一章 和の国の姫君、果ての地で決意す ―④

 男が動揺している。笑顔になった私は「すみません」と涙を拭った。


「別にいい。いろいろあるだろうしな」


 手巾ハンカチを差し出す。優しい男だ。奴隷に気遣いができるなんて。


「ありがとうございます。スルタンのハレムに入れると言われて動揺していたんです」

「──動揺?」


 不思議そうに首をかしげる。


「なにを戸惑う必要がある。奴隷ならばハレム入りは喜ぶべき事態だろう?」

「そうなのですか?」

「ああ」


 おうようにうなずいた男は、じっと窓の外を見つめた。気持ちのいい快晴である。穏やかな昼下がり。どこからか子どもの声が聞こえる。世界は柔らかな光にちていた。


「ダリル帝国は他に類を見ない強国だ。他国の男児には、みずから志願して奴隷になる者もいる。そこらの貧しい寒村よりか、よほどいい暮らしができるそうだ」

「自分から!? すごいですね」

「だろう? 女だってそうだ。皇帝のハレムともなれば多額の予算が割り振られる。頂点に上り詰めれば、どこぞの王族よりも豊かに暮らせるだろう。それに、今代のスルタンの見目は評判だぞ? 女どもはとしてハレム入りを望んでいるらしいが──」


 自嘲気味に笑った男は、私を見つめて言った。


「俺はかの王に似ているらしい。どう思う」


 ──どう思うって言われても。

 よくわからない問いかけに戸惑った。

 まあ、ご飯をご馳走してくれたのだ。これくらいは答えてもいいだろう。


「そうですね」


 コホン。小さくせきばらいをして、はっきり断言する。


「焦げたって感じです」

「は?」


 男の顔が引きつった。構わず持論を展開する。


「私の美的感覚からは、外れているという話ですよ」


 和の国では、少年の面影を残したまろい頰、涼やかなまなざしに薄い唇、たけだけしい馬を自在に乗りこなす武士こそが理想とされていた。そう、塩のようなあっさり感が好まれるのだ。その点で言えば、目の前の男は濃すぎる。焦がした味噌に砂糖をたっぷりまぶして、更にみりんを足したような力の入れようだ。

 整った顔をしているとは思うが──有り体に言うと、好みではなかった。


「ブハッ……!」


 素直な感想を口にすると、男は盛大に噴き出した。プルプル肩を振るわせている。よほど面白かったのだろうか。ぜんとしていると男は顔を背けたまま言った。


「み、味噌がなんなのかは知らないがッ……! アッハハハハ! 最高だな。世の中の女がすべてお前のようだったらいいのに!」

「どういう意味です?」

「いい男を見ると、女はすぐにしなを作ってくるからな」

「わあ……」


 ゾッとした。そういう女性がいるのは事実だが、自分に置き換えてみると鳥肌ものだ。


「容姿にどれだけの価値があるというんでしょうね」

「なぜそう思う?」

「だって、私は故郷でしことされていました。なのに、ダリル帝国では美女扱いです。場所が変われば揺らぐ程度の価値を重視するのは愚かでしょう」

「ほう? 美醜はわかりやすい判断材料だろうに。ならば、なにを基準とすべきだ?」

「実力です。それ以外に価値はありません」


 さらりと告げれば、男は再び盛大に噴き出した。


「ハッハハハ!! 違いない。だが、女の身でそれを口にするなんて」


 男の目がキラキラ輝き出した。興奮気味に顔を寄せてくる。


「誰の考えだ。お前か? 親か?」

「父です。醜女なのだから実力ですべてをつかれと。私も同じ考えです」

「まさにそのとおりだ。この国を見ろ。ダリル帝国は実力主義で栄華を摑み取ってきた。貴族主義の国々とは考え方が違う。一介の羊飼いですら将軍になれるんだからな!」


 勢いよく語り切った男は、好みの玩具おもちゃを見つけた子どもみたいに笑った。


「お前、面白い奴だな?」


 目をまばたく。なんとも不思議な男だった。

 自分でも奇抜な考えだと思うのに、こうも簡単に受け入れてくれるだなんて。


「でも──」


 そっとため息をこぼす。


「そう言っていられるのもいまのうちですよ。ハレムで……異国で生き延びるためには、私も男にびないといけない」


 ギュッと拳を握りしめる。気分がどんどん落ち込んでいく。


「しょせんは奴隷です。お金で売られていく運命なんですよ。実力なんてささいな問題でしょう? 自由な身分なんて夢のまた夢……」


 別れ際、母は自由になれと言ってくれた。だのに、これから行くハレムは閉ざされた世界だ。二度と出られない可能性だってある。

 死に目の願いすらかなえてあげられない。なんて親不孝な娘だろう。


「なにを言う。ハレムの奴隷は自由民になれるぞ」


 男の言葉にハッとした。

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