第13話 模擬戦
朝の冷たい空気がまだ漂う広場には、鍛錬に励む生徒たちの声が響き、活気に満ちていた。準備運動が始まると、それぞれが体を伸ばし、少しずつ動きを軽快にしていく。その中で、ノアはいつものように体をほぐし、リズムよく動作をこなしていた。
隣ではエミールが早くも息を切らして膝に手をつき、肩で大きく息をしていた。その姿を見たレオが悪戯っぽい笑みを浮かべながら、エミールの背中を勢いよく叩いた。
「ちょっと! やめてよ、レオ君!」
「エミール、まだ数周走っただけだぞ? 体力なさすぎだろ、お前。生まれたての小鹿だってもう少し堂々としてるぜ!」
「ぼ、ぼくは元々体力ないんだ! ほっといてよ!」
エミールは泣きそうな顔で反論するが、レオはお構いなしに笑い転げている。その様子に、カイが呆れた顔で二人に視線を向ける。
「そもそも、なんで毎日鍛錬なんてやらないといけないの? アカデミアってもっと知的なことをする場所じゃない?」
エミールがぼやくと、カイは肩をすくめながら皮肉めいた笑みを浮かべる。
「知らないのか? 初代賢人は筋骨隆々の戦士だったらしい。それに感銘を受けた弟子たちが『健全な精神は健全な肉体に宿る』なんて言い始めて、鍛錬が義務化されたんだとか」
「そんなぁ……」
カイの言葉にエミールが泣き言をあげていると、監督している教師から模擬戦の指示が下される。生徒がそれぞれ武器を手に取り、ペアを作りはじめる。レオはふっと笑みを引っ込めて、練習用の木剣を手に取りながらカイに挑発的な視線を送る。
「なぁ、カイ。こいつで勝負しようぜ」
「……またか? 仕方ない、乗ってやる」
カイは小さくため息をつきながら静かに剣を構える。対するレオは全身で気合いをみなぎらせ、雄たけびを上げつつカイに向かって突進した。周囲のまたかっという目線の中、彼らの競り合いが始まる。
「二人とも、本当によく飽きないね」
「いつも意味のない戦いをしている」
「ノア君、いつの間に……て眉間にめっちゃ皺がよってるよ?」
エミールがぼやきながら休んでいると、その隣にノアがいつの間にか現れていた。片手にはぶくぶくと泡を立てる、奇妙な色の液体の入ったカップが握られている。
「レシピ通りに作ったのにまずい、飲む?」
「気持ちは嬉しいけどやめとくよ」
エミールは引きつった笑顔で即答した。
寮生活が始まっておよそ一週間しかないが、エミールたちはノアの奇妙な行動に悩まされた。特に調理に関して、ノアは何かを作ることが多かったが、レシピとは異なる不思議な代物が出来上がることがよくあった。それが本人の気に入らないと、周りに押し付けるのがエミールたちの悩みの種だ。
この前、ノアの『特製ジュース』を大喜びで飲んだレオが医務室送りにされた以来、エミールたちはノアの料理に対して慎重に、いや、全力で警戒するようになっていた。
ノアはエミールの回答を特に気にする様子もなくもう一口飲み、微かに首を傾げる。
ノアは別にサボっているわけではない。模擬戦のペアはエミールになっているが、当のエミールは体力なく使い物にならない。結果として、模擬戦を終えた二人と戦うのがいつもの流れだった。
広場に響くレオのやかましい雄叫びを耳にして静かに戦いが終わるのを待っていると、ノアは背後から目線を感じた。振り返ると、白銀色の髪が太陽の光を反射して、本の表紙を飾りそうな青年が申し訳なさそうに近づいてくる。
「ノア君だったかな? 僕はエリオス。いつもの相手が今日は休んでしまってね、もしよかったら手合わせをお願いできるかな?」
その柔らかな口調と穏やかな表情には、不思議と人を信頼させる力があった。ノアは相手を観察し、内心で「誰でもいいか」と結論を出すと、軽く頷いた。
「いいよ」
「ありがとう! 助かるよ」
エリオスは顔を明るくし、感謝の意を込めて軽く頭を下げる。そして一歩後退すると、剣を中段に構えた。ノアも片手で剣を構えて相手の動きをじっと見据えると、エリオスは一度深く息を吸い込み、声を張り上げる。
