第15話 エリオスの信念

 エリオスは顔色の悪いノアを肩で支えながら、人影のない廊下を歩いていた。アカデミアはまだ授業中の時間帯で、長い廊下には二人の足音だけが響いていた。

 二人の間に会話はなく、ただ気まずい沈黙が流れていた。エリオスはどう切り出すべきか頭を悩ませ、ノアはそれどころではない。胃がひっくり返るような不快感と戦いながら、吐き気をこらえている。


 しばらくして、ノアが立ち止まる。エリオスが慌てて体を支え直した。


「どうした?  ノア君」

「もう自分で歩ける」


 ノアは暴れる胃を抑えつつ、エリオスの手を退けた。長時間人に触れられることには慣れていない。ノアがそのまま離れようとすると、エリオスが声をかけた。


「待ってくれ」


 ノアが振り返ると、エリオスの顔に一瞬だけ葛藤と決意が交錯する。その直後、彼はスッと片膝をつき、深々と頭を垂れた。


 胸に手を当て、首筋――急所を晒すように低頭する、騎士が誓いを立てる時の儀礼を思わせるそれは、エリオスの知っている最上級の謝罪の仕方だった。


「……何をしている?」


 急に真剣な顔で片膝をついたエリオスの奇妙な行動に、ノアは首を傾げた。その問いを受けて、エリオスはそのまま頭を下げたまま言葉を紡ぐ。


「ノア君、本当に済まなかった。全て僕の責任だ……どうか許してほしい」

「……骨折のこと?  気にしていない。戦いじゃよくあること。それに、僕の方が弱かった」


 ノアの声は淡々としていた。だが、その言葉を遮るように、エリオスが真剣な声で答える。


「違う。それだけじゃない」


 エリオスは顔を上げた。その瞳には、どこまでも深い後悔と覚悟が宿っている。


「僕は久しぶりに全力を出せる相手を見つけて、舞い上がってしまったんだ。君との戦いが楽しくて……僕は我を忘れた。そして――君を殺すつもりで攻撃した」


 ノアはその言葉に動揺することなく、ただエリオスの瞳をじっと見つめた。その真っ直ぐな視線には、嘘偽りのない誠実さが宿っていた。


「僕は君を殺そうとしたんだ」


 その告白は静寂の廊下に嫌に響き渡った。


 ノアはエリオスの瞳をじっと見つめ、その奥底に隠された本質を探ろうとした。


「……僕は森で狩りをして生きてきた。その世界では、強い方が生き、弱い方が死ぬ。それが自然の摂理」


 静かな声が廊下に響く。

 

「命を奪うのは悪いことか? 違う。そうでもしなければ、生き延びられない。森では悪いのは弱い者の方だ」


 ノアの瞳には、普段の冷静さの裏に隠された感情の波がかすかに揺れていた。


「エリオスは強い、だから正しい。それがあるべき姿だと思う。なのに……どうして僕に謝る?」


 その問いには純粋な疑問と、理解できないものへの興味が込められていた。ノアは答えを求めるようにエリオスを見つめ、彼の言葉を待つ。


 エリオスはその問いに目を見開き、しばらく沈黙した。しかし、すぐに唇を結び直し、強い意志を込めた瞳でノアを見返した。


「……確かに、強いことは正しいかもしれない。けれど」


 エリオスは膝をついたまま、真剣な眼差しでノアを見上げていた。その静かな廊下に、彼の言葉が静かに響く。


「僕は、力を振るうことは守るためにあるべきだと信じている。戦いは手段であって、目的ではない。力を持つ者がその力を正義や弱者救済のために使う……それが、人を人たらしめるものだと僕は思う。だけど君との戦いの中で、僕はその信念を忘れてしまった。君をただの敵として見てしまい、無意味に命を奪おうとしてしまった。それが……僕の間違いなんだ」


