第12話 準備室での会話

 生徒たちは伸びをしながら席を立ち、ノートを片手に次々と教室を出ていった。その中で、ノアだけが教壇で教材をまとめているヴィクターの方へ静かに足を進めた。


「ヴィクター先生」


 短い呼び声に、ヴィクターは少し驚いたように顔を上げた。声の主を確認して、目を細めてしばし見つめる。


「おや、君は……ノアか?」


 一瞬考えるような間があったが、やがて彼がノアであると気づき、表情を和らげた。


「すっかり大きくなったな。昔の君の姿しか覚えていなかったから、一瞬わからなかったよ」


 ノアは軽くうなずき、何かを言いかけたところで、ヴィクターが先に口を開いた。


「わかっている。話は後にしよう。まずは場所を変えようか」


 そう言うと、ヴィクターは視線を教材の束に向け、手をかざしながら苦笑いを浮かべる。


「すまないが、これを準備室まで運ぶのを手伝ってくれるか。見ての通り、この足じゃなかなか不便でね」


 そう言って義足の片足を少し動かした。その動きには、わずかなぎこちなさが見える。ノアは無言でうなずくと、黙々と教材を手に取り、ヴィクターの後に続いた。


 アカデミアでは、教師一人ひとりに準備室が用意されている。その用途は教師によってさまざまで、単なる倉庫のように使う者もいれば、研究設備を整えた実験室にする者、あるいは居住空間のように快適に整える者もいる。


 ヴィクターの準備室は建物の端に位置しており、そこへ向かう廊下は人通りが少なかった。ひんやりとした静けさが漂い、二人の足音だけが響く中、並んで歩く。


 やがて準備室に到着すると、ヴィクターはポケットから鍵を取り出し、慎重に錠前を開けた。


「さあ、入ってくれ」


 錠前が小さな音を立てて開くと、ヴィクターは扉を押し開け、ノアを中へ招き入れた。


 室内には、大量の本や古い地図が散乱し、所狭しと実験器具が並んでいた。書きかけのメモには乾ききっていないインクが滲み、ヴィクターの忙しさを物語っている。壁際には古びたガラス瓶がぎっしりと並び、独特の香りが部屋全体を包んでいた。


「少々散らかっているが、気にしないでくれ」


 ヴィクターは肩をすくめて笑いながら、机から椅子を引いた。


「そこに座りたまえ。何か飲むか?」


「飲む」


 ノアが短く答えると、ヴィクターは棚から適当なガラス瓶を取り出し、いくつかの瓶から色鮮やかな液体を慎重に注ぎ始めた。液体は次第に混ざり合い、ドス黒く変色していく。とろりとした質感が現れたところで、ヴィクターはテーブルの袋から白い粉末を掴み、瓶の中に振りかけた。


 瓶の中の液体は急に沸騰し始め、勢いよく泡立つ。ヴィクターは素早く長いガラス棒を手に取り、手際よくかき混ぜる。数秒後、液体は鮮やかな金色に変わり、心地よい香りを放ちながら泡立ちが落ち着いた。


 ヴィクターは瓶をノアに手渡したが、ノアがそれを懐疑的な目で見ていることに気づき、くすりと笑った。

 

「これ飲めるの?」

「心配するな、私もよく飲むが、見ての通りぴんぴんしているだろう? なに、味は保証する」


 ノアは冗談めかして笑うヴィクターをじっと見つめてから、意を決して一口飲んだ。すると、その味に思わず驚いた。

 口に広がったのは、まろやかで心地よい甘さ。最初は蜂蜜のような濃厚な甘さが広がり、それがやがてシトラス系のさっぱりとした酸味へと変化する。微かに感じるスパイスの風味が味蕾に刺激を与え、飲み込むたびにほんのりと体が温まった気がした。


「思ったよりおいしい」

「だろう?」


 満足そうに頷いたヴィクターは、自慢げに胸を張りながら言葉を続けた。

 

「長年研究してたどり着いた究極の比率だ。名付けて『ヴィクタースペシャル』。金を積まれてもこのレシピだけは譲るつもりはない……もっとも、君になら無料で教えてもいいがね」


 ヴィクターが笑う横で、ノアは無言で瓶の中身を飲み干した。その姿を眺めながら、ヴィクターはふっと表情を引き締め、真剣な口調で切り出した。


 「三ヶ月ほど前、アカデミアで大規模な人事異動があった。歴史や考古学を教えていた教師たちが一斉に姿を消したんだ。それ以来、彼らを見かけた者はいない」


 ノアが静かに話を聞いていると、ヴィクターは立ち上がり、準備室の中をゆっくりと歩きながら話を続けた。


「さらに、医務室で奇妙な石像が運び込まれているという噂が生徒たちの間で囁かれていた。それを確かめるために医務室へ行ったところ、そこにあったのは行方不明になった教師がいた。いや、正確にいうと教師だった石像があった。医者に聞いたが、彼は『実験の失敗』としか答えない……その場で石像に付着した物質を採取しようとも考えたが、教廷の者がどこに潜んでいるかわからない状況では、下手な行動はできなかった」


