二章 和の国の姫君、ハレムへ行く ―②

 ポカン、と口を開けたまま固まる。


「ここですか?」


 確認すれば、「そうだ」と宦官長がうなずく。

 案内されたのは、先ほどの広間からそう離れていない場所だった。

 どう見ても大部屋ではない。こぢんまりとした部屋の壁には玉飾りが刺繡された壁かけが飾られ、天鵞絨ビロードとばりがゆらゆら揺れていた。豪奢なじゅうたんの上に陽が散っている。露台からは広大な中庭が望めた。鏡台の上には宝石箱。奥には天蓋つきの寝台まである。

 ぜいたくな部屋だ。まるで特別な人を囲うためにあるような──


「……もしかして個室?」

「個室だ」

「????」


 首をひねってしまった。なんでだ。私も立場上はアジェミだろうに。


「大部屋がいっぱいなのかしら……」


 不思議に思っていると、ひとりの女性が近づいてきた。やや癖っ毛の髪。栗色の瞳の若い女性だ。頰に散ったそばかすがわいらしい。宦官長は彼女を淡々と紹介した。


「お前のために女中を用意した。頼るといい」

「デュッリーと申します」

「…………は?」


 そばきの女中ですって?

 意味がわからず固まっていると、宦官長は「後は頼む」と去ってしまった。

 なんの説明もない。ぼうぜんとしていれば、デュッリーが笑みを浮かべた。


「改めて挨拶するわね。デュッリーよ。どうぞよろしく」


 気さくな言葉にたじろぐ。主人への態度とは思えないが──


 ──なんて返事をすればいいの。


 怒るべき? いや、いきなりそれはない。ハレムの常識なんて知らなかった。

 和の国では考えられないが、ここでは当たり前なのかも……?


 ──ああもう! なんにもわからないわ!!


 混乱の極致に陥る。デュッリーは不思議そうに小首をかしげた。


「緊張しているの?」


 そばかすが散った顔を親しげに緩めた。里の民がまとう雰囲気に少し似ている。

 こくりとうなずきを返せば、ぱあっと表情を輝かせた。


「なんの遠慮もいらないのに。それよりも! 聞いたとおりの美人さんねっ!」


 グルグルと私の周囲を回っては感嘆の声を上げる。

 顔を寄せ、手を取っては笑顔になった。


れいな黒髪! すっごいわ。これって染めたわけじゃないのよね?」

「え、ええ……」


 ようやく声を絞り出せば、デュッリーはますますうれしげに言った。


うそ。信じられない。最高だわ。きゃしゃな感じがそそるわね〜! 顔つきだって神秘的で素敵。こりゃあどんな男もイチコロだわね。うんうん、これだったら……!!」


 ムフフ、とデュッリーはほくそ笑んでいる。

 にぎやかでいぬのような無邪気さがある。人懐っこい感じがして好印象だ。


 ──この子となら上手うまくやれるかも……?


 そんな気がしつつも、素直に喜べない自分がいた。


「ね、ねえ、デュッリー。私はアジェミじゃないの?」


 普通は大部屋から始まるはずだ。いきなりそばづかえができはしないだろう。それこそ高位のジャリエでもないかぎりありえない。

 ──目立つわけにはいかないの。普通の待遇がいちばんなのに……!

 必死に違和感を伝えると、デュッリーは悪戯いたずらっぽく目を輝かせて言った。


「あなたに見習い期間はないらしいわよ。特別だから」

「……特別?」

「ええ! そうよ」


 謎が深まっていく。そんな扱いをされる覚えはなかった。


「どういうことか説明してくれない……?」


 混乱のあまり心細くなった。そろそろとたずねればデュッリーが眉尻を下げる。


「私もよく知らないのよね。そういう風に扱えって命令されただけで──」


 ぱちり。茶目っけたっぷりに片目をつむる。


「ま、そのうちわかるんじゃないかしら」

「…………?」


 どうなっているのだろう。

 不安を覚えていると、デュッリーは私の手をギュッと握った。


「来たばかりだもの。心細いわよね。大丈夫。お世話は任せて。なんでも言ってよ。ライラーが気持ちよく過ごせるようにする。私ね、あなたみたいな人を待っていたの」


 温かい、陽だまりみたいな言葉だった。じんと胸にみて緊張が和らいでいく。


「じゃ、じゃあ仲良くしてくれる?」

「もちろんよ!」

「いろいろ教えてね。お掃除や洗濯の仕方も。どうすればいいかわからなくって」

「──やだ。掃除洗濯がわかんないの? どこのお姫様よ!」


 心臓が軽く跳ねる。彼女は悪戯っぽく目を輝かせて続けた。


「なにも心配する必要はないわ。あなたのお世話は私の仕事。ぜんぶ任せて!」


 屈託なく笑って「好きに過ごしてくれればいいのよ」とさえ言ってくれる。


「ライラーにしかできない役目ってものがあるんだからさ!」


 飾らない言葉に心からあんした。

 誰ひとり知り合いがいないハレムで、デュッリーの存在はまぎれもなく救いだ。


「ありがとう。どうぞよろしくね」


 そっと頭を下げれば、デュッリーはニッと無邪気に笑って言った。


「一緒にがんばろうね。私たちいちれんたくしょうじゃない!」


 ──さすがにそれは言いすぎじゃないかしら……。

 苦笑しつつもうなずく。


「あなたがお付きになってくれてよかった。デュッリー」


 満面の笑みを向ければ、デュッリーの頰がいろに染まった。


「ね、ハレムを案内するわ。これから生活する場所よ。知っておくべきだと思わない?」


 申し出に心が躍った。

 正直なところ、ごうけんらんな建物に興味がそそられて仕方がなかったのだ。


「ぜひ!」


 手をつなぐと、私たちはさっそくハレム探検へと出かけたのだった。

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