第3話 列車
冬の名残がわずかに感じられる牡牛の月。
清らかな空気の中に新緑が顔を覗かせ、木々の若葉はやわらかな陽光に照らされてまばゆい輝きを放っていた。冷たい空気がほのかに漂ってはいるものの、草木が息づく気配が大地に満ち、あたりにはかすかな花の香りも漂っている。
試験を無事に乗り越えたノアは、ついにアカデミアへ向かう日を迎えた。
静かな朝、彼は荷造りを進めていたが、もともと私物が少ないうえに、必要な物はヘレナが現地で用意してくれるとあって、小さなトランク一つにすべてが収まった。
出発前、ノアは小屋の片付けをして、最後にタンスに置かれた古びた絵立てを手に取った。
褐色の肌をした年老いた男が、小さな男の子を肩に乗せる絵で、傷がつかないように特殊な処理を施されている。ノアはしばらくの間、じっとその絵を見つめ、無意識のうちに幼い頃の記憶が脳裏に浮かんできた。
――一緒に狩りに出かけたこと、時には厳しく、時には優しく戦闘を教えてくれたこと。そして、爺さんが好きだった食べ物や、日々の細かな教え。ノアの胸には、そのすべてが今も生々しく刻まれていた。
「……爺さんのうそつき」
様々な感情が渦巻く中、ノアは軽くため息をつき、絵を丁寧にしまった。
ノアはトランクを手に持った。彼にとって、長年住み慣れたこの小屋を離れることは、どこか引っかかるものがあった。
小屋を出る前に、ノアは最後に扉の前で立ち止まり、静かに振り返った。そこには誰もいない。ただ、彼の記憶と心だけが残されていた。
「行ってきます」と小さく呟くと、ノアは名残を残すように扉を閉め、小屋をあとにした。
昼、ルセルナ駅。
ルノヴィア帝国の辺境にあるこの駅は人で溢れかえっていた。人混みに不慣れなノアは無意識のうちに、周囲に近寄りがたい雰囲気を漂わせる。
ノアの周りには自然と空間ができ、誰も近づこうとはしなかった。
やがて、ルセルナ駅の線路に蒸気機関車が重厚な音とともに入ってきた。
機関車は黒鉄の塊のような威圧感を放ち、サビ色に染まった鉄のボディが磨かれており、蒸気を噴き上げる煙突からは、白い煙がゆったりと空へと昇っていく。ノアはこの巨大な鉄の塊がどうやって動くのか、ほんの少し興味を抱き、列車を見上げた。
駅員に切符を渡し、案内に従い比較的空いている車両に乗り込む。端の席を選び、持ってきた小さなトランクを足元に置いて、静かに腰を下ろした。出発にはまだ時間があるようで、ホームには人々のざわめきと蒸気機関車の低いうなり声が響いている。
ノアはしばらく周囲を見回したが、すぐに荷物の中から資料を取り出し、読み始めた。これはヘレナが用意してくれたもので、アカデミアに関する概要やその歴史が詳細にまとめられていた。
しばらくして、列車が動き出し始め、ノアのいる車両に、エミールが早足で入ってくる。
彼は一歩足を踏み入れた途端、何か重苦しい雰囲気が漂っていることに気づいた。周囲を見渡すと、一人の青年の近くの乗客たちが気まずそうに視線をそらし、会話も途切れがちだ。すべての席は埋まっており、唯一空いているのは、車両の奥に座るノアの隣だけだった。
緊張した面持ちで、ノアの隣に座ってもいいかと尋ねようと、彼はゆっくりと歩み寄った。
だが、数歩手前で、ノアが資料から目を上げ、じっとこちらを見つめてきた。エミールは瞬時に首筋に冷たい感覚が走り、まるで捕食者に狙われた小動物のように固まってしまった。
ノアの目は、エミールに冬の湖を連想させた。
透き通るような深い青で、その奥には冷たく澄みきった静寂が広がり、どこか無機質で、感情のかけらすらも読み取れない。わずか数秒、エミールにはそれが永遠にも思えるほど長い時間が経ち、ノアは無言のまま視線を戻し、再び手元の資料に目を落とした。
エミールは彼の視線が外れた瞬間、まるで掴まれていた心が解放されたかのように、体が思い出したかのように呼吸を再開した。
首筋に冷や汗を感じつつも、兄さんのせいでこんな目に遭ったんだ、と心の中で軽く愚痴をこぼす。今すぐこの場から逃げたいと思うも、彼の隣以外に空席がない以上、逃げるわけにもいかない。
「……隣、座っても大丈夫かな?」
