第2話 ノア

夕暮れが近づき、山の端に沈む太陽が長い影を落とす。

 セリオスは任務を伝えるため、ノアの小屋に向かっていた。

 森の中は静まり返っているが、遠くでは時折、重い雪に押されて折れる枝の音が響く。

 ノアの家は、人里離れたひっそりとした森の奥にあった。木造の簡素な小屋で、灯りも見当たらない。


 小屋の前で立ち止まり、セリオスは耳を澄ましたが、物音ひとつ聞こえない。

「出かけているのか……」

 セリオス静かにため息をつくと、そっとドアを押し開けて中に入る。


 小屋の中は、必要最低限の生活感しか感じられない。

 むき出しの木の床は埃ひとつなく、置かれている家具も少ない。壁は石と木で無骨に組まれていて、その冷たさが心をも鈍くさせるかのようだ。寝室と呼ぶには簡素すぎる小さな部屋には、シングルのベッドとタンスが置かれているだけで、ほかには何もない。


 ――まるで監獄のようだ。


 ノアが生活に必要なものしか持たないのは知っていたが、ここまで徹底しているとは予想外だった。

 セリオスは辺りを見回しながら、この部屋に漂う寂しさに息が詰まりそうな気がした。


 ふと、部屋の隅にある古びた絵立てが目に留まった。無骨な空間に、唯一、私物らしきものがあるのが不思議だった。セリオスは絵立てに近づき、手に取ってみた。


 そこには、褐色の肌をした年老いた男性と幼い少年が描かれていた。年老いた男性は威厳ある表情を和らげ、穏やかに微笑んでいる。一方の少年は無表情ながらも瞳にいたずらな光を宿し、老人の肩に乗って髪を引っ張っていた。セリオスはその絵をじっと見つめ、しばらく黙っていた。


 絵を見ていたセリオスの首元に、急に鋭い気配が走る。セリオスは瞬時に振り返り、剣を抜いて迫りくるナイフを防ぐ。刃と刃が激しくぶつかり、火花が散った。分厚いフードで顔を隠した少年が、音もなく背後から襲いかかってきた。


 ――ノアだ。


 攻撃が防がれると、ノアは無言のまま即座に距離を取り、ナイフを構え直した。

 その瞳には波一つなく、目の前のセリオスをただの獲物と認識しているかのように、鋭くその動きを見据えていた。


「待て、ノア、俺だ!」


 体制を崩したセリオスは急いでフードを下ろし、顔を見せて誤解を解こうとした。ノアは無言で彼を見据え、しばらくの間その鋭い眼光がセリオスを貫いた。


「セリオス……?」ノアがようやく口を開き、ナイフを下ろす。


「ごめん、気配が……」

 ノアは平淡な声で言い、まるで戦闘などなかったかのように無造作に防寒具を脱ぎ捨てると、何事もなかったかのようにセリオスを振り返り、軽く尋ねる。「……紅茶、飲む?」


 セリオスは微笑んだが、久しぶりに会ったノアの変貌に少し戸惑いを感じていた。

「いや、大丈夫だ。それより、任務の話がある。作業を続けて構わない、話を聞いてくれないか?」


 ノアは無言で頷き、淡々と獲物の処理を始めた。

 セリオスは、ノアの気配に気づけなかった自分に軽くショックを覚え、彼の成長ぶりに感嘆せずにはいられなかった。さすがはエズラの弟子だと、再び痛感する。


「実は、結社から重要な依頼がある」とセリオスは切り出した。「詳しい話はヘレナから直接聞くことになっている。一緒に来てほしい」


「結社……」

 ノアは手を止め、考え込むようにセリオスを見つめる。彼の深い青の瞳からは何を考えているのか読み取れない。


 しばらく沈黙が続き、セリオスが気まずさを感じ始めたころ、ノアはゆっくりと頷いた。


「……わかった、ヘレナさんに、会いに行く」


 その返事に、セリオスは軽く頷き、安堵の息をついた。


 準備が整うと、セリオスはノアの肩に手を置いた。

 瞬間、ノアは軽い目眩と浮遊感を覚え、足元が消えるような感覚に襲われた。目を開けると、二人はもう違う場所にいた。


 重厚な家具が並ぶ部屋が広がり、古びた木の香りがほのかに漂っている。壁に沿った本棚には書物がぎっしりと並び、天井から吊るされたシャンデリアが柔らかな光を部屋に落としていた。


