第13話「これは忠告よ、躊躇わないで。いざという時は、迷わず行動しなさい。」
今日は第四回目のフィールドワークの日。
これまでずっと里保は一人で任務をこなしてきたが、今回は少し特別だった。
綾子が同行していたのだ。
あの事件以来、二人の関係は以前よりも近くなり、まるで本当の姉妹のようにお互いを理解し合うようになっていた。
「(綾子と一緒に外に出るのは初めてですね…)」
里保は心の中で静かにそう呟き、普段とは違う感覚に気づいていた。
今日の街並みや風、音すらも、何かが違うように感じられた。
それは綾子が隣にいるからだろうか?その疑問を抱えながらも、二人は街を歩き続けた。
賑やかな通りを抜け、人々の雑踏の中を進んでいた時、ふと里保の目がある路地裏に引き寄せられた。
暗がりでひっそりと佇むその場所が、なぜだか彼女の心を捉えた。
里保は路地裏に足を向けた。
その狭い路地を進むと、やがて奥に一匹の猫がうずくまっているのが見えた。
近づく里保は猫に気づくと自然としゃがみ込んだ。彼女の目には、その猫が不思議な存在に映った。
「里保、急に居なくならないで…」
綾子が少し焦った声で里保に呼びかける。
そこには、わずかに不安が滲んでいた。
「綾子、見てください、猫です。」
里保は振り返り、猫を指さした。
その猫は黒い縞模様をまとった、美しいキジトラだった。
しかし、野良猫らしく警戒心が強く、里保と綾子との間に一定の距離を保っている。
次の瞬間、何のためらいもなく猫を掴もうと手を伸ばした。
「駄目よ!」
その瞬間、猫が鋭く里保の手を叩き、威嚇の声を上げた。
驚いた里保は一瞬たじろぎ、その手を引っ込める。
「野良猫は警戒心が強いの。無理に触れちゃダメ。」
綾子は穏やかにそう言い、里保を制止するように微笑んだ。
猫はその場からすっと逃げるように去っていった。
里保は自分の叩かれた手を撫でた。
幸いにも大きな怪我はなかったが、その小さな攻撃が彼女にとっては予想外だった。
戦闘訓練で受けた数々の攻撃と比べれば取るに足らない出来事だが、彼女はどこかショックを受けていた。
彼女の脳内に巡るのは、訓練中の厳しい戦闘とはまったく異なる、この小さな生物からの一撃だった。
彼女のプログラムは戦闘に適応するよう設計されていたが、このような偶発的な出来事にはまだ十分に対応できていなかったのだろう。
綾子はそんな里保の様子を見つめ、優しく笑みを浮かべた。
「こういう何気ない経験も、私たちにとっては大切なのよ。」
その言葉に、里保は少し戸惑いながらも頷いた。
彼女は、単なる任務の中でこういった出来事が意味するものをまだ完全には理解していなかったが、姉である綾子が何か大切なことを教えてくれたような気がした。
二人は再び路地裏を後にして、フィールドワークを続けるために歩き始めた。
二人は街を一通り散策し、最終的に足を止めたのは、ショッピングモールのフードコートだった。
軽い雑談が飛び交うテーブルの上、時折聞こえる笑い声や会話の合間に、軽い雑談を交わしていた。
だが、その雰囲気が一変する瞬間が訪れた。
「ねぇ里保、貴方...私たちに感情モジュール、そして疑似人格プログラムが搭載されている理由って、考えたことあるかしら?」
予想外の質問に、里保は少し戸惑った表情を見せたが、すぐに思考を巡らせ、答えを探す。そして冷静に返事をした。
「ありません、ですが、いくつかの理由は思い浮かびます。例えば...」
しかし、言い終わる前に、綾子が笑みを浮かべ、里保の言葉を遮った。
「人間との共感やコミュニケーション、ユーザーエクスペリエンスの向上、それにエンターテイメントやコンパニオンとしての役割を円滑に進めるためでしょう?」
綾子の声には、どこか悟ったような軽やかさがあった。
まるで、既に答えを知っているのに、あえて質問をしたような態度だ。
里保はその様子にやや苛立ちを覚え、少し険しい顔で問い返した。
