第14話 医務室

 エリオスはノアを抱えたまま校内を駆け抜け、医務室の扉を勢いよく開け放った。そのまま飛び込むように中に入ると、大きな声で叫んだ。


「ルーカス先生!  怪我を診てください!」


 医務室の奥で朝食を取っていた、少しくたびれた様子の女性が、スプーンを持つ手を止めた。振り返った彼女の目が驚きに見開かれ、やがて静かにカップを机に置いた。


「ルーカスは過労で休養中よ。代わりに私が診るわ」

「イレーネ先生!」


 エリオスは彼女の姿を見て、ほっとしたように肩の力を抜いた。しかしその隙をついて、ノアは彼の腕の中からスルリと抜け出し、何事もなかったかのように待機用の椅子に腰を下ろした。エリオスをじっと見つめるノアの視線には淡々とした圧力があり、エリオスは居心地悪そうに苦笑を浮かべた。


 その様子を横目で見ながら、イレーネは乱れた髪を適当にまとめる。


「それで、何があったの?  その慌てぶり、魔法生物にでも呪われたのかしら」

「いえ、朝の鍛錬で怪我をしてしまって……!」


 エリオスの言葉を聞くと、イレーネは理解したように頷き、額に手を当てて深いため息をついた。


「あぁ、この時期はいつものことね。慣れない新入生が張り切って怪我をするのよ。もう少し経てばサボり癖がついて、こんなことも減るんだけど……それにしても、エリオス、あんた上級生でしょ?」


 エリオスは気まずそうに視線をそらし、口元を引き結んだ。イレーネは呆れたように肩をすくめ、ノアの方に歩み寄った。


「さて、坊や。動かないでちょうだい……万物は数で構成されている――『分析』アナライズ


 イレーネの右目に、小さな円形の魔法陣が浮かび上がり、その中で微細な数字が絶えず変動を続ける。エリオスは緊張した顔持ちで、その様子を見守った。


「先生、怪我はどうでしょうか」

「骨に少しヒビが入ってるわね」


 イレーネは淡々と答え、ノアの肩に軽く触れながら付け加える。


「冷やして固定して、薬を飲めば三日ほどで治るわ。大したことじゃないけど、無理はしないでちょうだい」


 エリオスが自責の念に駆られてうつむいていると、イレーネは一枚の紙を差し出した。その紙には、薬草の配分や、それらが保管されている棚の位置が細かく記されていた。


「先生、これは……?」

「骨折薬のレシピよ。作り方は授業で習ったはずよね?  罪悪感で突っ立ってる暇があるなら、さっさと手を動かしなさい」

「はい……!」


 エリオスは感激しながら頭を下げ、急いで薬の調合に取り掛かった。その様子をちらりと確認したイレーネは、吸熱結晶と包帯を手に取り、ノアの処置に取りかかるため彼の方へ向き直った。


「自分で袖を捲れる?」

「捲れる、ちょっと待って」


 ノアは袖を捲る前に、そこからいくつかの物を取り出し始めた。コイン、針と糸、小さな包み、そして砂糖菓子――次々と現れるアイテムに、イレーネは最初こそ何も思わなかったが、砂糖菓子を取り出したところでついに口を挟んだ。


「ちょっと、あなた普段何を持ち歩いてるの?」

「……?  日常品」

「……そのコインは?」

「すぐに支払いをするため」

「針と糸は?」

「服が壊れたら縫う」

「……そこにいくつもある包みと砂糖菓子は?」

「茶葉。それと、僕は甘党だ」


 ノアが粉々になった砂糖菓子を見て眉を悲しげに曲げる様子を見て、イレーネは自分の常識が揺らぐのを感じた。

 

