第7話 入学式の後

 入学式はクセノフォンの演説が終わった後も続き、ノアたちが集会場を出た頃には、アカデミアの白亜の建物は夕暮れに染まっていた。エミールたちは、他の生徒たちと共に寮へ向かってゆっくりと歩く。


「はぁー、やっと終わったぜ! ……お偉いさんたちってさ、なんでああも話を長くしたがるんだ? 『入学おめでとう』の一言で済ませりゃいいじゃねぇか」

「でも、格式のある式っていうのは、ああいう厳かさが大事なのかもしれないよ」

 

 レオが大きく伸びをしながら愚痴をこぼし、エミールが少し笑みを浮かべ、肩をすくめて軽くフォローするように答える。すると、カイが僅かにバカを見る目をレオに向けた。


「君みたいな人間には理解できないと思うけど、あれは立派な式典なんだ」

「なんだと?」

「簡潔にすればいいってわけじゃないんだ、こういう伝統行事っていうのは」

 

 カイは平然とした表情で続け、レオがムッとした表情でカイを睨む。再び小さな火花が散りそうになるのを見て、エミールは二人の間に入り、気持ちを和ませるように話題を切り替えた。


「まぁまぁ、二人とも……それよりも、二人はどんな授業を取る予定なの?」

「授業? そんなもん来週までに決めればいいだろ? 別に急ぐ必要なんてないしさ」

「……よくもまぁ、アカデミアに詳しいなんて自信満々に言えたもんだね」

「はぁ? じゃあお前はもう決めてるのか? てかどうした口調なんて変えて、気持ち悪いぞ」

「あ? 調子乗ってんじゃねーぞ、このクソッタレ」

 

 カイが一瞬鬼の形相になってレオを凄んだが、すぐに咳払いしてエミールの質問に答える。


「僕はちゃんと下調べしてきたら、古典文学と政治学を取るつもりだよ」

「ふん、気取ってやがるな」

「お前さっきから喧嘩売ってんだろ!? ぶちのめしてやる!」

「やれるもんならやってみろ!」


 二人が再び喧嘩に発展しそうになった瞬間、ノアの存在を思い出す。取っ組み合いを始めたら、またあの無言のコイン攻撃が飛んでくるという確信があった。二人は揃ってノアの方をちらりと見たが、そこにノアの姿はなく、いつの間にか静かに消えていた。


「あれ、ノアくんは?」

「……もう先に帰ったんじゃないか?」

「とりあえず寮に戻ろうか」

「……そうだな」

 

 不思議そうに頭を傾けるエミールに、二人は取っ組み合いをやめて返事する。三人は集会所を後にして、賑わう学生たちの流れに紛れながら、寮へと歩き出した。

 

 ――


 夕日が白亜の建物を深い茜色に染め上げる中、ノアはひっそりとした小さな森の中で、長く息を吐いた。周囲には人の気配はなく、ただ風に揺れる木々のざわめきと、鳥の囁きが静かに響いていた。

 

「……気持ち悪い」

 

 集会場には、万を超える生徒が集まっていた。

 ノアにとって、あの広間の人混みとざわめきは、慣れないものだった。人の気配がまるで重たい膜のように肌にまとわりつき、息苦しさを感じさせる圧迫感に耐えかねていた。最初はなんとか我慢していたものの、式が思いのほか長引いたことで心の緊張が限界に達し、終わる瞬間を待たずに逃げ出すように会場を後にした。


 夕日が徐々に傾き、空と地上を朱色に染める中、ノアは森の中で深く息を吸い込む。自然の中に身を置くことで、張り詰めた心が徐々に落ち着いていくのを感じながら、ふと入学式で壇上に立っていたクセノフォンと目が合った瞬間を思い出した。

 

「……偶然?」


 会場には無数の生徒がいた。普通に考えれば、あの場でクセノフォンと自分が目を合わせるなど、偶然のはずだ。けれども、ノアの勘は偶然ではないと感じ取っていた。


「まぁ、どうでもいいや」


 もう関わることはないと、ノアは気持ちを切り替え、辺りを見渡した。赤みを帯びた空は次第に濃く染まり、森は影と光が入り混じる幻想的な風景に変わりつつあった。


「……ん? ここ、どこ?」


 ノアは迷子になっていた。

 

