二章 和の国の姫君、ハレムへ行く ―①
アレハンブルに到着して一ヶ月ほど
私の買い手はイェニチェリの高官だ。奴隷市場で最初にやり取りしていた男である。男は邸宅でさまざまな教育を私に施した。主に筆記や宗教の知識、礼儀作法に関してだ。
ダリル帝国は宗教国家だった。すべての規範に一神教の教えが組み込まれている。
一神教では、同じ信徒を奴隷にできない。結果、外国人が奴隷として連れられてくるのだが、ハレムへ入れる前に最低限の教育を施すのが普通だった。奴隷は
ハレムには、五百人もの女性が囲われていた。当然だが、それぞれ贈り主にあたる人物がいる。貢ぎ物となった奴隷がスルタンに気に入られ、
「ライラー。明日にはハレムへ行ってもらう」
「かしこまりました」
従順な態度で頭を下げれば、男は満足そうに笑う。
〝ライラー〟というのは私の新しい名前だ。
例の男がつけたのと同じ。黒く美しい髪を
改名のきっかけは、ハレムに入るにあたり強制的に改宗させられたからだ。
奴隷にする人間が同じ神を信じていると都合が悪いのに、自分たちの家へ受け入れるためには、信じる対象を同じにしろという。実に身勝手な話だ。
とはいえ、不満には感じていなかった。違う名で呼ばれようとも私は私だ。
どんな場所で生きようとも、どんな神を信仰しようとも。なにも変わらない。
両親からもらった名前をそっと胸の中に仕舞い込む。
気分は上々、やる気に満ちあふれていた。
──ともかく、目的ははっきりしている。
ハレムで
できればスルタンには近寄らない。万が一にでも子を
──そもそも、おおぜいの女を囲っているのが気に入らないのよ。
私にとって後宮といえば
しかも、光源氏が
末摘花は器量がいいとは言えない姫君だ。光源氏は、貧しい末摘花に援助をしながらも、一方では容姿をからかう絵を描いて
──スルタンも似たような遊び人に違いないわ。
理想の男性像は父だ。筋が一本通った武家の男。平安貴族のような男は願い下げだった。ぜったいに会わないで過ごすと覚悟を決める。
ともかく、おおぜいの女がひしめくハレムで、自分なりの居場所を見つける必要があった。お
「いろいろと苦労するかもしれませんが、私なりにがんばってきます」
──あなたの昇進に寄与するつもりはないけれど。
本心を隠して笑みを浮かべれば、男は苦笑をもらして言った。
「まあ、気楽に行け。努力しなくとも、すぐにそれなりの地位まで行けるだろう」
「……どういうことです?」
「アイツがお前を選んだんだからな。当然だ」
意味深な言葉だった。なんだか不穏な気配がする。
*
翌日、いよいよハレムへおもむくことになった。
馬車に揺られて小一時間。車門を抜ければ──そこはすでに許された者しか滞在できない秘密の花園。バトラ宮殿だ。
案内されて立ち入ったのは、大きな
あまりにも
壁一面に青い
「ああ。待ちかねたぞ」
噴水の前でとある人物が待ち構えていた。夜更けの空に似た肌を持っている。男でも女でもない。
「私が
「よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げれば、宦官長はゆるりと目を細めた。
「なるほど。聞いたとおりだな。
宦官長は「ついてこい」と歩き出した。小走りで後を追う。
──これから大部屋に案内されるのだろうか。
新入りは
──ここが正念場だ。
心臓が高鳴っていた。目立たず、近しい人間によい印象を与えなければならない。
──でもなあ。
不安が拭えない。同年代の女性と友人付き合いをした経験がないからだ。
昔から、城にこもって稽古や勉学に励んでばかりいた。そもそも為政者の娘である。おいそれと国から出られず、似たような境遇の女の子と遭遇する機会自体がまれ。母が若い頃は、寺院に参拝するため遠出したりしたそうだが……。
──世が乱れてからはそれどころじゃなかったし。
民にはもちろん若い娘もいたが、身分が違った。相手が気を遣わないはずがない。無意識に居丈高な態度をとっていたとしても「姫様だから」と許されていただろう。
もし、うっかり同じアジェミにひどい態度をとってしまったら……?
──まずい。まずいわ。すっごくまずい。
冷や汗が止まらない。懸念すべきはもう一点あった。
──そもそも掃除洗濯の経験がない!
腐っても姫である。雑巾がけすらした記憶がなかった。
どう考えても役立たず──
掃除すらできない奴隷に価値はあるのだろうか。前途多難である。
──このままじゃ
ほんのり吐き気をもよおしながら歩いていると、宦官長が立ち止まった。
「お前の部屋はここだ」
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