第17話「人間は、答えのない問いに惹かれるものでね。そういうものを求め続ける存在なのかもしれない」

「指摘箇所が直っていない、本当にメールを見たのか?」


嶺二はぼやきながら、パソコンのモニターに険しい目を向けていた。

忙しさに押し潰されそうな日常が、彼の背中に重くのしかかっている。

間宮嶺二という男は、研究者としての顔と、社内外の企業とのディレクション業務をこなす多忙な人間である。

オフィスに居る時、彼の姿は常にパソコンと格闘している姿だ。

スケジュールに追われ、タスクが次々と積み重なっていく中でも、彼は一つ一つ片付けていく。

だが、その過程で独り言が増えていくのも恒例だ。


「よし、相変わらずこの企業は対応が早い。他の企業も見習ってほしいねぇ...」


嶺二は画面を眺めながら、少しだけ満足げに呟く。


独り言が多いのは彼の癖だ。


本人曰く「より集中するために必要な行為」らしいが、周囲には奇妙に映ることもある。

しかし、里保にとってはそれが日常の一部であり、嶺二の仕事ぶりを静かに横から見守るのが彼女の役目の一つだ。

もっとも、里保自身もこの業務を手伝いたいと思っているが、嶺二は「こういうのは人間の手でやらなければならない」と言って、彼女には触れさせない。それが彼のポリシーなのだ。


「嶺二、コーヒーを補充します」


「頼むよ」


嶺二は短く答え、再びパソコンに没頭する。


里保は静かに嶺二の使い終わったマグカップを手に取り、コーヒーメーカーの方へ向かう。

スイッチを押すと、ゆっくりとコーヒーが抽出される音が響く。

ほのかな香りが漂い始め、オフィスの静けさを少しだけ和らげるようだ。

ちなみに、このコーヒーメーカーは嶺二が5000円ほどで購入した安物だ。

コーヒー自体も、詰め替え用の手頃なものを使っている。


「コーヒーが好きなのであって、ブランドには興味がない」と嶺二はいつも言っていた。

その言葉を思い返しながら、里保はゆっくりと抽出が終わるのを待つ。


「どうぞ」


コーヒーを淹れたマグカップを、彼のデスクにそっと置く。


「ありがとう」


嶺二は短く礼を言い、いつものように優しい微笑みを浮かべた。

里保はその微笑みに対して、わずかに頷き返す。

そして、彼は再びパソコンに向かい、ディレクション業務へと戻っていく。


嶺二の独り言が時折部屋に響く中、日常の静かなリズムが続いていく。

メールの返信に、書類の整理、次から次へとやってくる指示や確認事項。

それらに対処しながら、嶺二は一日を淡々とこなしていく。


その間、里保は自分用のデスクへと向かい、そこに立てかけられている本棚を見やった。

詩集や哲学書、さらには漫画まで、多様なジャンルの本が整然と並んでいる。

彼女は一冊の哲学書を手に取り、ページを開いた。

しばらくその本に集中していたが、ふと嶺二が声をかけてきた。


「何を読んでいるんだい?」


「トラヴィスの書いた『宇宙』です。あなたが勧めてくださったので」


そう言って里保は本を閉じ、嶺二に目を向けた。


「哲学は興味深いです。答えのない問い、そして何が正しくて何が間違っているか...読んでいて楽しいです」


里保の言葉に、嶺二はマグカップを軽く傾け、コーヒーを一口飲むと、少し考えるように視線を遠くに投げた。


「人間は、答えのない問いに惹かれるものでね。そういうものを求め続ける存在なのかもしれない」


嶺二はふと里保を見つめ、さらに続けた。


「里保、君はこれから多くの経験をするだろう。いつか自分自身で答えのない問いに直面する時が来るかもしれない。その時、君がどんな選択をするのか…私も楽しみにしているよ」


その言葉に、里保は静かに頷いた。嶺二は再び自分の作業へと戻り、またキーボードを打つ音が静かに響き始めた。


里保も哲学書を再び開き、そのページに目を通す。二人の仕事と読書が織りなす静かな時間が流れていく。


そして、時計の針が夕方を指し示す頃、ようやく嶺二は満足そうにパソコンをスリープモードにした。


「これで今日の分は終わり…ちょうど夕食の時間だ。行くよ里保」


「了解しました」


嶺二は自分のポリシーとして「三食必ず食べる」というルールを貫いている。

食事は身体と精神のエネルギーを補給する重要な時間だと信じているため、どんなに忙しくてもこの習慣を崩すことはない。


こうして、里保と嶺二はオフィスを後にし、夕食へと向かう。


そして、オフィスの静寂は二人の足音とともに徐々に遠ざかり、夜の街へと溶け込んでいった。


忙しさに追われる日々の中で、嶺二にとって、夕食の時間は束の間の休息でもあり、また新たな一日へ向けての準備でもある。

明日もまた、変わらない日常が待っているだろう。

しかし、その平穏な一日の終わりこそが、嶺二にとっては最も大切なひとときなのかもしれない。

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