「アンドロメデス・エリオス! これより参る!」
「……名乗った方がいい?」
「あ、これは僕の癖みたいなものだから、気にしなくていいよ」
エリオスは申し訳なさそうに微笑むが、その瞳にはすでに真剣さが宿っていた。剣を構え直した彼は、地面を蹴って一気にノアとの間合いを詰める。
広場の隅では、模擬戦を終えたカイが観戦しているエミールの隣に戻ってきた。エミールは戦況を見つめながら、小声でカイに声をかける。
「おかえり、カイ君。レオ君は?」
「あのバカ、女の尻を眺めて『おいおい、いい光景じゃないか』なんて言った直後に派手に転んで気絶したよ」
カイが肩をすくめながら答えると、エミールは少し呆れたように笑みを浮かべる。
「ブレないね、レオ君」
「全くだ。ここまで一貫してるなら、もはや感心すら覚えるよ」
カイは皮肉を言いながら、視線をエリオスとノアに向けた。
「それより、今どうなってる?」
「あのエリオスって人とノア君が戦ってるよ、戦う前に名乗ってたし、なんか凄い人だね」
「……まじ? 今の時代に名乗りを上げるやつがいるのか」
「ね、物語の騎士様みたい」
カイは半ば呆れ、半ば感心しながら、戦いの様子をじっと見つめた。
エリオスは初め、軽やかな動きでノアの反応を探るように剣を繰り出していた。しかし、ノアが冷静に対応し、一度も隙を見せない様子を目の当たりにすると、彼は驚きと満足が入り混じった表情を浮かべ、微かに頷いた。
「なるほど……やっぱり僕が見込んだ通り、やるね、ノア君」
その言葉には、小さな驚きと共に大きな喜びが含まれていた。エリオスの瞳には期待の色が宿り、剣の動きに徐々に速度と鋭さが加わる。一撃一撃は無駄がなく、まるで舞踏のように美しい剣筋を描きながらノアへと迫る。
ノアはエリオスの攻撃を丁寧にいなしながら、彼の隙を伺う。必要最低限の動きで間合いを保ち、時折鋭いカウンターを返す。その剣さばきには独特の癖があり、伝統的な両手剣とは異なるそのスタイルは、エリオスには新鮮に映った。
「前から君の動きを観察していたけど、両手剣には慣れていないのかな? あまり見ない動きだよ」
エリオスはカウンターを受け止めながら、興味深げに問いかける。
「昔、爺さんから習った」
会話を交わしつつも、攻撃の手を緩めない。ノアは攻撃を止められると即座に距離を取り、低く身を沈めて再び駆け出す。
剣戟の音は一層激しさを増し、二人の動きは互いを削るように鋭く、速くなっていく。そのたびにエリオスの表情には楽しげな笑みが浮かび、戦いそのものを心から楽しんでいる様子が伺えた。
「本当にいいよ! 君との戦いは楽しいよ、ノア君!」
エリオスの声が響いた瞬間、剣の交錯がさらに加速した。
「いてて、また負けちまったのか? うお、なんだ?」
「シー! レオ君、静かにして。今いいところなんだから」
気絶から目を覚ましたレオが、広場の真ん中で激しく剣を交える二人の姿を見て声を上げた。しかし、その声はすぐにエミールに遮られる。
隣でカイが腕を組みながら、真剣な表情で戦いの行方を見つめている。周囲の生徒たちも次第に動きを止め、誰もが二人の剣戟に目を奪われる。
いつの間にか、広場には二人の剣が交わる音だけが響く。
「これも対応するのか……素晴らしい! 君との戦いは心が躍るよ!」
エリオスは攻撃をいなされた瞬間、さらに高揚した声を上げた。その瞳は、無邪気に喜ぶ子供のように輝く。
ノアとの戦いがもたらす緊張感はエリオスを興奮させた。ノアの動きには無駄がなく、その攻撃は一撃で敵を仕留めようとするものであった。それは、エリオスに単なる訓練であると忘れさせ、一歩間違えれば死に直結する命のやり取りをしている錯覚を抱かせた。
一方でノアは戦いの中でふと我に返った。
……なんでこの人、こんなに興奮してるんだろう……それに、僕は何で本気で戦っている?
