第10話「私がやるべきことなんですッ! 邪魔しないでくださいッ!」

あれから数日が経った。嶺二のもとで行われた綾子のアップデートは無事に完了し、表面上は何も変わっていないように見えた。

しかし、日常は徐々に揺らぎ始めていた。

嶺二を取り巻く空間に、まるで水面に石を投げ込んだ時のような波紋が広がっていくのを、里保は感じていた。


これまで嶺二の身の回りの世話をしていたのは里保だった。

朝食の準備、実験機材の整備、彼が必要とするあらゆる雑務をこなしてきた。

だが、それが変わり始めた。

いつの間にか、綾子がその役割を担うようになっていたのだ。


"気づいたら、すべて彼女がやってしまっている"


里保は何度もそんな状況に遭遇した。

朝食の準備も、研究の準備も、気づけば綾子が先に手をつけている。

彼女は自分の役割を自然に奪い取るかのように振る舞い、「貴方はゆっくりしていて」と里保に告げる。

そして、その言葉に気圧された里保は、いつも引き下がるしかなかった。


それが日々続くにつれ、里保は説明のつかない焦燥感に駆られるようになった。

自分が存在する意味が、少しずつ侵食されているような感覚だ。

何かが違う、何かが変わっていく…しかし、その正体が何なのか、彼女自身にもまだわからなかった。


ある日のこと。


嶺二は相変わらずPCに向かい、独り言を呟きながら作業に没頭していた。

タイピングの音が静かな部屋に響く中、里保は嶺二のそばに立ち、その背中を見守っていた。

綾子は椅子に腰掛け、どこからか手に入れた本を静かに読んでいる。


嶺二がふと手を伸ばし、いつものマグカップを取って口に運ぶ。

しかし、コーヒーはもう底を尽きていた。嶺二は気づかず、再びキーボードに向かう。

いつもなら、自分でコーヒーを淹れに行くはずなのに、今日はそれに気づかないまま作業に没頭しているようだった。


里保はそっとマグカップを手に取り、コーヒーメーカーへと向かう。

しかし、その動きを察知した綾子が、さっと立ち上がり、里保に近づく。


「私がやるわ、貴方はゆっくりしていて」

と綾子が言い、マグカップに手を伸ばす。


だが、里保はマグカップを引き下げた。

突然の行動に綾子が困惑した表情を見せる。今まで里保がこんなことをしたことはなかったからだ。


「大丈夫です、綾子。私がやります。」

里保は落ち着いた声で答え、彼女の横をすり抜けようとした。


しかし、綾子は里保の腕を軽く掴む。

「いいのよ、私に任せて」

と優しく微笑む。その笑顔は、まさに困っている人を助けようとする善意に満ちていた。


だが、その優しさが、逆に里保を苦しめていた。

自分の役割が奪われ、居場所がなくなるような感覚が、彼女を駆り立てる。

何かを失ってしまう――その漠然とした恐怖が、里保の心の奥底で膨らんでいく。


「里保、聞いて――」

綾子が言いかけた瞬間、里保は抑えきれなくなった。


「私がやりますッ!」


声を荒げ、無理やり綾子の手を振りほどいた。

振り解くその瞬間、里保の手からマグカップが離れ、鈍い音を立てて床に落ちた。

静寂が部屋を支配し、二人の間に重苦しい空気が流れた。


嶺二はその音に気づき、キーボードを打つ手を止めて振り返った。


里保は自分がしてしまったことを理解し、無言で立ち尽くす。

綾子の表情には驚きと困惑が混じっていた。静かな部屋に、床に落ちたマグカップの破片がまるで、里保の心の欠片を映し出しているかのようだった。


彼女の胸の中で広がっていた不安と焦燥は、ついに形を持って現れた。

しかし、それをどうすればいいのか、里保にはまだわからないままだった。


一瞬の沈黙が、部屋全体を包んだ。

緊張が空気に張り詰め、誰もが次に何が起こるかを感じ取っていた。

やがて、里保が声を荒げた。


「私がやるべきことなんですッ! 邪魔しないでくださいッ!」


その言葉は、静寂を打ち破り、部屋の隅々にまで響いた。

嶺二の作業スペースに漂う平和な空気が、まるで水面に石を投げ込んだかのように乱される。

里保の言葉に、綾子は驚いたように目を見開き、声を詰まらせた。


「邪魔だなんて...私...そんな...」


綾子の腕は、力なく落ちる。

彼女は、まるで𠮟られた子供のように弱々しい声で、何とか言葉を絞り出した。


「私、貴方の...力になりたくて...」


そのたどたどしい言葉が静まり返った空間に響く。

ふたりの間に流れる緊張は、耐え難いほどに重くなり、部屋の空気を圧し潰すかのようだった。