意を決し、慎重に言葉を選びながらエミールは口を開いたが、返事はなかった。ノアは相変わらず手元の資料を見つめている。
黙認と捉えてもいいのか迷いながらも、エミールは恐る恐るノアの隣に腰を下ろした。
エミールはノアの隣に座ってからというもの、ぎこちない沈黙が続いていた。
気まずい空気に包まれる中、彼は自分に言い聞かせるように座り直し、できるだけノアの注意を引かないよう努めていた。しかし、この沈黙に耐えきれなくなり、ふと軽く話題を振ってみることにした。
「ここまで来るの、苦労しなかった?」と、声を抑え気味に尋ねた。
だが、ノアからの返事はなく、エミールは心の中でばかなことをしたと、後悔し始めた。
重たい空気はますます圧迫感を増し、エミールは次第に発狂しそうな気持ちに駆られ、必死に冷静さを保とうとした。
その時、彼の胃が突然「ぐぅ」と鳴り、現実に引き戻された。エミールは恥ずかしさをこらえながらも、荷物から小さな包みを取り出し、静かに開けてみた。包みの中には、故郷から持ってきた小さな丸い焼き菓子が入っている。
表面には村の古い伝統を表すルーン文字が刻まれ、甘いベリーの香りと、シナモンの温かい香りがほのかに漂い、彼の緊張をわずかに和らげた。
エミールが一口かじろうとしたその瞬間、ふと隣からの視線に気づいた。ノアが無言のまま、じっと彼の手に目を向けている。
エミールに再び緊張が走ったが、先ほどのような圧迫感を感じない。
ちらりとノアの顔を見ると、彼が自分の持つ焼き菓子に視線を向けていることに気づいた。エミールは迷いつつも、ノアに向かって少し微笑みながら説明を始めた。
「これ、ルーンブロートっていうんだ。ぼくの村で祭りのときに作られる焼き菓子なんだよ。中にはベリーとシナモンが入っていて、外はカリッとしてるけど、中はしっとりして、ぼくの好物なんだ」
話しながら、エミールはノアの視線が焼き菓子に集中しているのを感じて、少し頬が熱くなる。
無機質な視線に耐えられなくなったエミールは、「よかったら、一つどうかな?」と焼き菓子を差し出した。
ノアは一瞬焼き菓子からエミールに視線を移し、少しの間考えたが、やがて軽くうなずき、静かに焼き菓子を手に取った。
ノアが焼き菓子を口に含んだ瞬間、エミールは彼がわずかに目を見開いたように感じた。その反応を見て、エミールは内心ほっとし、少し自信を持って会話を続けた。
「ぼくの村ではね、祭りの時になると、どの家庭でもこのルーンブロートを焼いて村のみんなで分け合うんだ。一番評判が良かった家は“雪の精霊から祝福を受ける”なんて言い伝えがあるよ」
「自慢じゃないけど、僕の家のルーンブロートは毎年評判が良いんだ。もうしばらく食べられなくなるからって、今朝も兄さんが焼いてくれて……おいしいでしょ?」
エミールはノアの様子を伺いながら言った。
ふと、兄さんが作りすぎて、出発寸前にやっと焼き上がってで、蒸気機関車に遅れかけ、今の状況になったことを思い出してしまい、エミールは思わず苦笑いした。
話し続けるうちに、ノアが急に少し眉を顰めた。
話し過ぎてしまったかとエミールが不安になった瞬間、ノアは無言で自分の荷物を開け、小さな包みを取り出してエミールに差し出した。
エミールは、ノアから渡された包みを恐る恐る受け取りながら、彼の顔色をうかがう。
ノアが無言で頷くと、エミールは慎重に包みを開け、中を覗いた。そこには素朴な見た目の肉のパイが入っていた。おそるおそる一口食べてみると、想像以上の深い味わいが広がり、簡単な見た目とは裏腹に、長年の技量を感じさせる絶品だった。
ノアはお礼、とだけ短く言った。
エミールはしばらくその言葉を噛みしめ、意を決して「ぼく一人じゃ食べきれないし、一緒に食べない?」と誘った。
ノアはその言葉を聞いてエミールをじっと見つめ、一瞬考え込むような仕草をした後、軽く頷いた。
エミールは安堵し、心の中で「ノアは案外悪い人じゃないかもしれない」と思いつつ、気まずさを解くように軽い話題を振る。ノアは喋らなかったが、エミールの話に対して無言の相槌を打った。
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