二章 和の国の姫君、ハレムへ行く ―④

 初めて見た浴場は、私に鮮烈な衝撃を与えた。


 内部は三つの部屋に区切られている。着替えをしたり、った体を冷やしたりする控えの間の先に、低温浴室と高温浴室があるという。連れてこられたのは高温浴室だ。白い大理石をふんだんに使用しており、奥の壁にはつるくさ模様の陶板がびっしり飾られている。天井付近からは、さんさんと陽光が降り注いでいた。いろ硝子ガラスがはめられていて、陽が透けて中に差し込んでいるのだ。床はさまざまな色の丸石が敷き詰められ、壁面に設置された給水盤からは、驚くほど豊富な湯があふれ出し、大きな浴槽に注がれている。汗がにじむくらい暑い。じんこうの芳しい匂いが満ちていて、どこからか楽器の音色が聞こえてくる。


 ──すごい。こんなの初めて見た。


 心臓が激しく脈打っていた。

 じりじりと後ずさってぽつりとつぶやく。


「みんなすっぽんぽんだわ……!」


 ありえなかった。浴場にはおおぜいの女性がいる。かろうじて大切な部分は布で隠しているものの、誰もがおおっぴらに素肌をさらしていた。外ではあんなに厳重に覆っていた癖に。浴場じゃ気にならないのね!? あまりの落差に風邪を引きそうだ。


「うう……恥ずかしい……!」


 私も裸だった。布をギュッと握りしめて、素肌をさらすまいと決意を固くする。


「なんでそんなに拒否するのよ?」

「ヒッ! ま、前くらいは隠しなさいよお……!」


 デュッリーの態度は堂々たるものだった。豊満な肉体を見せつけられて真っ赤になる。あからさまに顔を背けると彼女はあきれた様子だった。


「和の国……だっけ? お風呂に入る習慣がなかったの?」

「あったわよ! もちろん!!」


 でも、こんな大人数で入ったりしない。入浴はいつもばあやと二人きり。それも、帷子かたびらの上からかけ湯をするか、狭い浴室に蒸気を満たして入る蒸し風呂だ。保養地では湯にかったりもするそうだし、寺院では民のために湯を振るまったりしたそうだが、私には親しみがなかった。


「私の知ってるお風呂と違う〜!」


 頭を抱えていると、デュッリーがクスクス笑った。


「しばらく市街の邸宅で過ごしてたでしょ。その時はどうしてたのよ」

「よぼよぼのおばあちゃん奴隷と二人だけだったから、適当に湯を使ってたの」

「なるほどねえ」


 そもそも専用の浴場はなかった。湯を張れる設備を持つ家はよほどの金持ちだ。


「部屋に戻ります」


 さっさときびすを返す。とたん、強い力で腕を摑まれてしまった。


「逃がさないわよ。磨くって言ったじゃない」


 ぎらり。デュッリーの瞳が妖しく光る。


「お願いします!」


 一声かければ、おおぜいの女性が寄ってきた。

 風呂釜役キュルハンジュ……浴場の管理をしている女中たちだ。私から素早く布を剝ぎ取ると、あれよあれよという間に体を洗いあげ、髪をゆすいで湯船に放り込んだ。恐ろしい手際だ。


「ふわあ……」


 湯船に浸かったとたん緩んだ声が出た。末端からジワジワと熱が伝わってくる。緊張で硬くなっていた体が自然とほぐれていくのがわかった。


「ゆ、湯船に浸かるってこんなに気持ちいいの?」


 あまりの衝撃にぼうぜんとしていれば、ひとりの風呂釜役が近づいてきた。


「失礼いたします」

「──!?」


 縁に寄りかかっていた頭に、熱めのお湯がかけられる。すかさず香油を注ぎ、頭皮をはじめた。強い力で押されると、脳天がしびれるくらい気持ちいい。いい匂いがする油をすり込まれた時には、思わず深呼吸してしまった。


「……な、なにこれえ」


 ふにゃふにゃの声を出すと、そばにデュッリーが立っているのに気がついた。


「ライラー。全身をマッサージしてあげるわ」

「まっさ……?」

「マッサージよ」


 にこりと笑みを浮かべて手を差し伸べる。

 瞳には熱がこもっていて、なぜだか底知れぬ艶っぽさを醸し出していた。


「言うことを聞いたら、いまより気持ちよくしてあげるって言っているの」

「デュッリー……!」


 ──きゅうん、と胸が高鳴った。


 あらがえるはずもない。

 彼女の手を取った私は、めくるめく新しい世界へ旅立った。

 ほんのり温かい大理石の寝台に横たわりマッサージを受ける。体中の凝りを解され、たまったあかをこそぎ落とされた。未知の感覚にとろけそうだ。水分を拭き取った髪には念入りに油がすり込まれ、最後に香水をたっぷりまぶされる。しかも。しかもだ!


「これは……!」


 浴場内ではお菓子がふんだんに振るまわれていた。木の実ナッツを使った焼き菓子バクラヴァ、雪をまぶした甘いうり、香草のお茶。なにより美味おいしかったのは、氷を削って甘い汁をかけたシェルベットだ。口の中に入れたとたんに溶けてしまうはかなさよ。かんきつの果汁と冷たい氷が火照った体にみていく……!


「あああああ! 浴場最高!!」


 ご満悦である。

 ここは極楽? 極楽に違いない……。

 緩みきった顔でシェルベットを頰張る。羞恥心なんてどこかへ行ってしまった。

 裸の付き合い? いいじゃないか。こんなんだったら毎日来たい。


「どうだった?」


 デュッリーが私にたずねた。笑顔で答える。


「すっごく気持ちよかった。抵抗してたのが馬鹿みたい。ありがとう」

「そう!」


 うれしげな彼女の手には、小さな木のわんが握られていた。

 あめいろの液体が、なみなみ入っている。


「なあに? それ……」

「これ? 砂糖を煮詰めてから、蜂蜜とレモン……酸味の強い果実の汁を加えたの」

「砂糖に蜂蜜!? すごい。高級品じゃない!? さすがはハレムね。ぜいたくだわ。ねえ、私にもひとくちくれない……?」


 ドキドキしてお願いすれば、デュッリーはにこりと不思議な笑みをたたえた。


「ごめんね。食用じゃないのよ。〝アダ〟って言って、こう使うの」

 指ですくったアダを私の腕に塗っていく。想像よりも粘度が高く、ほんのり温かい。肌に触れると、すぐに硬くなったのがわかった。なんだか嫌な予感がする。


「デュ、デュッリー……? な、なにを」


 困惑を隠せずにいると、アダの端っこに指をかけたデュッリーが、問答無用で一気に引きはがした。


 ビリビリビリビリッ!

「ぎゃ───────っ!!」

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