第3話 列車

 冬の名残がわずかに感じられる春の日差しが、柔らかく大地を照らす。任務を受けてから二ヶ月が経ち、ノアはついにアカデミアへ向かう日を迎えた。


 この二ヶ月間は、ノアにとって人生で最も長く、過酷な時間だった。

 積み上げられた本の山を前にして、任務を引き受けたことを軽く後悔した瞬間もあったが、一度交わした約束を破るわけにはいかない。爺さんから『約束は死んでも守れ』と教えられてきたノアは、やるしかないと覚悟を決めた。


 ひたすら知識を詰め込む日々、休憩の合間もヘレナから人間社会の常識を教わり、正直休んだ気がしない。夢にまで本の化け物が現れるようになり、死闘を繰り返すようになってしまった。

 唯一良かったことは休憩の時間にスイーツが出たこと。森で自給自足するノアにとって、甘味は貴重なもので、滅多に食べられない。砂糖をふんだんに使ったスイーツを毎日楽しみにしながら、ハードな勉強生活を乗り越えた。

 試験を突破できたのは、ほぼスイーツのおかげと言っても過言じゃない。


 二ヶ月間を思い返しながら、ノアは荷造りを進める。もともと私物は少なく、必要なものは現地でヘレナが用意してくれるのもあって、すべて小さなトランクに収まった。部屋を見まわし、ノアは古びた絵を手に取る。

 褐色の肌をした年老いた男が、小さな男の子を肩に乗せる絵で、傷がつかないように特殊な処理を施されている。ノアはしばらくの間、じっと絵を見つめた。


「……爺さんの嘘つき」


 約束を守れなかったじゃないか。


 感情が渦巻く中、ノアは軽くため息をつき、絵を丁寧にトランクにしまった。


 出発の時間が迫っている、ノアはトランクを手に持ち、扉の前で立ち止まって静かに振り返る。小屋には誰もいない、しかしノアには小さな男の子が走り回って、穏やかな顔をした老人がそれを眺めているのをみた気がした。老人がボーとするノアに振り返って、笑顔で手を振った。


「……あ」


 ノアは手を伸ばすも、そこには誰もいない、ただ、彼の記憶と心だけが残されていた。

 伸ばした手を見て、ノアは長年守り続けたこの場所から、離れたくないと感じて、ため息をつく。


「……行ってきます」


 最後にそう言って、ノアは振り返らずに小屋を背にした。


 ルセルナ駅、ルノヴィア帝国の辺境にあるこの駅は多くの人で賑わい、列車はすでに到着していた。


 列車の鋼鉄のボディが磨かれて光を反射し、煙突から黒煙が空にのぼり、獣のように唸り声を上げていた。蒸気機関車は人を襲わないと、ノアは事前に聴いたが、この鉄の塊はどうやって動くのか、警戒と好奇心を隠せずにいた。


 駅員に事前用意された切符を渡して、案内に従って比較的空いている車両に乗り込み、端の席に座って窓を眺める。

 駅にはさまざまな人々が行き交い、それぞれが別れを告げていた。母親が子どもを抱きしめて涙を浮かべる光景や、恋人同士が手を握り締めたまま言葉を探す姿が、どこか切なく映る。

 制服を着た駅員が次々と笛を吹き、発車の合図が響くたびに、人々は慌てて最後の抱擁を交わし、列車に向けて手を振る。その姿は儚く、一瞬で過ぎ去ってしまう別れの瞬間を引き伸ばそうとした。


「ま、待ってください!」


 必死に叫びながら、一人の青年は列車に向かって走ってきた。ドアが閉まりそうになるのを見て、焦りの色を浮かべ、荷物のバランスが崩れそうになりながらもスピードを上げる。


 ホームに立つ人々が振り返り、エミールの必死な姿に思わず注目する中、彼はギリギリで開いていた車両のドアに滑り込んだ。息を切らし、顔を真っ赤にしながら、エミールは荒い呼吸を繰り返し、しばらくその場で動けなかった。


「はぁ、はぁ……間に合った……」


 彼はようやく深い息をつき、ずれかけたメガネを押し戻し、額の汗を拭いて辺りを見回す。車両はほぼ満員で、唯一空いてる席は外を眺めているノアの隣のみ。


 ノアの隣に座ってろうと、エミールが歩み寄ると、数歩手前で、ノアがじっとエミールを見つめる。するとエミールは全身に冷たい感覚が走り、まるで捕食者に狙われた小動物のように固まってしまった。


 ノアの目は、エミールに冬の湖を連想させた。

 透き通るような深い青で、その奥には冷たく澄みきった静寂が広がり、どこか無機質で、感情のかけらすらも読み取れない。わずか数秒、エミールにはそれが永遠にも思えるほど長い時間が経ち、ノアは興味を無くしたのか、無言のまま視線を戻し、再び外の光景を眺めた。


 エミールは彼の視線が外れた瞬間、まるで掴まれていた心臓が解放され、体が思い出したかのように呼吸を再開する。

 首筋に冷や汗を感じつつも、兄さんのせいでこんな目に遭ったんだ、と心の中で愚痴をこぼすエミール。今すぐこの場から逃げたかったが、彼の隣以外に空席がない以上、逃げるわけにもいかない。


