第20話「彼の冒険は波乱に満ちていた。それ故、目的地に辿り着いたときの歓びは計り知れないだろうね」
朝早く、静かなオフィスに一人動く影があった。
嶺二がまだ戻らぬその空間で、里保が手際よく掃除を進めている。
本来なら、彼の独り言が時折混じるはずの朝だが、今日は静かだ。
彼はいつもならそこにいるはずなのに、朝目覚めたときにはすでに出かけていた。
デスクの上に短い置き手紙が残されていて、「用事で出かける」とだけ書かれていた。
それを見た里保は、嶺二の分の朝食を用意する必要もないことに気付き、少し寂しい気持ちを抱えつつも、せめてオフィスをいつも以上にきれいにしようと心を込めて掃除を続けていた。
彼女は布巾を手に、嶺二のデスクを丁寧に拭き上げる。
表面の埃を一つも残すまいと集中していると、ふと気になることがあった。
「あら?」
デスクの引き出しの一つが、わずかに開いていた。
普段はしっかりと施錠されていて、開けられないはずの引き出しが、今は無防備に少しだけ開かれている。
「…」
胸が少しだけ高鳴る。
開けてはいけないと思いつつも、なぜかその中身が気になって仕方がない。
彼女は意を決して引き出しをそっと開け、中を覗き込んだ。
そこには封筒がいくつか、きれいに並べられて入っている。
彼女は一つの封筒を手に取り、その差出人に目を向けた。
「間宮色羽…」
その名前に見覚えはないが、どこか親しみを感じさせる響きがあった。
封筒を開き、中の手紙に目を通すと、文面にはこう記されていた。
「兄貴へ、何度も電話しても繋がらないからこんな古風なやり方で伝えざるを得ない。遂に高校の入学式にも来なかったな。必要なモノは用意したからあとは任せたなんてふざけた留守電だけ入れて全部こっち任せにしやがって、いい加減、志乃夫と向き合え。それと連絡よこせ。待ってる。」
里保の心にざわめきが広がる。色羽…それが嶺二の弟か妹の名前なのだろう。
そして「志乃夫」という人物。
おそらく彼の息子か、そうでなければ大切な存在であるに違いない。
「…」
以前に抱いたことのある複雑な感情が里保の胸を再びざわつかせる。
嶺二がどんな事情で、誰を、何を背負っているのか。
それを深く知りたいと思う一方で、これ以上知ってはいけないのかもしれないとも思う。
そっと手紙を元の位置に戻し、引き出しを閉じると、彼女は一息ついて再び掃除に戻った。
「…続きをしましょう」
その漠然とした感情を掃除の動きで振り払うように、彼女は心を集中させ、オフィスの隅々まで清掃を進めていく。
日が昇り始め、朝の光が窓から差し込む頃、ようやく掃除は一通り完了した。
道具を片付け終えた里保は、今度は自分のデスクに腰を下ろし、手元にあった本を開く。
少し前に嶺二が勧めてくれたディクタスの詩集である。彼が勧めてくれた理由を考えながら、ゆっくりと一ページずつめくっていく。
しばらくすると、オフィスのドアロックが解除される音が静かに響き、嶺二が姿を現した。
「おかえりなさい、嶺二」
里保は本を閉じて立ち上がり、嶺二のもとへ歩み寄る。
彼は少し疲れているようだったが、彼女に向けて柔らかな微笑みを浮かべた。
「ただいま」
その短い言葉には、いつもどおりの優しさが込められている。
「先ほどまでディクタスの詩集を読んでいました。嶺二が勧めてくださったので」
里保はそう言いながら、彼に本を見せた。
まるで帰宅した父親に誇らしげに成果を見せる子供のように。
「それで、感想は?」
と、嶺二が優しく問いかける。
「彼の詩は基本的に悲観的ですが、徐々に歓びへと転じていきました」
と彼女は答える。
嶺二は頷き、少し考え込んだように答えた。
「彼の冒険は波乱に満ちていた。それ故、目的地に辿り着いたときの歓びは計り知れないだろうね」
彼はそう言うとデスクに腰を下ろし、PCを起動した。
そして、ふと里保の方に目をやり、「私のことは気にせず、読書を続けなさい」と促すように彼女の座っていた椅子を指差した。
「はい」と里保は頷き、再び本に戻る。
キーボードを打つ音とページをめくる音がオフィスの静寂の中で心地よく響き、穏やかに時間が流れた。。
ページをめくる手を止め、ふと里保の目が宙を漂う。
「(間宮志乃夫...)」
心の中でその名前を繰り返してみるが、頭の中に映るのは空白のままだ。
彼、あるいは彼女、その姿がまったく見えてこない。
それでも、嶺二にとって重要な存在であることは手紙の内容からも明らかであり、どうしても頭から離れなかった。
「(同じ存在から作られたという意味では兄妹ということになるのでしょうか)」
里保はそんなことを考えた。
自分と志乃夫が直接の血を分けた兄妹であるはずはないが、もし彼もまた何らかの形で「間宮」の名前を受け継ぐ存在なら、どこかで血縁を越えた繋がりがあるのかもしれない。
里保は無意識に胸に手を置き、心臓がないことを確認するかのように、少し指先に力を込める。
「(いつか、出会う日がくるのでしょうか)」
その時、どんな顔をして彼に向き合えばいいのか想像もつかない。
嶺二が時折見せる遠い眼差し、その視線の先にいるのが彼だとすれば、自分はこの関係の中でどんな位置に立っているのだろうか――そんな考えがちらりと胸をかすめた。
が、彼女は深い考えを振り払うように、そっと肩の力を抜き、もう一度本に目を落とした。
「…」
本のページには、困難な冒険を乗り越えて成長していく物語が描かれている。
ディクタスの詩の主人公が、過去の過ちや苦悩と向き合いながら、最後には新しい希望を見出す姿に、里保はどこか惹かれていた。
その姿がまるで、いつか自分にも訪れるかもしれない未来への一つの道しるべのように感じられたからだ。
「…」
彼女の心の奥では、志乃夫という存在に対する淡い興味と不安が渦巻いていた。
ページを一つめくるたび、彼女は胸の奥でいつか見ぬその存在と向き合う日が来るのではないかという思いを少しずつ積み重ねていた。
それは答えのない問いだったが、彼女にとってはその答えを知る時が来る日まで静かに待つしかないのだと感じていた。
こうして里保はまた詩集のページへと意識を戻し、時間がゆっくりとオフィスの静寂とともに流れていった。
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