「今の若い子ってこんな感じなのかしら……?」


 少し黄昏れながらも、話が逸れたと感じた彼女は気を取り直して手当てを始める。


「少し痛むけど我慢してちょうだい」


 そう言いながらイレーネは手慣れた様子で作業を進めた。一方ノアは、静かに医務室の中を観察する。

 白を基調とした清潔な空間。仕切りカーテンで区切られたベッドが並び、時折呻き声が聞こえる。奥にある机には古びた書籍が山積みにされており、その隣の空いたスペースではエリオスが薬の調合に集中している。部屋の隅には、大きな布で覆われた像がいくつかあり、不気味な存在感を漂わせていた。


「ルーカスがいれば、痛みも感じさせずに処置できるんだけどね……ふん、それが気になるの?」


 イレーネは処置を終え、ノアの視線に気づくと、眉をひそめて尋ねた。ノアが答えるよりも早く、彼女は布で覆われた石像の方に目をやりながら話を続けた。


「あれね。あれは、実験に失敗した馬鹿者たちよ。まったく、何の実験をやってるのか知らないけど、次々と運ばれてくる。不気味だって生徒たちの間でも評判が悪いから、こうして布をかぶせて隠してるのよ」


 イレーネはため息をつきながら、手際よく片付けを進める。そして、ふと思いついたように肩をすくめた。


「そんなに気になるなら、もっと近くで見てみる?」

「良いの?」

「構わないわ。別に減るもんじゃないし」


 イレーネの軽い言葉に応じて、ノアは無言で立ち上がり、石像の方へ歩み寄る。イレーネは石像を覆っていた布を掴むと、一気に取り払った。


 姿を現したのは、恐怖に歪んだ表情の老人たちの石像。どれも異様なほどリアルで、生きているような存在感を放っている。今にも動き出しそうなその雰囲気に、ノアは一瞬だけ目を細める。


 確かに、生徒たちが不気味だと嫌がるのも無理はない。


「普通の石化なら、私だって何とかできるのだけどね。こればかりはどの手段も効かない。おかげで治療法を探すのに、ここしばらくまともに休めてないわ」


 イレーネは目の下に濃いクマを浮かべており、血走った目がその疲労を物語っている。


「……生きているの?」


 ノアは石像の表面を軽く突きながら、静かに尋ねた。


「ええ、生きているわ。ルーカスが『分析』アナライズで調べたから間違いない。もし生きてなかったら、オークションに売り飛ばしてたでしょうけど」


 冗談めかした口調で笑うイレーネだったが、その目には冷静さの裏に潜む狂気が垣間見えた。ノアは彼女の言葉を冗談とは受け取れなかった。


「先生!  作り終わりました!」


 戻ってきたエリオスが、緑色の液体が入ったガラス管を手にして駆け寄ってきた。その光景を目にしたノアの全身に、凄まじい嫌な予感が走る。無意識に数歩後退し、武器を手にしようと袖に手を伸ばしたが――空振りだった。


 ……武器がない!


 ノアの警戒心あらわな態度に、エリオスは固まったまま困り顔を浮かべ、イレーネに視線で助けを求める。イレーネは大きなため息をつき、ノアを諭すように柔らかい声で話しかけた。


「効果は保証するわ。この薬を飲めば三日で元通りに治る。ただし……味は期待しないでね」

「まずそう」

「当然でしょう。『良薬は口に苦し』という言葉があるじゃない。男の子なら、鼻を摘んで一気に飲みなさい」


 ノアはしぶしぶガラス管を受け取り、しばらく見つめた。濁った緑色の液体は底なし沼を思わせ、漂う匂いは雑草と青虫をすり潰したようだった。ノアは目をそらし、心を決めると、目を瞑りながら勢いよく一口で飲み干した。


 ――ノアは生まれて初めて、盛大に顔を引き攣らせた。

 

 ……。


 

 エリオスがよろめくノアを肩で支えながら去るのを見届けると、イレーネは食べかけの朝食に手を伸ばした。だが、その瞬間、ベッドの奥から一際大きな呻き声が響き渡る。次の瞬間、まるで動く死体のように、よろよろと這い上がってくる男の姿があった。


