求道者
脱走中の患者
第1話 預言
山羊の月、冬、また一年が終わろうとしている。
鉛色の空はどこまでも重く垂れこめ、工場の煙突から立ち上る煤煙が雪と混じり合って街を覆う。石畳には雪と泥と混ざり、馬車の通った跡が黒ずんだ筋を描いていた。
通りには手押し車を引く商人や、パン屋に並ぶ人々が列を作り、労働者たちがコートをまとい、寒さに耐えながらせわしなく工場へと急いでいる。
冷たい風が彼らの頬を赤く染めていた。
一人の男がハットを抑え、食糧を入れた麻袋を抱え、肩をすくめて雪の降りしきる街を歩いていた。
彼の吐く息は白く凍りつき、黒煙が混ざる雪の匂いが鼻を刺す。
「バゲットが8スー、ワインが1シルバー……三割も値上がりか。くそったれ、また物価が跳ね上がりやがった」
男はかじかんだ手を擦り合わせながら、不機嫌そうに呟いた。
「もう少しで年が変わるってのに、生活が一向に楽にならないな……」と、男は独り言を続ける。ポケットの中にある硬貨を数えながら、眉をひそめた。
「少し前までは、この金でもう少し豪華なもんを買えたんだがな……」
ため息をつきながら、男は空を見上げた。
降りしきる雪は途切れることなく舞い落ち、灰色の雲に覆われた空から、冷たい白の粒が音もなく街を包み込んでいた。
「……今年の冬はいつもよりも長いな」
男は首をすくめて足を速めた。
男の姿は、道行く他の人々に紛れ込み、誰の目にも留まらないような存在に見えた。
通りを行き交う人々は皆、どこか疲れ切った顔をしている。顔を覆うマフラーや帽子の隙間から覗く彼らの瞳は、冬の空と同じように陰りを帯びていた。
男が通りを歩いていると、少し先で労働者たちが激しく言い争っているのが目に入った。
怒声が雪にかき消されることなく響き、拳を振り上げる者もいれば、押し合う者たちもいる。険悪な空気は今にも暴動に発展しそうな勢いで、周囲に立ち止まる人々が不安げに見ていた。すぐ近くには警備隊が駆けつける気配があり、彼らの手にした武器が雪の中で鈍く光っていた。
「……民衆の不満が大分高まっている、爆発するのも時間の問題だな」
目立たずに通り過ぎようとしていると、男は突如、腕のあたりに異変を感じた。
じわりとした熱が腕に広がり、彼の心をざわめかせる。表情にはほとんど変化を見せないものの、男の歩調は自然と速まった。周囲に目を向け、慎重に辺りを確認しながら家へと向かう。
家にたどり着くと、ドアを閉めて冷気を遮り、男は素早くローブに着替えた。袖をまくり上げると、腕に赤い模様が浮かび上がり、鷹と剣の紋章を作った。
男は紋章に手を置いて何かを呟くと、次の瞬間、男は光に包まれ、雪の降る街から消え去っていた。
――次に彼が現れたのは、どこかの地下空間だった。
広々としたホールは冷ややかな空気に包まれ、石の壁がランプの淡く揺らめく光を反射している。天井には低くアーチ状の石が並び、部屋全体に不気味な静けさを漂わせている。
床は冷たい石畳で覆われ、足音が鈍く響く。中央には円形に並べられた席があり、集会に参加する者たちを待っていた。
男は周囲を見渡すと、次々と人が現れるのを確認した。全員に共通していたのは、男と同じく、深いフードが鷹のくちばしのように鋭く垂れ下がったローブをまとっていることだった。顔はほとんど隠れていたが、互いの気配や声で誰が来たのかをすぐに見分けていた。
「ヘレナ、セリオス、それにエルメラまで……おいおい、幹部クラスがほぼ全員いるじゃないか?」
男は驚き混じりに低く呟きながら、集まった顔ぶれを見回した。
セリオスが彼に気づき、静かに声をかけた。
「ケイロン、お前も呼ばれたのか」
ケイロンは苦笑いを浮かべながら首を振る。「ああ……だが、何なんだ?こんなに急に全員が集められるなんて、珍しいことだろう?ヘレナ、お前は何か知らないのか?」
ヘレナは短く首を振った。「私も急に呼ばれたわ、理由は聞かされていない。でも、これだけのメンバーが集まるなんて……何か大きな動きがあるはずよ」
「大きな動き……って、何かしら?まさか、どこかの拠点が教廷に見つかったとか?それとも、新しい任務?」エルメラが鋭い声で続けた。彼女は明らかに少し前まで戦闘に参加しており、まだ戦場の雰囲気を引きずっているようだった。
セリオスは眉をひそめ、重々しく息を吐いた。「どっちにしても、ただの会合じゃなさそうだな」
幹部たちはそれぞれの席に腰を下ろし、素早く情報を交換した。会話は次第に静まっていき、重苦しい沈黙がその場を支配し、全員が次に起こることを静かに待ち始めた。
やがて、部屋の中心に光が差し込み、一人の老人が姿を現した。老人は杖を突き、手には分厚い本を持っていた。
「アガトス様?」
皆、アガトスの登場に驚き、息を呑んだ。彼は結社の導師であり、その年齢ゆえに体は衰え、基本的に手紙でやり取りすることが多い。通常の会合には姿を現さず、それだけに、今回の件がいかに重大であるかを示していた。
アガトスはゆっくりと場を見渡し、静かに口を開いた。「皆、よくぞ集まってくれた……皆に集まってもらった理由はほかではない、預言の書に新しい内容が現れたのだ」
その言葉が発せられると、幹部たちに動揺が走った。これまでの冷静さは一瞬にして消え、場には重苦しい緊張感が漂った。預言の書の変化など、ただ事ではない。
「初代導師が残した、結社最古の秘宝……」
幹部たちの目線は、アガトスが手に持つ古めかしい本に集中した。
