二章 和の国の姫君、ハレムへ行く ―③

 バトラ宮殿は迷路のように入り組んでいる。

 歴代のスルタンが、お気に入りの妾ができるたびに個室を作って与えた結果だ。


「隠し通路なんかもたくさんあるらしいわよ!」


 ハレム内を散策しながら、デュッリーがウキウキ話している。


ちょうの部屋はね、スルタンの部屋から直接行けるようになっているらしいわ!」

「なんのために?」

「そりゃあおうのためよ。素敵ね。一時も離れがたいんだわ……」


 デュッリーがうっとりと頰を染めている隣で、ひとり物思いにふけっていた。


 ──命を狙われた時に都合がいいのかしらね。スルタンにとっても寵姫にとっても。


 逃亡先としてちょうどよかったのだ。すべては身を守るため。そう思えば納得がいく。


「ハレムも安全じゃないってことね」


 隠し通路のひとつくらいは確保しておくべきかもしれない。スルタンでなくとも利用できる通路があるはずだ。有事の際に身を守る方法を考えておくべきだろう。


「どうしたの? 怖い顔してるけど」


 デュッリーがげんそうに私を見ている。


「え? あ? いやあ。アハハハハ……」


 上に立つ者は己の命を最優先して確保しなければならない。逃走経路の把握は基本中の基本。父や母からの教えだった。


 ──馬鹿ね。もう命を狙われるような立場じゃないのに。


 愛想笑いを浮かべて、改めてハレム内を眺める。


「相当に広いわね。豪華絢爛な建物がびっしりでめまいがしそう」

「そりゃあね! 帝国支配者の私的な場所よ? 貧相な造りじゃかっこうがつかないわ」


 中庭に出たデュッリーは東の方角を指し示した。


「あっちはかんがんの居住区。北には母后専用の礼拝所と浴場ハマムにお部屋。向こうにスルタンの居住区があるわ。ほら、豪華な丸屋根が見えるでしょう」

「奥にも建物があるけど……?」

「ああ、あれ?」


 デュッリーが困り顔になった。複雑そうな面持ちで建物を見つめている。


「──鳥籠カフェスね。亡くなった先帝の皇子が幽閉されている場所」

「幽閉!?」

「いまのスルタンになにかあった時のためにって、閉じ込めてあるんですって。代替わりがない限り、外に出ることもないそうよ」


 ──次代になんて仕打ちを……。


 全身の肌があわった。健全でない環境に閉じ込められた皇子は、役目が回ってきた際に機能するのだろうか。考えただけで恐ろしい。

 青白い顔をしているのに気がついたのか、デュッリーは苦笑を浮かべた。


「まだマシになった方なのよ。少し前まで、スルタンが変わるたびに長男以外の男児は皆殺しだったんだから。百人以上も子がいた時代は大変だったみたい。皇帝が死んだとたんにきょうかんよ! 男の子は絹で首を絞められ、妊婦は海に投げ入れられたとか……」


 あまりにも凄惨な事実に息をむ。異文化の壮絶さを受け止めきれないでいると、デュッリーがへらっと緩んだ笑みを浮かべた。


「過去の話よね。それよりも行きたい場所があるの。ここよりもずっと素敵な場所。浴場よ。もう、すっごいんだから! 設備のすべてが最高級! ついでに──」


 キラリとデュッリーの瞳が光る。


「ライラーを磨いておこうかなって」

「……へ?」


 ぺろり。舌なめずりしたデュッリーは、がっしと私の二の腕をつかんだ。ただならぬ雰囲気である。さながら獲物を見つけた猟師のよう──


「せっかくの美人さんなんだから、もっと綺麗になりましょうよ!」

「な、なななな、なに? 目つきが怖いんだけど!?」

「大丈夫。怖がらなくていいからね。すっごく気持ちいいのよ」

「ぎゃ、逆に不安になるのは私だけかなあ……!?」


 デュッリーはどこまでも強引だ。

 なにがなんやらわからないうちに、ハレムの浴場に連れ込まれてしまった。

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