第8話 朝
日が昇る前、まだ周囲が薄暗い時間に、ノアは目を覚ました。見慣れない天井が視界に広がり、一瞬緊張して体が硬直するも、すぐにここがアカデミアの寮であり、今日は狩りに出る必要がないことを思い出す。
「……」
「ガーッ、ッス、ガーッ」
部屋にはレオの豪快なイビキが、時計の針が刻む音を掻き消すように響いていた。壁掛けの時計に目をやると、時刻はまだ四時を少し過ぎたばかり。ノアは二度寝を試みるも、狩人としての習慣のせいか、眠気が戻ることはなかった。
しばらくベッドに横たわるも、結局じっとしていられず、ノアは音を立てないように二段ベッドの上段から軽やかに飛び降り、朝の支度を始める。
周囲を見渡すと、他のルームメイトたちもレオのイビキに苦しんでいた。カイは整った眉をしかめて不機嫌そうに眠り、エミールはアイマスクをつけたまま魘されている。そんな中、騒音の元であるレオは布団を蹴飛ばし、腹を掻きながら豪快に眠っていた。
ノアは部屋の様子を一通り眺めたあと、誰も起こさないように慎重にドアを開けたが、途中で足を止めた。
「……」
幸せそうに寝るレオの前に立って目を輝かせるノア。エミールが起きていれば、イタズラをする前の猫に似てると思っただろう。ノアはしばらく考えるそぶりをしたが、結局は本心に従ってコルク栓を取り出し、レオの鼻に詰めた。そして今度こそ、薄暗い寮の廊下へと静かに姿を消した。
寮の外に出ると、まだ辺りは静まり返っていた。アカデミアの敷地内は、木々が微かに風に揺れ、葉のこすれる音が心地よく耳に響く。夜の気配がまだ残る空気には、朝露に濡れた草の冷たさが漂っていた。
湖の近くを歩いていると、ノアは体を鍛えている一団を見つけた。
彼らはアカデミアの制服ではなく、白い布のような簡素な服を着て鍛錬に励んでいる。動きには規則正しいリズムがあり、一心不乱に集中していたため、ノアが遠巻きに観察していることに気づかなかった。
ノアは興味深そうにその様子をしばらく眺めてから、静かにその場を後にした。空は少しずつ色づき始め、朝の冷たさが薄れていく。
気がつくと、ノアはアカデミアの象徴である時計塔の近くたどり着いていた。アカデミアで一番の高さを誇るこの塔は、空に向かってそびえ立ち、堂々とした姿を見せている。
「……登りたい」
時計塔を仰ぎ見るノア、一瞬躊躇したが、すぐに慣れた手つきで塔を登り始める。滑らかな動きで壁をしっかりと捉えて軽快に進み、ノアの姿は次第に高みに消えていった。
時計塔の頂上にたどり着くと、アカデミアの広大な敷地が一望できた。
学舎や寮、講堂、そして森や湖まで……アカデミアの広さに改めて実感にながら、ノアは目を凝らす。建物群はどこか規則的に配置されているようで、何か意図的な形を成しているように思えたが、ノアはうまく言葉にできなかった。
やがて、東の空がゆっくりと色づき、柔らかな朝日がアカデミアの白い建物を橙色に染めていく。湖面は輝き、長く伸びる木々の影が徐々に消え、空が鮮やかに輝き出す。すべてが光に包まれるのを、ノアはただ静かに見つめていた。
「……悪くない」
ノアは満足げに頷くと、腰に巻いていたワイヤーを近くの建物に引っかけ、滑るように寮の方へと降り始めた。
――
ノアが寮の部屋の前に戻ってくると、ドア越しに中から何やら激しい言い争いの声が聞こえてきた。
「……?」
ノアはそっとドアを開けて中をのぞくと、カイとレオが顔を突き合わせて口論していた。
「おいカイ! オレの鼻にコルクを突っ込んだのはお前だろ!? めっちゃ腫れたぞ!」
「僕がそんなくだらないことをするわけないだろ! こっちはお前のイビキのせいでこっちは全然寝れなかったんだ!」
「じゃあ誰がやったって言うんだ!」
「知るか!」
レオは腫れた鼻を指さして怒り、カイは寝不足で苛立ちながら反論していた。二人の声は普段よりも険悪で、部屋の空気は張り詰めていた。
「おはよう、ノア君。どこ行ってたの?」
「散歩」
静かに身支度をしていたエミールが、ノアに気づいて眠そうな声で尋ねた。目の下にクマができていて、どうやら彼もレオのイビキでよく寝むれなかったらしい。
戻ってきたノアに気付き、二人は反射的にパッと離れる。二人はお互いに顔を見合わせ、レオはバツが悪そうに目を逸らし、カイは悔しそうに眉をひそめた。
ノアに何回か気絶させられた二人は、暗黙の了解として彼の前では争わないことに決めていた。
仕方ない、だってノアは事前予告もなしにいきなり攻撃してくるし、なに考えているのかわからなくて正直怖い。
「……なぁ、もしかしてノアがやったんじゃないか?」
「……マジかよ、ノアには流石に勝てねぇよ」
カイも流石に気の毒と思って、しょんぼりするレオの肩を叩いて慰めようとしたが、身長差で届かないから腰あたりをポンポン叩いた。
「ほら、あまり気落ちするな……よく似合ってるから、ぷっ」
「……ふざけるな! これじゃまるでサーカスのピエロじゃねぇか!」
レオが悲しみの咆哮を上げると、カイはこらえきれずに笑い出した。そのやりとりを見ていたノアは、ポケットから小さな瓶を取り出し、無言でレオに投げ渡した。
「え? なんだこれ」
「塗り薬、効果は保証する」
「マジで? 助かる!」
単純なレオは、ノアが犯人かもしれないことも忘れて笑顔で礼を言う。塗り薬を手に取って鼻に塗ろうとするが、ノアは思い出したように注意を促す。
「刺激が強いから、使いすぎないように――」
「――イッテェエエエ!!??」
時すでに遅し、すでに薬を大量に塗ったレオは、鼻を押さえて苦痛に転げ回った。尋常ではないリアクションに、カイとエミールは一瞬心配したものの、レオの顔を見た途端に笑いが止まらなくなった。
「はは、お前、鼻が!」
「待って、レオくん……くくく……無理、笑いすぎて……あはは!」
「おい、俺の鼻がどうしたって言うんだ!」
笑い転げる二人の反応に、レオは焦って洗面台に駆け出す。
「……これじゃ本当にピエロじゃねえかぁあああ!! オレの男前な顔がぁああ!!」
今日一番の悲鳴が寮全体に響き渡り、静かな朝の空気を揺るがせた。
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