「おはよう、ルーカス。目が覚めたのね」


 イレーネが穏やかに声をかけると、動く死体――アカデミアの主治医、ルーカスは頭を押さえながら彼女を睨み返した。


「……ああ、おかげさまで頭が割れるように痛ぇがな!」

「あら、そんな目で見ることないじゃない。私のおかげでちゃんと休めたでしょう?」

「頭をぶん殴って気絶させるという非常識なやり方でな! おかげで余計に寝込んだっての!」


 ルーカスは頭を振りながら、不満そうに呻き声を上げているベッドの生徒たちに目を向ける。


「うるせぇ! 安静にしてないと治るもんも治らねぇだろ!」


 生徒たちを怒鳴りつけた後、ルーカスは再びイレーネに向き直り、文句を続けた。


「それにしても、頭を殴るのはないだろ……せめて魔法で眠らせるとかさぁ……」


 イレーネは肩をすくめながら軽く笑い、ルーカスのぼやきには取り合わなかった。


「ルーカス、あなたには休みが必要よ。五日も寝ずに治療法を探すなんて正気の沙汰じゃない。あの時、あなたの顔に死相が浮かんでいたわ」


 イレーネは少し真剣な表情でルーカスを見つめ、そのまま話を続けた。


「それに、魔法も万能じゃない。あなたが一番よく知っているはずよ」


 ルーカスは手を止め、疲れた表情で目を細めた。


「分かってるさ……分かってるけど、俺がやらなきゃ誰がやるんだよ。原因は何なのかまだ分からねぇが、やつらが実験をやめる気配はない。この前だって三人が石になって運ばれてきた」


 そう言うと、ルーカスは大きな欠伸をしながら、椅子に腰を下ろした。


「それよりさ、イレーネ。俺の飯はどこだ? 腹が減って仕方ねぇんだよ」

「用意してないわよ。私の食べかけで良ければ、あげるけど?」

「……まぁ、ないよりはマシか」


 ルーカスは少し呆れたような顔をしながら、イレーネが差し出したパンを手に取る。噛みつきながら、軽く眉を上げて尋ねた。


「それで、さっきの奴らは?」

「ああ、鍛錬で無茶して怪我した新入生よ」


 イレーネが淡々と答えると、ルーカスはパンをもう一口食べながら納得したように頷いた。


「もうそんな時期か……張り切るのもいいけど、こうして医務室に運ばれてくるのは毎年同じだな」


 口元を緩めたその表情が、すぐに意地悪げな笑みに変わる。


「で、あれを飲ませたのか?」

「もちろん。骨折薬を飲ませたわ。感想を聞くまでもなく、とんでもない顔をしていたわよ」


 イレーネが肩をすくめて答えると、ルーカスは椅子の背もたれに身を預け、大笑いした。


「ははっ! そいつはいい! きっと次から怪我しないように気をつけるだろうよ。あの味を思い出すたびにな!」


 ルーカスの愉快そうな笑い声が医務室に響く。イレーネは半ば呆れた目で彼を見つめつつ、机の上を片付け始めた。


「相変わらずね、笑ってる場合じゃないでしょ」

「分かってるさ……おっと」


 ルーカスの視線が、不意に壁際の石像へと向けられる。彼の笑顔が一瞬だけ薄れ、目を細めてその石像をじっと見つめた。


「あの間抜けどもを見せたのか?」

「ええ、本人が見たいと言うから。少し変わった子よ」


 イレーネがあっさりと答えると、ルーカスは椅子から立ち上がり、パンをかじりながら石像に近づいた。


「ふーん……」


 彼は布の取られた石像をじっくりと観察し、軽く目を擦った。その仕草に、イレーネが首を傾げる。


「何か気になることでも?」

「いや……たぶん気のせいだと思うけどな」


 ルーカスは言葉を濁しながら、石像の袖口に視線を戻す。その部分がわずかに削れているように見えた。




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