序章ー③

 数日後──

 無我夢中で山中を走っていた。心臓が破裂しそうだ。やぶを突っ切ったからか、手足はあちこち裂けて血がにじんでいる。汗が絶え間なく噴き出し、着物はあっという間に薄汚れて、野良仕事に使うボロと大差ないありさまだ。


「姫様! お早く!! さあ!!」


 ばあやがかしている。けれど、足を止めて振り返った。

 ぎゅうっと胸が苦しくなって視界がにじむ。木立の向こう、涙でよく見えない視界の中に、ごうごうと炎を噴き上げる山城と、黒煙に包まれた里の姿があった。

 父が戦から戻ってきた日からそうたないうちに、山中家を取り巻く状況は激変していた。懇意にしていた他家に裏切られたのだ。帝派の最大勢力の片翼、私が嫁ぐはずだった家が敵勢力に屈してしまった。革新派にとって、残る障害は我が家だけだ。尾田家は総力戦を仕掛けてきた。他領へ通じる道は塞がれ、孤立無援。多勢に無勢だった。気がつけばすべてが炎に包まれている。


『今生の別れだ』


 燃えさかる天守閣で、父は言った。


『嫌です! 共に戦います!!』


 抵抗を見せた私を押しとどめたのは母だ。

 薙刀なぎなたを手に、いつもどおりの優しげな顔つきで言い含めた。


『逃げるのです。ここはもう駄目』

『では、お母上も……!』

『わたくしは残ります。こんな体では敵も逃がしてはくれないでしょうし』


 大きなお腹をそっとさする。決意のこもったまなざしを私に向けた。


『息子はすでに脱出させました。残るはあなただけ。自由になりなさい。普通の女としてどこかで幸せになるのです』

『そ、そんなの無理です。私は、私は……』

『大丈夫だ。お前ならできる』


 父が手を伸ばしてきた。血と汗、すすで汚れた顔でニッと笑う。


『言ったろう? 藤姫は我らの誇りだ。強く生きられるように育ててきた』


 ゴツゴツとした指先が涙の跡をたどる。

 絶望のふちに立たされてもなお、父の瞳は輝きを失っていなかった。


『どんな時だって美味い飯さえ食えばなんとかなる。行け! 生き延びるんだ!!』


 ドンと突き飛ばされた。父と母は炎うずまく城内へと戻っていく。


『お父上、お母上ッ……!!』


 必死に叫ぶが、崩れてきたれきに遮られて、両親の姿は見えなくなってしまった。


『行きましょう』


 失意に暮れる私を連れ出したのは、ばあやだ。母の乳母をしていた人。最も信頼している教育係だ。隠し通路を通って裏山の中腹に出る。外の空気はひんやりと冷たく、熱風がうずまく城内とはまったく違った。


『逃げますよ』

『どこに?』

『帝のもとへ。きっとかくまってくれるはずです』


 ばあやと共に山中を駆けた。息が弾み、体じゅうが痛みを訴えている。

 思考は止めたまま、現実から逃げるようにひたすら走り続けて──いまにいたる。


「どうしてこんな……」


 ぽつりとつぶやいて涙をこぼした。なにも考えられない。いや、考えたくなかった。

 脳裏に浮かんだのは両親の姿。守らなくてはいけないと思っていた民の笑顔。

 ──すべて失ってしまった。なにもかも炎に包まれてしまった!

 煙の臭いがするたびに心がえぐられる。現実に理解が追いつかない。

 ──うそでしょう。これは夢よね? なんでこうなるの。

 喪失感、絶望感、悲壮感。あらゆる負の感情に見舞われて押しつぶされそうだった。


「大丈夫ですよ。ばあやがついておりますから」


 そっと手を握られて胸が苦しくなった。涙を優しく拭ってくれる。


「いつもの姫様らしくありませんよ」


 ばあやの言葉にはなをすすった。

 ──そうだ、私はおてんば姫じゃないか。メソメソなんて似合わない。


「そうだね。都へ行こう。落ち込むのはそれから」


 顔を上げて笑顔になる。強がりでもいい。ともかく気分を奮い立たせたかった。

 ドカッ!

 鈍い音がした。


「……あ」


 ばあやの顔がゆがむ。次の瞬間、どう、と勢いよく倒れた。

 いつの間にか見知らぬ男が忍び寄っている。汚らしいかっこうをした野盗だ。手には棍棒を持っていて「こんなところにいやがった」と男は下卑た笑いを浮かべた。


「いやあああああああああああ!!」


 わけもわからず悲鳴を上げれば、男はいらたしい様子で私へ手を伸ばしてきた。


「手間ァとらせやがって」

「きゃあっ!」

「暴れんじゃねえぞ」

「ひ、姫様、逃げて……」

「うるせえババア! てめえは黙ってろ!」

「ぐうっ……!」


 蹴られたばあやが沈黙する。あっという間に、猿ぐつわをまされて手足を縛られた。男は地面に転がった私をしげしげと眺めている。懐から人相書きを取り出す。女性の顔が描いてあるが──おそらく私だった。


「なあ。たぶんコイツだ。確認してくれよ」


 背後を見る。そこには異彩を放つ風体の人物が立っていた。


素晴らしいチョク・ギュゼル!」


 異国の男だ。病的に白い肌を持ち、海を思わせる青い瞳を持っていた。特徴的なのは服装だ。長布をゆったりまとい、頭には幾重にも布を巻き付けてある。


「東の果てマデ来たがありマシタね」


 カタコトの和の国語を操った男は、私の前に膝をついた。

 顎を持ち上げてしげしげと眺める。美術品を品定めするようなしつけな視線。

 満足したのか、男はゆるりと目を細めた。


「アナタを最も尊い方ヘノ贈り物に」


 衣をひるがえして立ち上がり、野盗に指示を飛ばす。

 ばあやは置き去りにして、私だけを連れていくつもりのようだ。

 手足を拘束された私になすすべはない。

 野盗の背から、轟々と燃える故郷の姿をぼうぜんと見つめることしかできないでいた。


 せいてんへきれき。この日から私の世界は一変する。

 異彩を放っていた男はダリル帝国から来た奴隷商だ。

 為政者の娘として、己の使命をまっとうしようとしていた矢先──

 見ず知らずの地で奴隷として生きるはめになった。

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