 部屋の中は静寂に包まれ、ただヘレナが書物に向かってペンを走らせる音だけが響いている。外界の音は届かず、ペン先の音だけがかすかに空間を支配し、まるで時間が止まったかのような静けさが漂っていた。


 筆を走らせていたヘレナが空気の変化に気づき、顔を上げた。


「来たわね、ノア」


 ヘレナは手元の筆をそっと置き、顔を上げる。彼女の姿を確認したセリオスは、安堵の表情でうなずくとその場から姿を消した。


「来てくれてありがとう、ノア」ヘレナは微笑を浮かべ、ソファを手で示す。「さぁ、こちらに座って」


 ノアがソファに腰を下ろすと、ヘレナも対面に座り、穏やかに言葉を続けた。「少しお茶でも飲みながら話しましょう」


 影がするりと動き、音を立てずに紅茶を注いだ。ノアが紅茶を飲んだのを確認して、ヘレナは話を続けた。


「ノア、君を呼んだのは、力を借りたいからなの。アカデミアについて、どれくらい知っているかしら?」


 ノアは少し考え込み、視線を下げた。「世界最高峰の学術機関だと、聞いたことがいます」


「その認識で構わないわ。今、ヴィクターが教師として潜入しているの。彼が内部で大きな発見をしたようでね、協力者を求めているわ。そこで、君にその任務をお願いしたい」


「……どうして、僕なんですか?」


 ヘレナは少し間を置いてから、静かに指を立てた。

 「理由は三つあるわ。君は結社の中で最も適任な年齢と能力を持っている。そして、ヴィクターから教育を受けたことで、彼とスムーズに協力できるはず。……そして最後に――エズラの遺言よ」


「……爺さんの遺言?」


 ノアはその場に固まり、動きを止めた。

 ヘレナはノアの反応を見て、慎重に言葉を選ぶ。


「そう、エズラはね、君がただ小屋に閉じこもるんじゃなくて、外の世界と関わりながら成長することを願っていたのよ」

 ヘレナはその言葉をゆっくりと伝えた。


 ノアの眼差しには激しい感情の揺らぎが見えた。それは普段冷静な彼の表情には似つかわしくない、深い衝動のようなものだった。


「……爺さんが、そんなことを?」ノアの声はかすかで、やがてその表情には隠しきれない寂しさが浮かび始めた。

「……どうして、今まで教えてくれなかったのですか? どうして……」


 ヘレナは彼の言葉を静かに受け止めながら、心の中で重い感情を感じていた。ノアの顔に浮かぶ悲しみは、かつての無邪気な少年の姿を思い出させた。だが、エズラの死以来、ノアはその心を閉ざし、他人を拒絶し、感情を表に出すこともなくなっていた。


 それは、エズラ自身が最も心配していたことでもあった。


「今さら、遺言だなんて」


 ノアの中に封じられていた感情が揺らぎ始め、まるで堰が切れたように外へと漏れ出す。

 部屋全体がかすかに揺れ、シャンデリアが不気味な音を立てて揺らめき、並べられた本が一冊、また一冊と床に崩れ落ちた。ヘレナの影が動き出し、部屋全体を包むように広がり、破壊が広がらないように静かにで抑え込んだ。