 ヴィクターは一瞬足を止め、ノアを見つめた。


「アカデミアに隠された秘密の実験……その核心には秘宝があるのだろう。その秘宝は、人間を石に変える力を持っているようだ」


 ヴィクターの言葉が静かな部屋に響く中、ノアは冷静な表情でそれを受け止めた。だが、ヴィクターの目はノアではなく、どこか遠い過去を見つめるように虚空を彷徨っていた。


「秘宝……」


 彼は小さく呟くと、テーブルの縁に手を置きながら椅子に深く腰を下ろした。その声には説明というより、思わず感嘆が漏れ出たような響きがあった。


「暗黒時代を境に突如現れた、特殊な能力を持つ道具。その形は実にさまざまだ。剣や盾のような武具、あるいは片手で持てる鏡や指輪のような小さなものまで……どれも人智を超えた力を宿している」


 ヴィクターは指先で机の上の本を軽く叩きながら、淡々と続ける。


「秘宝が持つ力は計り知れない。失われた身体の一部を再生するもの。天候を操るもの……まさに神の業だ。それゆえに、秘宝を巡って国同士が争うことさえあるんだ」


 彼はふっと息をつき、苦笑いを浮かべながら頭を振った。


「私自身、暗黒時代の始まりには秘宝が関わっていたのではないかと考えている。ただの推測にすぎないが……文献を調べているうちに、いくつかの興味深い記述を見つけたんだ。もしそれが本当なら、秘宝は単なる便利な道具なんかじゃない。文明そのものを滅ぼしかねない、危険な代物だ」


 その言葉には、秘宝への警戒心だけでなく、未知を解き明かしたいという探究心が滲んでいた。

 ヴィクターはしばらく沈黙した後、再び口を開いた。


「最近、教廷が新しい動きを見せているという報告があった。やつらの狙いは、おそらくアカデミアに隠された秘宝だ。結社としては、秘宝を教廷に渡すわけにはいかない。だが、その秘宝が今どこに保管されているのか、まだ特定できていないんだ」


 彼は立ち上がり、ゆっくりとノアの肩に手を置いた。


「だから君の力を借りたい。私が動けば教廷の目に留まる可能性がある。しかし、学生である君なら、私より目立たず情報を集めることができるはずだ」


 教廷――初めて聞くその名に、ノアは一瞬考え込んだ。ヘレナは任務を説明する時教廷について触れなかった。なぜ情報をかくしたのか、ノアはヘレナの意図が掴めず、胸の中にわずかな疑念が浮かぶ。

 

「教廷って何?」

「むっ」


 ノアの問いに、ヴィクターはしまったっと、顔が一瞬こわばった。


「……それは、私の口からは言えない。ヘレナに直接聞いてくれ」


 ノアは黙ったまま、圧を込めた視線をヴィクターに向ける。だが、ヴィクターは苦い顔をするばかりで、これ以上の情報を口にする気配はなかった。ヴィクターから何も引き出せないと悟ったノアは、数秒考えた末、短く答えた。


「わかった」


 その言葉に、ヴィクターはほっとしたように肩の力を抜き、軽くノアの肩を叩いた。


「そうか。頼りにしているぞ、ノア」

 

 ヴィクターは話し終えると、ふっと場の空気が和らぎ、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「それにしても、大きくなったな。昔はあんなに小さかったのに、今ではこんなに立派になって……もう数年もしたら、君に背を越されるかもしれない」

「先生の話は相変わらずつまらなかった」

「……それは言わないでくれ、傷つくからな」

 

 冗談めかして笑うヴィクターに、ノアは静かに頷いた。その表情はいつもよりわずかに柔らかかった。


「ところで、隣にいた女の子は君の友達かい?  ずいぶん授業中に目立っていたが」

「……多分?」


 ノアが首をかしげると、ヴィクターは軽く笑いながら、さらに話を続けた。

 

「昔は本当に君に手を焼いたものだ。私の授業が退屈だと言って、君は森の中に隠れてしまったな?  一日中探し回ったが、結局君を見つけたのはエズラだった」


 エズラの名前が出た途端、ノアの表情は少し曇る。


「先生は……爺さんの最後について、何か聞かされてない?」

「……ああ、私も当時は別の任務に当たっていて、詳しい話は知らないんだ。戻ってきた時、エズラの訃報を聞いて、何かの悪い冗談かと思った。私はいまだにあの男がやられる姿を想像できない……」


 ヴィクターはノアを気の毒そうに見つめ、静かに答えた。ノアは小さく頷き、もうしばらく雑談をしたあと、準備室を出ようとする。しかし、扉に手をかけたところで、ヴィクターが声をかけた。


「ノア」


 その一言にノアは足を止め、振り返る。


「アカデミアで困ったことがあったら、いつでも訪ねてこい。任務のことでも、日常生活のことでも構わない。何年たとうとも、私は君の先生だ」


 ヴィクターの眼差しは深い信頼と優しさを湛えていて、ノアはその言葉に目を伏せるようにして「……感謝します」と答え、準備室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る