一章 和の国の姫君、果ての地で決意す ―③

「店の奥に隠れていて。騒動を収めてきます」


 そう言うと、カマールはどこかへ行ってしまった。

 奥まった路地にある店だ。やけに薄暗い。白っぽい土壁には鮮やかな壁かけが飾られ、床にはじゅうたんが敷き詰められていた。茶屋なのだろうか。銀の盆の上には、黒い液体が満たされたちゃわんが湯気を立てている。


「あの」


 どうすればいいかわからなくて、おそるおそる店主に声をかけた。白髪まじりのひげをたっぷり蓄えた老人だ。感情のこもらないいだ瞳を向けられて、思わず尻込みした。入り口近くで悠々と水たばこを吹かしているだけで、老人はなにも語ろうとしない。


 ──自由にしていいってこと? どうせ逃げられないと思われている?


 そろそろと周囲を見回す。

 客からしつけな視線を向けられて、市場での騒動を思い出してしまった。


 ──怖い。


 ヒジャーブをかき寄せた。奥に部屋があるのを見つけて、小走りで入っていく。

 畳三畳ほどの小さな部屋だ。幾重にもとばりがかけられていて奥が見えない。絨毯を踏みしめると意外なほど柔らかかった。感触を面白く思いながら、分厚く綿を入れた座布団クッションが敷き詰められた奥へと向かっていく。

 美しく織られた布をくぐった瞬間、誰かの瞳と視線がかち合った。


「誰だ」


 先客がいる。だるげな男が窓辺に寄りかかっていた。

 彫りが深い顔立ちだ。太陽に愛されたかのように焦げた肌、ツヤツヤした黒髪はゆるく結ってあり、けぶるまつげで彩られた瞳の色は、夏の山を思わせるみどりだ。大きな瞳、キリリとした眉は意志の強さを表しているよう。厚めでぽってりと柔らかそうな唇は、和の国の男に見られない特徴だった。

 外にいる男たちより、いくぶん薄着だ。精緻なしゅうが施された短い上着カフタンからは、素肌がのぞいている。男性らしい大きな骨格に、まったく無駄のない肉付き。鍛え上げられた肉体は、虎を思わせるしなやかさを持っていた。


「誰の許しを得て入ってきた」


 不機嫌そうに眉をしかめ、近くに置いてあった短銃へ手を伸ばす。


「あ、あの。えっと。私は──」


 慌てて両手を挙げた。まずい。変な場所に入り込んでしまった。

 じゃらり。てつかせが硬い音を立てると、男はピクリと片眉を上げた。


「奴隷か」


 単刀直入に問われてうなずく。げんな表情を浮かべつつも短銃から手を離した。

 視線は私を捉えたまま。警戒を解くほどではないが、害はないと判断されたのだろう。

 ホッと息をもらした。とりあえずは問題なさそうだ。


「お、お邪魔してすみませんでした。失礼しま──」


 場を辞そうとして、ぴたりと動きを止める。

 視界の中にあるものを見つけてしまったからだ。

 無造作に置かれた盆に料理が載っている。穀物と肉を混ぜ込んで炊いた料理だ。

 出汁だしで黄金色に染まったえんけいの穀物は、私が幼い頃から親しんできた食材だった。

 ああ! まさかこんな遠い地でも出会えるだなんて。


「──お米……!!」


 ごくりと唾を飲み込む。ぐううううっ! とおなかが空腹を主張し始めた。


「ひっ!」


 真っ赤になってお腹を押さえる。


 ──いやだ! 私ってばなにをしているの!!


 羞恥にもだえながら涙目になる。

 だって仕方がないじゃないか! この一年、まともにお米を食べられなかった。

 旅路でれる食事なんて限られている。硬い麵麭パンやら干し肉やら薄い汁ものやら……温かい食事だってまれだ。そこに米が現れたわけである。お腹が鳴るのも当然だ。

 米は和の国の主食であり心。人生、いつだってそばにお米があった。


 ──それにしたって。いま鳴らなくても……!


 ヘナヘナと膝をつけば、男が笑ったのがわかった。


「おい!」


 外へ向けて声をかける。なにやら指示を飛ばせば、店主が新たな盆を手に戻ってきた。私の前に置いて去る。そこには、白い湯気を立てたお米料理があった。


「……これは?」


 そろそろとたずねれば、男は不敵に笑って言った。


「羊の炊き込みご飯ピラウだ。食べたかったんだろう?」

「──! ありがとう! いただきます!!」


 礼を口にするやいなや、ヒジャーブを剝ぎ取って放り投げる。

 男の表情が動いた気がしたが、構わずに料理に手を伸ばした。


「んんんんん〜〜〜〜!!」


 ぱくり。ひとくち食べたとたんに身悶えした。

 遠い異国の料理だ。未知の味付けである。だが、なんとも言えぬ味わいがあった。

 特徴的なのは香辛料の使い方だ。辛みはなく、甘めの優しい味わいを複雑な香りがより豊かにしてくれている。もっちりしたお米には出汁がしっかり染みていて、口へ運ぶごとに鼻孔を香辛料の香りが突き抜けていった。中にはお肉がゴロゴロ入っている。いのししにくや野鳥とも違う味わいがあった。羊肉だ。じゅわっ! みしめるごとに肉汁があふれ出た。甘い脂が広がっていく。まあ美味おいしいのなんのって! これはいい。初めての味だが、ぜんぜんいける!


「……幸せ……!」


 あまりの美味にうっとりする。さじを動かす手が止まらない。

 遠い異国に来てまでごそうが食べられるなんて。

 ああ、美味しい。ご飯って美味しいなあ!


「あ──」


 ぽろり。涙がこぼれた。脳裏には父の言葉がよみがえっている。


『どんな時だって美味うまい飯さえ食えばなんとかなる』


 ──本当ですね、お父上。


 ずっと不安だった。涙すら出ず、まるで動かない心が怖かったのだ。体の中に別人を飼っているようで、いつか本当の自分が殺されるのではないかと恐ろしかった。

 だけど、ご飯がすべてをほぐしてくれた。心が活動を再開した気配がする。ほんの少しだけ、故郷ではつらつと過ごしていた頃の自分が戻ってきた気がした。


「おい……」

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