黒檀の装丁には、時の経過を思わせる無数の細かなひび割れが走っており、古びた金属の装飾が所々に施されている。表面には、神秘的な古代文字が焼き付けられたように刻まれており、中心には結社の象徴である「翼を広げた鷲」が浮き彫りになっている。ページには、所々に血のような赤い染みが滲んでいる。
アガトスはゆっくりとうなずき、預言の書を空中に放り投げた。古びた本はふわりと宙に浮かび上がり、まるで見えない手に支えられているかのように、静かに机の中央へと移動した。誰も息を飲んだまま見守る中、風もないのに預言の書はひとりでにページを捲りはじめた。
ページが止まると、真紅の文字が本の中から飛び出して、机の上に立体的な像を形作った。その光景に一同は目を見張り、恐怖と不安が心に広がっていった。
最初に現れたのは、荒れ狂う海と巨大な津波が大陸を飲み込む恐ろしい光景。次に、北の国土で勃発する戦争の炎が映し出され、戦火が瞬く間に大陸全体へと広がっていく。さらに、西の島国から恐ろしい病が広がり、多くの人が苦しむ。
東の地では、陰謀が渦巻き、すべてが真っ暗で何も見えない混沌の中へと沈み込んでいく。次々と変わる不吉な光景に、見ている者たちは言葉を失った。
最後に、今までの暗く不吉な光景とは異なり、神聖ともいえる光が現れた。眩いばかりの光は大陸の中央にあるアカデミアを指し、静かに輝いていた。その光は、一筋の希望のように場を照らし出した。
「今、アカデミアに誰がいる?」沈黙を破ったのはケイロンだった。
ヘレナがすぐに答えた。「たしか、ヴィクターが教師として働いているわ。この前、何か大きな発見があったらしく、結社に支援を求めていたわね」
セリオスが眉を顰め、言葉をつけ加えた。
「アカデミアにはすでに教廷の手が入り込んでいるだろう。今、教師として潜入しても目立ちやすく、バレる可能性が高い。若いメンバーを生徒として潜入させたほうがいい」
「ああ、だが教廷との戦闘も考えられる、戦闘できるやつのほうがいいな」
ケイロンは深くうなずき、険しい表情で続けた。その言葉に、部屋の視線が一斉にエルメラに向けるが、すぐに背けた。
「何よ、その目は!」エルメラが抗議したが、ケイロンは冷静に切り返す。
「お前はアカデミアに潜入してバレない自信があるのか?」
エルメラは一瞬、言葉に詰まり、強がっていた態度が崩れた。「そ、それは……あたしの得意分野違うし……」彼女の声が弱々しくなる。
ケイロンは静かにエルメラを見つめ、重くため息をついた。
エルメラはケイロンがため息をついたのを見逃さず、苛立ちを露わにする。
「なによ!また私ができないって顔してるでしょ!文句あるならはっきり言いなさいよ!」。
ケイロンは肩をすくめながら、「誰もそんなこと言ってない。ただ、お前に戦闘以外のことできると思えないだけだ」と皮肉を込めて返した。
「何ですって!」
エルメラが食ってかかり、二人の間で言い争いが始まった。ほかのメンバーも巻き込まれ、潜入するメンバーについての議論に加わり、室内は一気に騒がしくなった。
しばらく討論が続いたが、なかなか良い案が出ない。すると、これまで静かに話を聞いていたヘレナが口を開いた。
「ノアを推薦するわ」
その言葉に、場の空気が一変し、皆が一斉にヘレナの方を向いた。
「……ノアって、エズラのとこの?」
「えぇ、ノアの年齢と戦闘力なら心配ないわ。それに、彼は過去にヴィクターから教えを受けているから、ヴィクターも動きやすくなるはずよ」
予想外の名前が出てきて、全員が計画の実現可能性を考え始めた。静寂が支配する中、ケイロンがようやく口を開いた。
「でも、ノアが引き受けるか?あいつは結社の正式なメンバーじゃねぇし、俺たちのために動いてくれる保証はないだろう?」
「そうよ。それに、ノアくんの性格で、アカデミアみたいに人が多い場所に耐えられるのかしら?」
エルメラが心配そうに聞いた。彼女はノアの性格をよく知っている。アカデミアなんて人が数万人も集まる場所にノアがおとなしくいられるとは思えなかった。
ヘレナは静かに頷き、「きっと苦労すると思うわ……でも、エズラは彼が人と関わることを望んでいた」
その名前が出た瞬間、全員が一人の男の姿を思い浮かべた、結社の幾度も窮地を救った伝説の男の姿を。
エズラの名前が出たことで一同は納得し始め、作戦の細部を詰めながら情報を交換し始めた。議論はさらに続いたが、ある程度方向性が見えたところで、アガトスが集会の終わりを宣言した。
幹部たちが次々と姿を消していく中、アガトスが突然、激しくせき込み始めた。年老いた身体が前かがみになり、呼吸を乱している様子に、ヘレナはすぐに駆け寄り、アガトスの体を支えた。
次の瞬間、アガトスが苦しげに口元を押さえたかと思うと、地面に何かを吐き出した。赤黒い血が床に広がり、それは明らかに健康な血の色とは程遠いものだった。ヘレナは一瞬息を飲み、その場の空気が一層張り詰める。
「アガトス様!?」
「騒ぐな。よくある事だ、大事無い」
アガトスは震える手でヘレナの腕を振り払いながら、かすれた声で答えた。それでも、ヘレナの表情は曇ったままだった。アガトスは短く息をつき、静かに彼女を見つめた。
「ヘレナ、話がある。少し……残ってくれ」
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