二章 和の国の姫君、ハレムへ行く ―⑥
「……ッ! なによ」
「あなたの邪魔をするつもりはありません」
へりくだったりせず、ただ事実のみを告げる。まぶたを伏せ、ゆったりとした仕草で頭を下げた。敵になるつもりはない。お気になさらずと態度で示して反応を見る。このまま穏便にことが運ぶようなら、下についてみるのもいいだろう。
父がよく言っていた。
〝敵の情を知らざる者は不仁の至りなり〟と。
結論を急ぐ必要はない。
まずは懐に入り、内情を把握した上で、己の利にならないようなら──
──私は武家の娘よ。誇りにかけて侮辱した償いを受けさせてやるわ。
覚悟を決めた。未来の母后だと言ってはばからない相手をじっと見据える。
見極めてやろうじゃない。愚鈍な主人はいらないわ。
「なんなの」
ヤーサミーナの表情が歪んだ。
「なによその目つき! 気に入らない。少しくらいは擦り寄ってきたらどうなの。わたしを誰だと思っているのよ!」
──
彼女の周囲にはゴマをする人間しかいないのだ。
だから、自分に膝を屈しない相手が恐ろしくてたまらない。
「ギャアギャアうるさいわね。そもそも、邪魔をしているのはあなたの方じゃない!」
デュッリーが割って入った。私の横に立ち、声高らかに宣言する。
「いずれライラーの下に屈するのはあなたよ!」
──いや、なんの話?
私にその気はないのに、やけに自信たっぷりだ。
なんだろう。すごく……すごく嫌な予感がする……!!
デュッリーは頰をほんのり染めて、得意満面になって言った。
「聞いて驚きなさい! ライラーはお勤め初日にして母后に呼ばれているのよ……!」
「──は?」
すっとんきょうな声がもれる。声の主はヤーサミーナや取り巻きじゃない。私だ。
「初耳なんだけど!?」
慌てていると、デュッリーは茶目っけたっぷりに片目をつぶった。
「喜ばせようと内緒にしてたの。どう? びっくりした?」
「そりゃあ……」
むしろ吐きそうなくらいだ。あまりにも唐突すぎて頭が回らない。
浴場の女たちの間にも動揺が走っていた。誰もが小声でささやいている。
「いきなりお目通り? 異例だわ……」
「普通はそれなりに年季を重ねてからよね? 最低でも女中になってから」
「ヤーサミーナ様でさえ二年かかったっていうのに……」
よほどの異常事態のようだ。誰もが困惑を隠せない様子だった。
「見え透いた
逆にヤーサミーナは息を吹き返している。現実味が薄かったせいだ。水を得た魚のように生き生きとしていた。
「噓じゃありません。ライラーは特別なのよ。あなたとは違うの!」
「まだ噓を重ねるの? あまり賢くないのね。自分を窮地に追い込んでるってのに」
「愚かなのはどっちよ。夫人でもない癖に偉ぶってさ!」
「なんですってえ!?」
両者一歩も譲らない。顔がくっつきそうな勢いで睨み合っている。
──目立たないって決めたはずなのに……。
「け、
おそるおそる止めに入るも、まるで耳を貸してくれなかった。
なんでこんなことに……。
しょぼくれていると、見慣れない人物が近寄ってきた。浴場内だというのに衣服を着たままだ。やや年かさの女性は、私を見つけるなり眉をひそめた。
「ライラーですね。なにをしているのです。さっさと支度なさい。母后がお呼びです」
しん、と辺りが静まり返る。
誰もが
ヤーサミーナなんて、まん丸の目がこぼれ落ちんばかりだ。
「あの、あなたは?」
ドキドキしながら
「わたしは
「は、はいっ!」
デュッリーが女性と話している。事前に話を通していたのに、いつまで
「愚かな……」
事情を説明してもらった女性は、心底
「争うのはやめなさい。我々はスルタンの持ち物です。どんな時も誇りを忘れてはなりませんよ。ライラー、さっさと参上なさい。母后の怒りを買う前に」
淡々と告げた母后付き女中は、しずしずと浴場から出ていく。
あまりの衝撃で硬直している私に、デュッリーは笑顔を見せた。
「ごめんね。もっと早く終わらせるつもりだったんだ。さっきも言ったとおり、母后からお呼びがかかってるの。おめかしをして会いに行こう。
ちらりとヤーサミーナを見る。したり顔で続けた。
「そうしたら、そこの高慢ちきな女にでかい顔をさせなくてすむわ」
「ええ……?」
いきなり母后と会談? なにが起きているの。
めまいがする。思えば、ハレムに来てから違和感ばかりだった。
個室。お付きの女中。アジェミ期間はいらない発言……。異様なまでの厚遇だ。
何者かが裏で糸を引いている? いったい誰が……。
「なんなのっ! 特別扱いがすぎるでしょう? 誰か説明してっ!!」
ヤーサミーナの声が浴場内に響いている。
聞きたいのは私の方だった。
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