ノアはエリオスの様子を見ながら、心に疑問が浮き始めると、エリオスの表情がふと変えて剣を構え直した。今までの無邪気な喜びが一瞬引っ込み、代わりに静かな覚悟が滲む。
先ほどまでの軽やかさとは一線を画す、人を窒息させるような緊迫感が広場全体を包み込んだ。ノアはその変化に即座に反応し、警戒を強めて動きを止める。
「――君に敬意を込めて、僕も本気で行くよ」
その言葉と同時に、エリオスの瞳が鋭く光る。
エリオスが剣を上段に構えた。
それだけノアはノアの全身が警鐘を鳴らし、本能が叫んだ。
次の刹那、エリオスが動いた。
その速さは常理を逸し、ノアは目で捉えるのが精一杯だった。練習用の木剣には微かな光が宿り、軌跡がぶれ、幻影のように見える。
一撃目の斬撃反射的に受け流し、その重さに思考が追いつく暇もなく、第二撃が鋭く迫る。流れるように繋がる攻撃――隙は皆無。エリオスの目は静寂そのもの。人が訪れない森の奥の泉のように、一切揺ぎがない。
ただ、目の前の敵を敵を倒そうとする闘志があるのみ。
ノアは本能のまま攻撃をいなし、反撃の隙を探る。しかし、その剣圧に晒されるたびに、心の奥に眠る殺意が揺れ動く。周りのざわめきも、止めに入ろうとする教師の声も、全て聞こえない。
目が冷たくなり、脳裏に任務のこと、ヘレナの教え、爺さんの顔が駆け巡る。
――押さえろ、落ち着け。
暗器を投げ付けようとする衝動を抑え、ノアはとっさに片腕を振り上げ、無理やりエリオスの一撃を受け止める。木剣が直撃した瞬間、衝撃が全身を駆け抜け、ノアの身体は宙を舞う。地面を転がりながら素早く受け身を取ると、広場に遅れて悲鳴が響く。
「ノア君!」
エミールたちが駆け寄り、ノアを囲むように立ちふさがる。その場の空気が一変した。エリオスはエミールたちの怯えと敵意を孕んだ視線に、戦いの熱を一瞬で冷まされた。やり過ぎたことに気づいた彼は青ざめた顔で駆け寄ろうとする。
「来るんじゃねぇ!」
「これ以上近づくな!」
レオとカイが即座に剣を構え、エリオスの前に立ちはだかる。エリオスは空中に手を伸ばしたまま固まり、仕方なく立ち止まる。
「……軽傷だ、問題ない」
ノアは拳を軽く握り開きながら腕の具合を確かめる。経験から骨にわずかにひびが入った程度と判断し、二人を止めようとする。
しかし、ノアの冷静な態度とは裏腹に、エリオスは何かを思い詰めたような表情を浮かべる。そして突然、レオとカイを素早くすり抜け、ノアを抱き上げた。
「なっ――」
「すまない! 君たちにも後で謝罪する! どんな罰も甘んじて受けよう。ただ、まずは医務室だ。この時間なら診てもらえる!」
「……いや、自分で歩け――」
「世界の根源は風――『四象原則:風』!」
ノアが言い終わる前に、エリオスは強引に呪文を唱えた。呪文の言葉と共に、エリオスの身体が風を纏い、一気に駆け出す。
……こういうのはカイの方が似合うと思う。
ノアは抱えられたまま、内心でそんなどうでもいいことを考えた。そして、まあいいか、と静かに受け入れた。
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