 ノアの内なる力がどれほど強力なのかを感じ取り、恐れにも似た気持ちを覚える一方で、ヘレナにはそれが子供が傷つき、泣き叫ぶように見えた。


 やがて、感情の嵐が静まり、ノアも疲れ果てたかのように大人しくなった。ヘレナの影が静かにその場から引き上げられると、再び部屋に静けさが戻った。


「ヘレナさん……なぜ、あの日から、爺さんは帰ってこなかったんですか?」


 その一言は、今にも消えてしまいそうなほどかすかで、けれども心の奥底から絞り出された声だった。ノアは悲しみに耐え切れずに顔を伏せた。


 ヘレナは何も言わず、そっとノアを抱きしめた。


 ノアはその温もりに一瞬驚き、戸惑いを見せたが、ヘレナの腕の力強さに気づくと、それに抗うことをやめた。どこか居心地の悪さを感じながらも、彼はそのぬくもりを受け入れるしかなかった。


「ごめんなさい、ノア……今はまだすべてを話すことはできないの。でも、エズラが君の幸せを望んでいたのは確かよ」


 ヘレナの声には深い悲しみと温かさが滲み出ていた。その微かな震えがノアにも伝わり、彼はただ黙ってそれを受け止めるしかなかった。


「時が来たら、きっとすべてを話すわ……約束よ」


 ノアはゆっくりと視線を下げ、口を閉ざしたまま、静かに彼女の言葉に頷いた。しばらく沈黙が続き、やがて小さな声で言葉を紡いだ。


「……わかった。引き受けます」


 その言葉を聞いたヘレナは、ほっとしたように微笑んだ。「ありがとう、ノア」


 その後、しばらく二人は静かに時間を過ごした。ノアの心にはまだ戸惑いや悲しみが残っていたが、どこかで温かなものが灯り始めた気がした。


 ――


 セリオスがノアを連れて去った後、書斎に残ったのは、散乱した本と静寂だけだった。ヘレナは、乱れた部屋を見渡し、深く息を吐き出した。


「やれやれ、見事にやられたわね……」と、苦笑いを浮かべてつぶやいた。


 そのとき、ヘレナの影がゆっくりと動き出し、落ちた本を拾い上げ、本棚へと一冊ずつ丁寧に戻し始めた。影は床を滑るように静かに移動し、形を変えながら、効率よく作業を進めていく。作業の合間に、影の中から低く囁くような声が響いた。


「まったく……恐ろしいガキだな。オレが抑えてなきゃ、ここ一帯で騒ぎになってたぜ」


 影は、ヘレナの反応を待つことなく話し続けながらも、一瞬も動きを止めずに本を片づけ、山積みにした一部の本を整然と積み上げた。ヘレナは背後で淡々とその作業を見守っている。


「しかしなぁ、ヘレナ。こいつらを2か月で全部理解しろってんだから、あのガキも相当大変だろうよ」


 ヘレナは本の山を見つめながら、微かに微笑んだ。

「確かに、手加減しないわね。でも、彼ならやり遂げるでしょう。2か月あれば、この内容もすべて理解するはずよ」

「だけど、ヘレナ……本当にそれでいいのか?これだけの才能を持つガキだ。もし普通の生活に馴染んじまったら、結社にとって都合のいい話じゃないだろう?それに、あの老いぼれ爺さんの意志とも違うんじゃねぇのか?」


 ヘレナは静かに目を閉じ、ひとつ息を吐き出した。

 「それでも、あの子に平穏な選択肢を与えたいのよ。エズラもそう望んでいたし……これは私自身の願いでもある」


 影はかすかに揺らめき、しばらく沈黙したかと思うと、低く冷ややかな声でつぶやいた。

 「わからねぇな……お前ら人間ってやつは、こんなにも矛盾を抱えながら生きなきゃいけねぇなんて、楽じゃねぇな」


 ヘレナは影に目を向けず、ただその作業が終わるのを見届けると、再び筆を手に取り、未完の手紙に目を戻した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る