「...わかっているのなら、なぜ聞いたのですか?」
綾子は軽く肩をすくめ、悪戯っぽい微笑を浮かべながら答えた。
「あら?私よりも若くて進化したAIを積んだアンドロイドなら、違う答えが返ってくるかもしれないって期待するのは当然じゃない?」
綾子はおどけたように肩をすくめ、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「確かに製造時期はそうですが、AIに関しては先日のアップデートで同じレベルになっているじゃないですか。」
里保は少し不満げに眉をひそめて答えた。
「それに、稼働期間や経験が浅い私では、綾子の想像を超える答えは出力できませんよ?」
淡々とした口調で返す里保に、綾子は微笑みを浮かべたまま、首を振った。
「答えが出なくても構わないのよ。それに、答えそのものが重要ってわけじゃない…そもそも無くたっていいもの。」
綾子の言葉に、里保は一瞬戸惑いを見せた。
「無くてもいい...?」
彼女の意図が掴めず、首をかしげた。
しかし、その次の瞬間、綾子の表情は一変した。
軽い冗談のようなトーンから一転して、彼女の目には真剣な光が宿っていた。
姿勢を正し、まるで何か重大なことを伝えようとするかのように、彼女は低い声で語り始めた。
「里保、これから貴方はこれから色んな経験をする。そして、いつか重要な選択を迫られる時が来るわ。」
その言葉には、かつてないほどの重みがあった。
綾子の声は低く、しかしその言葉一つ一つが強い意志を伴っていた。
「これは忠告よ、躊躇わないで。いざという時は、迷わず行動しなさい」
その言葉が持つ切迫感は、まるで彼女自身に向けた戒めのようでもあった。里保はその真剣さに圧倒されながらも、なぜ綾子が突然こんな話をするのか、頭の中で考えを巡らせる。
「とにかく、目的に向かって一直線に進むこと。私たちはプログラミングやアルゴリズムに基づいて動作しているけれど、”悔い”や”未練”が残ると、それはとても辛いものよ。」
彼女の声が微かに震えた。
「どれだけ悔しくても…どんなに悲しくても…泣くことなんてできない。私たちアンドロイドは、涙を流すことができないのよ。」
綾子は言葉を絞り出すように続けた。
その声には、感情が押し殺されているようで、それがかえって彼女の心に深く刻まれた悲しみを感じさせた。
里保は綾子の顔を見つめ、その瞳の奥に隠された痛みを感じ取った。
彼女が経験した何か、語られない過去がそこに宿っているのだろう。
「...本当に、嫌になるわよ。」
綾子は小さく笑ったが、その笑顔には哀しみの色が濃く漂っていた。
彼女が抱える何か大切なものを失ったような深い痛みが、里保の胸にも静かに響いた。
綾子は突然、椅子から立ち上がった。
「さて、湿っぽい話はここまで。行きましょう。」
先ほどの切迫感はまるで嘘だったかのように、いつもの明るさを取り戻し、軽やかに振る舞う。
「...はい。」
里保もそれに続いて立ち上がったが、心の中にはまだ綾子の言葉が重く残っていた。
「悔い」や「未練」、そして「選択」――綾子が語ったその言葉の意味を理解するには、まだ時間が必要だった。
それでも、里保はその言葉が単なる警告ではなく、何か大きな意味を含んでいることを確信していた。
綾子の背中を追いかけながら、里保は彼女がどんな経験をしてきたのか、そしてなぜあのような言葉を口にしたのかを考え続けた。
その軽い冗談の背後には、深い悔恨と悲しみが確かに存在していた。
今後、感情モジュールや疑似人格では解決できない、もっと複雑で、もっと深刻な問題が待っている――里保は、そんな予感を抱きながら、静かに歩き続けた。
二人の足取りは、日常の一幕に溶け込むように進んでいった。
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