室もそうだが所々に新しい部分が見受けられた。初めてではない屋敷なのに初めての場所のようで、間違い探しをするみたいにキョロキョロと見渡しながらサリィについていく。

 

「こちらが食堂です」

「そうね、ここだわ。うん、覚えてる」

  遊びに来た時に、食事をご馳走になったことがある。その時にここでもてなしてくれたのだ。


 ノックのあと、サリィが開けると扉の近くにいたのだろうか? すぐそばにエリックがいた。サリィは頭を下げると、そのまま下がっていった。

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