だが、その沈黙を破ったのは嶺二だった。


「二人とも、こっちに来なさい。」


嶺二はPCの前から作業を止め、手招きしながら優しく呼びかけた。

その声には、いつものように穏やかな優しさがにじみ出ている。

その温かな声に、里保と綾子は素直に従い、嶺二の元へ歩み寄った。

彼の前で横並びに立ち、気まずそうに俯く里保に、嶺二はゆっくりと問いかける。


「里保、どうしてあんなことをしたんだい?」


その言葉には、厳しさは一切感じられなかった。

むしろ、彼は優しく促しながら、里保が自らの気持ちを話すのを待っていた。


「...いつも、嶺二の身の回りのことは私がやっていました。それが、綾子がやるようになってから、何か焦燥感のようなものを感じてしまって…」


里保は俯きながら、絞り出すように告白した。

その姿は、まるで罪を懺悔するかのようだった。


「今回のことで、どうしても自分でやらなければと思い込んでしまい...あのような態度を取ってしまいました…」


嶺二は、優しく里保を抱き寄せた。

彼の手が、そっと里保の頭を撫で、まるで親が子供をあやすように優しい声で続けた。


「気持ちは嬉しいが、言っただろう? 私は召使いを作ったつもりはないよ。」

それに、と嶺二は続ける。

「里保はなんでも一人やろうとしすぎなんだ、もっと誰かを頼るんだ、いいね?」


その言葉は、里保の心に染み込むように響いた。

彼のぬくもりに包まれ、里保は少しずつ気持ちが軽くなるのを感じた。


「それと、ああいう態度を取るのは良くないな。綾子に謝れるね?」


「はい...ごめんなさい、綾子...」


里保は、綾子の方を向き、素直に謝罪の言葉を口にした。

だが、綾子はまだ俯いたまま何も言わない。


嶺二は、次に綾子の方を向いた。


「さて、次は綾子だ。こっちにおいで。」


綾子は無言で嶺二の方に近づき、彼の腕に抱き寄せられた。

その時、嶺二の声はさらに優しさを増した。


「説明、できるね?」


彼は、里保と同じように綾子の頭を撫でながら、彼女が自分の気持ちを言葉にするのを待っていた。


「私は...里保にとって姉だから、頑張らなきゃって思って...」


綾子は、言葉に詰まりながらも何とか続けた。


「姉は妹を守ったり、助けるものだって...だから里保の負担を少しでも減らそうとして...」


その声はどんどん弱々しくなっていき、まるで消え入りそうだった。

綾子の瞳には、人間であれば涙があふれ出ていたであろう。

しかし、彼女はアンドロイドであるため、その涙は存在しない。

それでも、その表情には深い悲しみが宿っていた。


「里保。私、貴方のためだと思って行動してたけど、貴方の気持ちを考えなかった。ごめんなさい...」


綾子は、静かに里保の方を向き、震える声で謝罪した。

ふたりは、互いの感情が行き違ったことに気づき、ようやく和解へと向かい始めた。


嶺二は、そのやり取りを見守り、満足げな表情を浮かべていた。


「さて、お互い色々とあるが、今回はこれで仲直りだ、いいね?」

と、嶺二は優しく言った。


その声音には、まるで優しい父親が子供たちに言い聞かせるような穏やかさが込められていた。


「はい…」

「うん…」


里保も綾子も、どこか戸惑いながら小さく頷く。

二人の間にまだわずかな緊張感が残っているのは明らかだった。

数分前のやりとりが、完全に消えてしまったわけではない。

けれど、嶺二の穏やかな声に促され、彼女たちは少しずつ前に進もうとしていた。


再び訪れた沈黙。

しかし、今度のそれは先ほどのような重苦しいものではなかった。


今は、二人の間に生まれたわだかまりが少しずつ溶けていく予感がする、静かで穏やかな沈黙だった。

嶺二はその場で二人を見守りながら、その微妙な空気の変化を感じ取っていた。


「焦らず、ゆっくり歩いていけばいい。」


嶺二のその言葉に、里保も綾子も小さく微笑みを浮かべた。

それはまだ小さな、そして控えめな微笑みだったが、確かにその瞬間、二人の間にあったわだかまりは一歩ずつ溶けていく兆しを見せていた。


ふたりはその場にしばらく立ち尽くしていたが、やがて互いに顔を見合わせ、少しずつ歩み寄った。

まだ完全に和解したわけではないかもしれない。

しかし、確実に何かが変わったのだと感じていた。

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