 彼は一度深く息を吸い、胸に手を当てて誠実に続けた。


「ノア君、僕は君を傷つけることで、自分が信じるものを裏切った。だから、君に謝らなければならないんだ」


 その言葉には、迷いのない覚悟が滲んでいた。その真っ直ぐな瞳に込められた誠意が、ノアにも伝わってくる。


 ノアはしばらくエリオスを見つめ、ぼそりとつぶやいた。


「……それは、騎士道精神ってやつ?」


 ふと、本で目にした単語が口をついて出る。


「そうだね。僕が信じているものだよ」

「……変わってるね、エリオスは」


 その言葉には批判も賞賛もなく、ただエリオスという存在を不可解なものとして認識したノアの正直な感想だった。エリオスは微かな笑みを浮かべ、膝をついたまま深く頭を下げた。


「そう思われても構わない。ただ、僕は自分の信じるものを貫きたい。それだけだ」


 ノアはしばらく考えるように沈黙した後、興味深そうに首を傾げながら尋ねる。


「それで、エリオスはどうしたい?」


 その問いには試すような響きがあった。エリオスは迷いなく答える。


「君を傷つけたことを後悔している。だから、どうすれば償えるのか教えてほしい。僕にできることがあれば、何でもする」

「……何でも?」

「そうだ、何でも」


 エリオスの瞳には揺るぎない覚悟があり、その言葉が本気であることを物語っていた。


 ノアは少し考え込むように視線を下げ、ポケットから一つの包みを取り出した。その中には、粉々になった砂糖菓子が入っている。


「さっきの戦いで、後で食べようと思ってたおやつが粉々になった。口直しに、たくさん買ってきて」

「……それだけで良いのか?」


 覚悟を決めていたエリオスは拍子抜けしたように目を丸くした。


「一番いいのを買ってきて。それと、食事に出されるものより美味しくないとダメ」


 ノアは淡々と告げながら、少しだけ眉をひそめる。その姿にエリオスは一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には声を上げて笑い出した。


「ははは! 君が考え抜いた答えが砂糖菓子だなんて!」


 自分に渡り合える強さを持つ、弱肉強食を信じる少年の願いが、甘い砂糖菓子だとは。エリオスにとって、それが可笑しくて仕方なかった。笑いながらも、ノアが差し出した手をしっかりと握り、立ち上がる。


「分かった。君が満足するものを必ず持ってくるよ」


 ノアは無言で頷き、二人は再び歩き始めた。


「まだ授業がある。行かないと」

「うん。それに、君の友達にも謝らないとだね」


 エリオスの言葉に、ノアは自分を庇った三人の姿が頭をよぎり、否定はしなかった。


「そうだ」


 廊下の出口に差し掛かったところで、ノアがふと足を止めた。そして振り返り、エリオスの方をじっと見つめる。


「もう一つ、聞いてほしいことがある」


 エリオスはその言葉に驚いたように目を瞬き、すぐに表情を引き締める。


「もちろん聞こう。砂糖菓子だけじゃ、僕も納得できない」


 彼の声には真剣な響きが宿っており、さっきの謝罪と同じ覚悟が込められていた。


 ノアはしばし考え込むように視線を落とし、やがて静かに口を開いた。


「剣を教えてほしい。両手剣は慣れない」


 エリオスはその言葉に一瞬固まった。願ってもない申し出だというのに、予想外の提案にどう応えていいか戸惑いが先に立つ。


「……良いのか?」


 ノアの言葉の真意を測るように問い返すエリオス。その声にはどこか狼狽が混じっていた。今回の件で二度と一緒に剣を交えることはないかもしれないと覚悟していただけに、信じられなかったのだ。


「エリオスの方が剣術が上手い。だから、エリオスに剣を習う。問題はないでしょ?」


 ノアは淡々と続け、さらに言葉を重ねる。


「……それとも、『何でもする』って言葉は嘘だった?」


 その問いには挑発とも取れる響きが含まれていたが、ノアの瞳にはどこまでも真剣な意思が宿っていた。エリオスはその視線を受け止め、一瞬息を飲む。そしてすぐに力強く返事をした。


「いや、嘘じゃない! 君が望むなら、是非とも教えさせてほしい!」


 その声には、安堵と喜びが入り混じっていた。エリオスは大きく頷き、胸を張る。


「そう、じゃあ鍛錬の授業の時、よろしく」


 ノアはあっさりとした様子でそう言うと、くるりと踵を返した。


「……あぁ、よろしく、ノア君!」


 エリオスは感極まったように力強く応じ、その声は廊下に響き渡った。

 

 

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