二章 和の国の姫君、ハレムへ行く ―⑤

 浴場に悲鳴が響き渡る。

 肌が真っ赤になっていた。涙がにじむ。はいだアダには腕毛がびっしりだ。


「痛い。なにするのよ!」


 思わず抗議の声を上げれば、デュッリーはニヤリと楽しげに笑った。


「ライラーのムダ毛、ずうっと気になっていたのよね〜!」


 ポン、と私の肩に手を乗せる。


「毛を処理しないのは罪なのよ。ライラー」

「はっ……?」


 半目になったデュッリーは、心なしか悟りきったような顔で続けた。


「日に何度か礼拝の時間があるでしょう。神と対面する時、私たちは清い身でなければならないの。清潔は義務なのよ。ムダ毛なんてもってのほか。処理しましょう!」


 ハッとして周囲の女性たちを確認する。

 誰もがツルッツルだ。ぜんぶ処理するのがダリル帝国では普通らしい。


 ──私の毛を? あの痛い奴で?


 ざあっと血の気が引いていった。

 これじゃ因幡いなばの白ウサギだ。

 怒ったサメに皮をはがされた時って、こんな気分だったんだわ!


「嫌……」


 じりじり後ずさるも、すぐに捕まってしまった。風呂釜役のみなさんだ。手際がよすぎだった。ちっとも動けない。これじゃぜんぶの毛を抜かれてしまう……!


「あ、明日でもよくない!? ハレムに来たばっかりなのよ、私!!」


 無駄だと知りつつも最後の抵抗をする。

 デュッリーは、ウサギを美味しく食べようとしているサメみたいな顔で言った。


「だ〜め! もうハレムの一員なのよ。最低限の作法マナーだわ。それに、今日中に処理しちゃわないと。だって──」

「まったく騒がしいですわね!」


 甲高い声が割って入った。知らぬ間に女性の一団がそばに立っている。


「他の人間もいるのよ。静かにしなさい」


 先頭に立った女性が居丈高に言った。

 取り巻きを引きつれやってきたのは、銀髪の美女だ。

 長い髪はほしくずをまぶしたように輝き、肢体はしなやかで、すらりと長い手足を持っている。秋頃の鹿のようにはつらつとして、水を弾く肌はみずみずしい。のうの瞳が美しく、ハレムに来てから目にしたどの女性よりも色白だ。


「ヤーサミーナ……!」


 デュッリーが険しい顔になった。私の耳もとでそっとささやく。


「スルタンにはべるのを許された愛妾イクバルよ。専用の浴場を持っている癖に。なんの用かしら」


 ハレムで暮らす女性たちにはいくつかの階級がある。

 最高位は母后。次にスルタンの子を成した夫人カドゥン。スルタンとねやを共にしたイクバル。その下に女官長ケトヒュダ・カドゥン女中頭ウスタ、女中、新参者と続く。

 今代のスルタンに子はない。愛妾が母后に次ぐ権力者だ。


「ヤーサミーナ様、ご機嫌麗しく」


 浴場にいた女たちが膝を折った。慌てて後に続きつつも、内心では苦く思っている。


 ──目をつけられた? これってすごくまずいんじゃ。


 脳裏では、源氏物語の冒頭の場面がよみがえっていた。ここで下手を打てば、桐壺更衣路線まっしぐらな予感しかしない。おそらく、気を引き締めるべきなのだろう。


 ──で、でもなあ。


「へえ。あなたが新人? 毛色が変わった娘が入ったと聞いたのだけど」

「はあ」


 緊張感に欠けた声がもれる。ヤーサミーナがげんそうに私を見つめていた。

 ……そう。すっぽんぽんで。


 お願いだから服を着てほしいなあ……!!


 心から思った。どうしてこう、ダリル帝国の人たちって開放的なの!?

 真面目な話をするなら、ちゃんとしたかっこうをしてほしい。

 必死に笑いの衝動を堪えていると、ヤーサミーナが嫌みったらしい笑みを浮かべた。


「間抜けな顔。絶世の美女と聞いたのに……。しょせんへきから連れられてきた野蛮人ね。パッと見は目を引くけれど。それだけだわ」

「な、なんですって!」


 デュッリーが怒りで顔をあかく染めた。ジロリとヤーサミーナににらまれて口を閉ざす。白く変色するほど強く拳を握りしめている。よほどかんに障ったのだろう。


 ──いけない。ここで騒動になったら、計画がすべて水の泡だ!


「落ち着いて。私はなんとも思ってないわ」

「ライラー……」


 すかさず声をかければ、デュッリーは苦しげに眉をひそめた。


「新入りの方はわきまえているみたいじゃない」


 したり顔になったヤーサミーナは、口もとをゆがめて言った。


「まあいいわ。あなた、わたしの下につきなさい。お付きにしてあげるわ」

「……お、お付き? どういう意味でしょうか」

「そのままの意味よ。今代のスルタンは控えめな方でね。女に手をつけたがらないの。母后が宛がった女性で、繰り返し閨に呼ばれている妾はわたしくらい。スルタンのお気に入りなの! そのうち子をはらむに違いないわ!」


 じわりと瞳に喜色がにじむ。こうこつにも似た陶酔が広がっていった。


「母后もお年でしょう? すぐにわたしがハレムの支配者になるわ。お気に入りの女中には、特別な配慮をしてあげてもいいわよ。そのかわり……」


 耳もとに口を寄せる。地をうような声でヤーサミーナは言った。


「出しゃばらないで。わたしとスルタンの蜜月を邪魔したら許さない」


 ドン、と強く突き飛ばされる。

 尻餅をつくと、ヤーサミーナの取り巻きたちがクスクス笑った。

 すうっと笑いの衝動が収まる。小さくため息をこぼした。


 ──こういう手合いってどこにでもいるのね。


 和の国にいた時もそうだった。私自身に災禍が降りかかった経験はないが、うわさだけは耳に入ってくる。女同士のゴタゴタは実にやっかい。刀を振るえないぶん陰湿だ。


 ──申し出を断ったらどうなるのかしら。


 ひやりとしつつも、頭の中はどこまでも冷静だった。

 母后が高齢なのは初耳だ。事実なら、ヤーサミーナの言葉が現実味を帯びてくるだろう。他人をおとしめる人間の下につくなんて反吐へどが出るが、目的を考えれば一考の余地はある。


 すっくと立ち上がった。

 背筋を伸ばし、ヤーサミーナのまなざしをまっすぐ受け止める。

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