一章 和の国の姫君、果ての地で決意す ―⑤

「死ぬまでハレムにいるわけではないんですか」

「そんなわけがあるか。皇子の母になったり、ハレムの要職に見いだされたりすれば話は別だが……年季が明ければ外へ出られる。市民になる者もいれば、高官に下賜される者もいるぞ。国教で、奴隷の解放は善行だと神が定めているからな」

「本当ですか!」


 興奮で声が震えた。男はくちを持ち上げて笑う。


うそは言わない。より高官に下賜されるように立ち回れば将来も安泰だろう。……そうだな。母后ヴァリデ・スルタンに気に入られればいい」

「母后……?」

「皇帝の母親だ。ハレムの実権を握っている」


 ニヤリ。男の瞳にどこか悪戯いたずらっぽい光が浮かんだ。


「なあ、自由を得るためにハレムに飛び込んでみたらどうだ。取り入るべきは母后であって男に媚びる必要もない。実力ですべてをひっくり返せばいい」


 畳みかけるように言って、最後にこう締めくくった。


「少なくとも市井の奴隷よりかはマシだろう」

「そう、ですか」


 もしかしたら、思った以上に未来は明るいのかもしれない。


「じゃ、じゃあ──」


 こいねがうように両手を握る。


「ハレムで何年か過ごして退廷した後なら、故郷に戻れるんでしょうか」

「…………。待っている人がいるのか」


 無言のまま首を横に振る。

 愚かな、非現実的な願いだとわかっていた。故郷は燃えてしまったのだ。両親や弟はの軍勢に殺されたのだろう。豊かだった里にはなにも残っていない。たとえ復興していようとも、そこに住む人間がかつて愛した民だとは限らないのだ。

 それでも帰りたかった。

 人生の最後に踏みしめる土は故郷のものがいい。

 そう願ってやまない。


「帰るだけなら……できるだろうさ」


 男の言葉に胸が弾んだ。慰めだとわかっていてもうれしくなる。

 これで目標が決まった。見えない未来におびえているよりかはよほどいい。


「──では、ハレムに参ります」


 思いのほかりんとした声が出た。

 自由になるためにハレムであがく。そう決意した瞬間だった。


「そうか」


 男がゆるりと笑んだ。

 手を伸ばして私の髪に触れる。やわやわと手触りを確かめ、ぽつりと言った。


「ハレムに入る時は新しい名を冠するものだ。〝ライラー新月の夜〟。こう名乗るといい」

「……どうしてあなたが名づけるの?」


 素直な疑問をぶつけると、男はクツクツと楽しげに笑った。


「ああ! ここにいましたか!」


 カマールが戻ってきた。

 ドカドカと部屋に入ってきたかと思うと、心底くたびれた様子で一息つく。


「ようやく乱闘が収まりましたよ。イェニチェリには困りますね。さあ、買い手のもとへ行きましょう。時間がないのですよ。奴隷を献上するにも準備が必要です」

「そうね。わかった」


 ふいに後ろを振り返ると、男の姿はすでにない。煙のように消えてしまっている。窓から出ていったのだろうか。壁かけの一部がゆらゆら揺れていた。


 ──あの人はなんだったのかしら。名前もけなかった。


 ぼんやり窓の外の景色を眺めていると、カマールがげんな声を上げた。


「どうしました。まだハレムに行きたくないとごねるつもりですか。そもそも、奴隷のあなたに拒否権なんて──」

「いいえ」


 ゆっくりと振り返り、私をさらってきた奴隷商を見つめる。


「ハレムへ行くわ」


 覚悟は決まっていた。私の態度にカマールは首をかしげている。


「どんな風の吹き回しですか」

「さあね」


 質問をかわして部屋を出た。男たちの注目が集まっている。ふわりとヒジャーブを頭からかぶった。しつけな視線にも臆さない。なにも怖がる必要はないのだ。

 私はハレムで自由を手に入れる。

 いつか故郷へ戻るのだ。

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