第5話 学生寮
アカデミアの始まりは、何の変哲もない街の広場だった。古の賢人が青空の下で数人の弟子たちと討論を繰り広げ、真理を追い求めた。賢人と弟子たちの知識と深い思索は話題となり、遠方からも知識を求める者たちが集まるようになる。
しかし、集まる人が増えるにつれ、広場は手狭となり、学びの場が必要だという声が高まった。
弟子たちは師の教えを深く学び続けるために、自らの手で学びの場を築くことを決意する。彼らはを運び、石を積み重ね、労力を惜しまず働いた。こうしてアカデミア最初の学舎が、弟子たちの手によって建てられたのである。
アカデミアはその後も改築や拡張を繰り返し、複雑な構造を持つようになり、ついには世界最大の学術機関になった。
「ここがアカデミア……」
アカデミアの敷地に足を踏み入れたカイは、その壮麗さに思わず足を止めた。美しい白亜の建物が並び、どれも厳かで、歴史の重みを湛えている。遠くには巨大な時計塔がそびえ立ち、静かにこの地を見下ろす。
カイは周囲を見渡して感嘆の声を上げてから、男子寮の方向へと歩き出した。道行く生徒たちは皆、彼と同じ制服を着ていて、ちらりとカイに視線を向けては、興味深そうにささやき合っていた。好奇心の目で見られることに少し居心地の悪さを感じながらも、カイは落ち着きを装って歩みを進める。
「三〇五、三〇六……あった」
昇降機から降り、三〇七号室と書かれた部屋の前に到着したカイは、深呼吸をしてから扉を開ける。そこには、窓から差し込む柔らかな光と、シンプルだが整った家具が配置された、清潔な空間が広がっていた。
ここはアカデミアの学生寮、カイがこれからアカデミアで過ごす場所だ。
カイは室内を軽く見渡して満足げに頷き、荷物をある程度整理してから窓へと歩み寄り、そっと開けた。外から爽やかな風が吹き込み、カイの紫色の髪を優しく揺らす。
その時、突然ドアが開く音が響いた。カイは振り返り、ドアの方に視線を向ける。ちょうどその瞬間、風が吹き抜け、カイの髪がふわりと舞う。
ドアを開けて現れた日焼けした大柄な青年、レオはカイの姿に思わず見惚れたように足を止め、その美しい光景に一瞬だけ呆然とした。
「……おぉ、女神よ」
「……誰が女だって?」
「あ? えっ? 男? マジで??」
女神かと思った相手が男だったと知り、レオは混乱しながら、自分に非があると気づいて早口で謝り始める。
「いや、わりぃわりぃ、ほら……小さい上に、髪もきれいだし、顔立ちも……なんだ、なんか女っぽいだろ?」
「余計なことをベラベラ喋るな。少しは頭を使ってから話せばどうだ? 図体でかいくせに脳みそに栄養が回ってないのか?」
「あ? いや、それは言い過ぎだろ! っていうか、俺が悪いのかよ! そっちが女みたいに見えるのがいけねーんだろ!」
「だから、余計なことを喋るなって言ってるだろう!」
「んだよ、だったらオレを黙らせてみろよ!」
「そのつもりだ! 二度と口が開けないようにしてやる!」
レオが謝ろうとしても、かえってカイを怒らせるばかり。カイの圧力に一歩引いたものの、レオの高すぎるプライドがすぐに反発し、会話はあっという間に拳を使ったものに発展した。二人の激しいやり取りに騒ぎを聞きつけた野次馬たちが部屋の前に集まり、興味津々に見守り始める。
「おいおい、初日から大騒ぎだぞ!」
「すげーな……てか、あの技かけてるの女じゃね? なんで男子寮にいるんだ?」
「あれ男らしいぜ」
「マジかよ、生物学的にありなのかよ」
「す、すみません、通してください、ひぃ!?」
メガネをかけた青年、エミールが控えめに野次馬たちをかき分けながら進むが、目の前の混乱した状況に思わず悲鳴を上げる。部屋の前に人だかりができていたときから嫌な予感がしていたものの、自分のルームメイトだと思われる二人がすでに取っ組み合いをしているとは思わなかった。
周りを見るも動こうとするものがいない、エミールは顔を引き攣らせて、迷った後、覚悟を決めて止めに入ろうとするも、勢いよく飛んできた枕がエミールの顔に直撃する。
「あだっ!? ……なんでぼくがこんな目に……! ちょ、ちょっと二人とも! 喧嘩はその辺で!」
「この! どこにそんな力があるんだ!?」
「まだいうか!」
吹き飛んだ眼鏡を拾い上げて、エミールは必死に腕を広げて喧嘩を止めに入るが、カイとレオは激しく取っ組み合っていて、エミールなどまるで視界に入っていない。エミールはどうしたら……と頭を抱えてオロオロし始める。
そのとき、背後からな視線を感じ、エミールはドアの方を振り向いた。そこには無表情でこちらを見つめる青年が、小さなトランクを持って立っていた。
「ノ、ノア君? なんで君がここに……? そうか、君が四人目のルームメイトか!」
見た目がだいぶ変わったもの、特徴的な瞳を見違えるはずがない。驚きで声が裏返りそうになりつつも、エミールはすぐにハッとする。
「ルーンブロートの人、また会ったね」
「エミール! ぼくの名前はエミールだよ! 三日間も一緒にいたじゃん! ……それより、早くこの二人を止めるのを手伝って!」
「わかった」
エミールの切実な頼みに、ノアは軽く頷くと、袖から二枚の銅貨を取り出す。エミールが何をするつもりか尋ねる暇もなく、ノアはカイのこめかみを狙って銅貨を弾く。銅貨は見事に命中し、カイはその場にばったりと倒れる。
「あ? おい、お前どうした? がっ!?」
驚くレオにも、もう一枚の銅貨がヒットし、彼もカイと同様に気絶する。見ていた野次馬たちは軽く「おぉ」と感嘆の声を上げ、エミールは青ざめた顔で倒れた二人に駆け寄って様子を確かめた。
「え、ちょっと、二人とも倒れたけど、これ大丈夫なの!?」
「銅貨だから、死なない……たぶん」
「たぶん!?」
ノアはオロオロしているエミールを一瞥すると、倒れた二人と散らかった部屋に関心を示さず、空いているベッドに向かい、持ってきたトランクを置いて荷ほどきを始めた。
エミールは呆然としながら、荷ほどきをするノアと、床に倒れ込んだ二人を交互に見つめる。思わず手で顔を覆い、空を仰いだ。
「……本当にやっていけるのかな、ぼく?」
初日から波乱の連続。エミールは、アカデミアでの生活に不安と諦めを抱えながらも、覚悟を決めるしかなかった。
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