 人が少ない場所を目指して無心で走り続けた結果、アカデミアの敷地内にあるどこかの森に迷い込んでしまった。地図も持っておらず、どの方向に行けばいいのかさえ分からない。

 ノアは数秒考え、困ったら高いところに登ろうという結論に至り、飛び移ろうと構えたその瞬間、森の静寂を破るように誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。


 ノアは反射的に気配を殺し、来訪者を観察した。夕日と同じ色の髪をした少女が森の奥から出てきた、アカデミアの制服を着ていることから、彼女も同じ学院の生徒であることがわかる。ノアは目を細めると、なぜか泣いた跡があるもの、集会場の道を尋ねたときと同じ人だと気づいた。


 ちょうどいい、道を尋ねようとノアは彼女の前に飛び降りると、少女は「ひゃっ!」と短い悲鳴をあげ、驚いて尻もちをつく。

 

「え、なに!?  木の上から飛び降りたの?」


 少女――エレニアは混乱した様子で、ノアが無表情で自分を見つめているのを感じると、慌てて涙の跡をぬぐった。


「今の忘れなさい! わたしが泣いていたなんて誰にも言わないで!」

「……? わかった」

「ほんと? 言いふらしたら容赦しないからね! ……っていうか、あんた」


 エレニアはノアを上からしたまじじろじろと見て、思い出したように手を叩く。


「大集会場に行こうとして女子寮に迷い込み、わたしに道を聞いたあと急に壁を登った新入生じゃない!  あんたたち、ちょっとした話題になってたわよ」

「 ……迷ったのはカイ。僕じゃない」

「どっちでもいいわよ。それより、また迷ったの?」

「うん」


 彼女は呆れた目でノアを見て、「仕方ないわね」と言いながらノアに歩み寄ると、彼が反応する間もなく、その手を自然につかんだ。


「……?」


 ノアは一瞬、知らない人間に触れられたことに戸惑った。奇妙なことに、いつものような警戒心がまったく湧かない。普段なら、他人に触れられたら反射的に攻撃するはずなのに、不思議とこの少女には構える気持ちが起きない。


 少女はそんなノアの様子を気にも留めず、彼の手を引っ張って歩き出した。


「アカデミアは広いからね、新入生が迷うのはよくあることよ。でも、心配しないで。わたしがしっかり寮まで連れて行ってあげるから!」

「……いや、自分で歩ける」

「ダメよ、はぐれたらどうするつもり? この森で迷うと大変なのよ」

「……感謝する」

 

 ノアは彼女をまるで奇妙な生き物を見るような目を向けた、どこか不思議な雰囲気をまとった少女のふるまいには、悪意も敵意も感じられない。むしろ、何かあたたかさのようなものを感じ取っていた。

 

「大丈夫!  わたし、あなたの先輩なんだから。アカデミアのことなら何でも知ってるんだからね!」

「……似たようなことを言った奴のせいで迷った」

「……災難だったわね」


 ふと、ノアはエレニアからなぜか懐かしさを覚えた。こんなふうに我が道を行く誰かを、かつて知っていたような気がする。彼女に手を引かれながら、ノアはその記憶をぼんやりと思い返していた。


 しばらくして、二人は男子寮の前に到着した。軽く走ったせいか、エレニアは少し息を整えながら立ち止まり、無表情で隣に立つノアと一緒にいるところを、通りすがりの生徒たちが興味津々の様子で見ていた。

 

「つ、ついたわ……!  それにしても、あんた体力お化け?  木から飛び降りるし、息ひとつ切れてないじゃない。どう鍛えたらそうなるのよ?」

「……山育ちだから?」

「すごいわね、山育ちって……じゃあ、わたしはここまでよ」


 エレニアは満足げに頷くと、帰り道を戻ろうと一度は身を翻したが、ふと思い出したように振り返った。


「あ、そうだ、あんた名前は?」


 ノアはじっとエレニアを見つめ、その問いかけに短く「ノア」と答えた。

 

「ノアと言うのね、わたしの名前はエレニアよ……ノア、アカデミアにようこそ」

 

 エレニアは微笑みながら頷き、今度こそ軽やかに踵を返して去っていった。

 ノアはその後ろ姿をしばらく見つめた後、寮の中へと静かに歩みを進めた。

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