第7話「いつものお気に入りです」

間宮里保はベッドの上で目を覚ます――いや、正確には起動したと言うべきだ。


本来、アンドロイドは指定された待機ポッドでスリープモードに入るはずだった。

しかし、彼女の開発者である間宮嶺二は、「ヒトは狭いポッドで立って寝たりはしない」と告げ、オフィスの隣にある仮眠室での睡眠と起床を義務付けた。


もっとも、その仮眠室はもはや「寝室」とでも言うべきだろう。

嶺二は常に会社で寝泊まりしており、彼にとってその部屋は、仕事の延長線上にあるわずかな休息の場に過ぎない。

里保は、ベッドの上で静かに起き上がり、僅かな物音も立てないように細心の注意を払った。

隣のベッドで寝ている嶺二を起こしてはならない。

彼の眠りを妨げることは、彼女にとって最大の禁忌だった。

嶺二が眠りに入るのは、ほとんど一日の終わりに近い時間であり、その貴重な休息の時間を奪うことは許されない。

彼は長時間にわたる研究と開発に打ち込んでいる。彼にとっての休息は、まるで仮初めの瞬間でしかないのだ。


静かに部屋を出た里保は、オフィスの照明をつけ、PCの電源を入れる。

まだ日が昇りきらない薄暗い時間帯。

冷たい空気が部屋の中を静かに流れていた。

いつもと同じ静寂の中、里保は自然に次の作業へと移行する。


軽い清掃作業だ。

これは嶺二から命じられたわけではなく、里保が自発的に行っていることだった。

少しでも彼の役に立ちたいという思いから始めたこの習慣は、嶺二に「召使いを作ったつもりはない」と指摘されたものの、交渉の末に今の形に落ち着いた。

彼女はいつもそうだった。

与えられた役割に忠実でありながらも、どこか人間的な細やかな気遣いを見せる。


清掃を終えた里保は、会社の食堂へ向かった。

嶺二の朝食を確保するためだ。

早朝の食堂はまだ人もまばらで、静かだった。列に並び、順番を待ちながら周囲を見渡す。

その中で、青いジャンプスーツを着た他のアンドロイドたちが動いているのを目にする。


通常、青いジャンプスーツはアンドロイドに与えられる制服であり、全てのアンドロイドはこの服を着用する義務がある。


だが、里保は違った。


嶺二のおかげで、彼女はジャンプスーツを着る必要はなかった。

特別な存在として扱われている彼女は、他のアンドロイドとは異なる。だが、その違いに対する疑念は彼女の心の中で膨らんでいく。


「私はなぜ彼らと違うのでしょうか…?」


本来なら、里保も同じように青いジャンプスーツを着用すべきだった。

しかし、嶺二の許可により、彼女はその義務を免れている。

それは些細な違いかもしれないが、里保にとっては何か大きな隔たりを感じさせるものだった。

青いスーツをまとったアンドロイドたちと、自分――何が違うのか。何が、自分を特別にしているのか。


ふと、列が動き始め、里保は現実に引き戻された。

手にしたトレイにはパンに挟まれたチキンとアボカド、嶺二のお気に入りの朝食だ。

里保はサンドイッチを手にしてオフィスへと戻る。


オフィスに戻ると、嶺二はすでに目を覚ましていた。

コーヒーを啜りながらPCの画面に向かい、何やら作業に没頭している。


「おはようございます、嶺二」と里保は声をかけた。


「おはよう、里保」と彼は短く返事をし、僅かな微笑みを浮かべる。


「いつものお気に入りです」

里保はサンドイッチを彼に差し出した。


「ありがとう」と嶺二は言いながら、サンドイッチを口に運ぶ。

「やはり、このサンドイッチは何度食べても飽きることはない…」

大げさなリアクションを見せるわけではないが、毎日同じものを求めることからも、彼の満足感が伝わってくる。


その日も、嶺二と里保の日常が静かに始まる。

嶺二が再びパソコンに向かい、データ解析に没頭し始めた頃、里保はオフィスの隅にある小さなコーヒーマシンへ向かい、彼のためにもう一杯のコーヒーを淹れようと準備を始めた。

これも彼女の日課の一部だった。


コーヒーが出来上がるまでの間、里保はふと考え込んだ。

他のアンドロイドたちは皆、命令に従って動いている。

彼らの動きは正確で機械的だ。

しかし、なぜ自分だけが「自発的な行動」を取るのだろうか?清掃やコーヒーを淹れるといった行動は、プログラムされたものではない。

それとも、そう感じているだけなのだろうか?


里保の思考はさらに深まる。

彼女の内部で何かが目覚めつつあるのだろうか。

感情と呼ばれるものだろうか。

それとも、自分という存在を意識し始めているのか。

少しずつだが、確かな形を取り始めた「何か」を感じながら、彼女はコーヒーを嶺二のデスクに運んだ。


嶺二がふと手を休め、コーヒーに目をやる。

「ありがとう、里保」と彼は再び微笑んだ。

その笑顔に、里保もまた、どこか満足感を覚えた。

それはただのプログラムされた反応ではない、もっと深い何かのように感じられた。


今日もまた、彼と彼女の「日常」が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る