「……隣、座っても大丈夫かな?」

「うん」

 

 流れていく景色を見たまま、ノアは返事する。ひとまず返事を聞いたエミールはホッとして、ノアの隣の席に腰を座る。

 エミールはノアの隣に座ってからというもの、ぎこちない沈黙が続いていた。エミールはなんとかこの場を和ませようとして会話を振るも、ノアからの反応を薄い。列車の旅は三日間続くというのに、隣人の考えていることがわからずエミールは緊張で胃が痛くなる。


 エミールが内心でどうにかこの気まずい雰囲気を打破しようと苦戦していると、車内の通路からガラガラと音が聞こえてきた。販売員がワゴンを押してこちらへ近づいてくる。

 

「お客様、何かお飲み物やお菓子はいかがでしょうか?」


 販売員は穏やかな笑顔を浮かべながら、エミールとノアに声をかけた。その問いにエミールは一瞬救われたような気分になり、迷いながらもワゴンに目を向けた。


「あ、えっと……ココアをお願いします」


 エミールはココアを注文しつつ、ふと隣のノアの方を見ると、ノアは駅員に視線を向け、無表情のまま考え込んでいた。


「何がある?」

「温かい飲み物は、コーヒー、紅茶、ホットミルク、そして今人気のココアがございます。それから、冷たい飲み物はフルーツジュースとレモネードです。軽食にはサンドイッチ、クロワッサン、ベリーのタルトがあります。甘いものでは、チョコレートクッキーとマカロンがございますが、いかがなさいますか?」

「じゃ、ココアとサンドイッチ、あと甘いものを一つずつ」

「かしこまりました」


 料金を渡して料理の入ったトレーを受け取り、ノアはチョコレートクッキーを手にする。

 口にして固まってしまったノアを見て、気に入らなかったのかなと思いつつ、エミールは荷物から小さな包みを取り出し開けた。包みの中には、表面に模様がある丸い焼き菓子が入っていた。甘いベリーの香りと、シナモンの温かい香りがほのかに漂い、彼の緊張をわずかに和らげる。


 エミールが一口かじろうとしたその瞬間、ノアから視線を感じて緊張が走ったが、先ほどのような圧迫感はない。ノアが無言のまま、彼が自分の持つ焼き菓子に視線を向けている。


「……えーと、これ、ルーンブロートっていって、ぼくの村で祭りのときによく作られる焼き菓子なんだ。中にはベリーとシナモンが入っていて、外はカリッとしてるけど、中はしっとりして美味しいんだ……よかったら一つどうかな?」

 

 エミールは迷いつつも、微笑みながらノアに向かって説明を始めたが、途中でノアの視線に耐えられなくなって、焼き菓子を差し出す。

 ノアは一瞬焼き菓子からエミールに視線を移し、少しの間考えたが、軽くうなずき焼き菓子を手に取った。


「……美味しい」

「でしょ?」


 ノアの反応を見て、エミールは内心ほっとし、自信を持って会話を続けた。


「ぼくの村ではね、祭りの時になると、どの家庭でもルーンブロートを焼いて村のみんなで分け合うんだ。一番評判が良かった家は“雪の精霊から祝福を受ける”なんて言い伝えがあるよ。自慢じゃないけど、僕の家のルーンブロートは毎年評判が良いんだ。もうしばらく食べられなくなるからって、今朝も兄さんが焼いてくれて……もう一個いる?」

 

 エミールはノアの様子を伺いながら言い、今朝兄さんが作りすぎてしまい、蒸気機関車に遅れかけたのを思い出して苦笑いする。

 エミールが話し続けるうちに、ノアがルーンブロートを頬張りながら、じっと彼を見つめた。何か癪に障ったのかとエミールが不安になった瞬間、ノアは無言で自分のトレーをノアの方に押し出した。


「……えーと?」

「あげる、ルーンブロートのお礼」

「……ありがとう、でもこの量はぼく一人じゃ食べきれないから、一緒に食べな――」

「食べる」

 

 エミールが言い終わる前にノアが頷き、再びルーンブロートに手を伸ばす、買ったお菓子に手をつける気配は一切ない。


 ……ぼく、もしかして押し付けられたのかな?


 エミールは顔が引き攣りかけるも、全く話さないよりはマシかと、苦笑を浮かべて会話を続けた。


「今の時期だから、もしかしたらアカデミア行き?」

「うん」

「やっぱり! ぼくもだよ、一緒に授業を受けるかもしれないね」

「……しばらく勉強の話をしたくない」


 ノアがジトっとした目でエミールを見つめ、瞳孔が少し開いていた。エミールはなんとなく身の危険を感じ、慌てて別の話題を考えようとしたが、ノアは興味を失ったように目をそらし、そのまま昼寝を始めようとした。その気ままな態度に、エミールはかつて飼っていた猫を思い出し、思わず苦笑いしてしまう。お腹が空いてルーンブロートを取ろうとしたが、すでに空っぽだった。


「あれ、もうなくなってる!?」




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