序章ー①
駆ける、駆ける、駆ける。
冬を終えた世界は緩んだ空気に包まれていた。新緑にあふれる山中。うららかな陽気を浴びながら、着物がはだけるのも気にせずに走る。気分は春に遊ぶカモシカだ。
世は戦国、群雄割拠の時代。和の国はどこもかしこも戦続きで疲弊しきっていたが、里は豊かだった。主君が善政を
山を下りて里に入ると、市は今日も盛況だった。商人と民が
「あらまあ。
「麦湯の材料を買いに! ついでに山菜を採ってきたのよ」
じゃらり。山菜が満載のかごの中で大麦の粒が鳴った。麦湯は母の好物だ。山菜もたんまり採ってきた。もうすぐ出産予定だから精をつけてほしかったのだ。
「ばあやには内緒にしておいてくれる?」
にっこり笑って言えば、仕方ないですねえと女がクスクス笑った。
「藤姫様!」
「姫様がいる!」
民たちが私の存在に気がついた。
「今日も城から抜け出したんですかい。困ったおひとだねえ」
「仕方ねえ。姫様を城に閉じ込めておくなんて殿様にだって無理だ。おりゃあ、藤姫様がちんまい頃から知ってるからな。間違いねえ」
男の言い草に、ぷうっと頰を膨らませた。
「私をなんだと思っているのよ」
「山中様んとこのおてんば姫ですが?」
「うっ……」
言葉を詰まらせると、ドッと周囲が沸いた。
さすがにひどくない? ……普段の行いを考えたら当然かもしれないけど。
変な顔をしていると、商人が近づいてきた。
「先日はありがとうございます。うちの子のために薬を用意してくだすって……」
「あら、この前の! どう? 熱は下がった?」
「そりゃあもう!」
ホッと胸を
「
感極まった様子にこっちまで目頭が熱くなった。丸い背中をポンと
「またなにかあったら言ってね。うちの民は、みんな家族も同然だもの」
「……は、はいっ!」
顔を赤らめた男にニコッと笑う。百姓の老人が寄ってきた。
「姫様、ひとつお願いが……」
「なにかあった?」
「田植えの時期だってのに、若い奴らが戦に取られちまって。人手が足りねえんです」
「わかった。人を集めるわ。田植えの音頭は任せて。得意なの!」
腕まくりをすると、老人は日に焼けた顔をクシャクシャにして笑った。
「おお! ありがとうございます。こりゃあ今年も豊作に違いねえ。姫様をいいように使ってと、いつか殿様に叱られそうだけどよ」
「あら。お父上が怒るはずがないわよ。国の礎となるのが米だもの。それに──」
にっこり笑う。田植えには楽しい遊びがついてくるのだ。
「田起こしした後、相撲勝負をするでしょう!? 私、すっごく楽しみで!」
ふんすと鼻息も荒く胸を張って言った。
「今年も負けないわ」
「まったく。姫様には
老人がからから笑う。ハッとして顔を赤らめた。
──私ったら! おてんばって言われたばかりなのに。
どうにも照れ臭く思っていると、向こうに特徴的な人物を見つけた。
「法師様! 今年も来てくれたのね」
ボロの僧服をまとった盲目の法師は、
「藤姫様。お久しぶりでございます。山中様のところは居心地がいいので、つい立ち寄ってしまうのです」
「本当?」
「ねえ、またお城へ
「いいのですか?」
「もちろん。お父上もお母上も楽しみにしてるもの!」
じわりと琵琶法師の目もとが
「どうしたの?」
「いえ……。この頃はひどい扱いをしてくる人間も増えましたから」
戦乱の世だ。あちこちで戦が起こり、いつ誰が死んでもおかしくない凄惨な時代。自分より弱く見える相手に
「安心して。私の目が届く場所ではぜったいにさせないわ」
力強くうなずく。
「お父上みたいに刀は振るえないけど、私にだって民は守れる」
それが上に立つ人間の役目。生まれた時からそう教えられてきた。
「本当にあなたは素晴らしい方だ」
琵琶法師がぽつりとつぶやいた。
「物事を公平に見てくださる。琵琶の手ほどきをしてほしがったり……我々を理解してくださろうとする。姫様ほどの方は他にいません」
「えっ? やだ。そんなことないわよ!」
ぽぽっと頰が熱くなった。照れ臭くって仕方がない。モジモジしていると「なに言ってんだ、姫様!」と声が上がった。気づけばおおぜいの民に囲まれている。
「こんなに下々に寄りそってくれる人はいねえよ。なあ!」
「そうよ! 藤姫様は私たちの誇り。自信を持ってくださいよ」
やんややんやと
「ありがとう。みんな」
「これで器量さえよけりゃな──」
しん、と辺りが静まり返った。ひとりの男が注目を集めている。
「なあに言ってんだい。姫様に対して、この馬鹿っ!!」
近くにいた女の手が
ばしん、痛そうな音。背中を叩かれ、涙を浮かべた男は苦し紛れに言った。
「なんだよ。みんなも言ってるだろ。うちの姫様は〝天狗姫〟だって!」
「それは──」
再びの静寂が訪れる。民たちの表情が引きつっていた。ちらちらと互いに視線を交わし合う。正直者が多すぎだ。冷や汗を流し、おおぜいが私の動向をうかがっている。
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