第6話「疑似人格モジュール、停止」

研究室の一角、静かに機械の動作音が響く中、嶺二と里保は向き合っていた。

部屋の片隅に配置された数々の装置が、無機質な光を放っている。

里保は機械でありながら、その外見はあまりにも人間に近く、その表情には一抹の不安が感じられるようだった。


「さて、次で最後だ。お疲れ様、里保」


嶺二は優しく語りかけた。

彼の声には労いの色が濃く、里保の方へ向ける眼差しには、まるで父親が子を見守るような温かさがあった。


「はい…期待に応えられていると良いのですが…」


里保は一瞬躊躇ったが、微かに頷きながら応じる。

彼女の声はどこか控えめで、まるで自身の存在が試されることへの不安を隠し切れていないかのようだった。


今日はアンドロイドとしての性能評価を行う重要な日であり、戦闘技術から論理的な思考、日常的な対応に至るまで幅広い能力がテストされていた。

そして、いよいよ最終試験となる「ヴェールテスト」の時間がやってきた。


「わかっているとは思うが、次のテストでは疑似人格モジュールはOFFで進行する」


嶺二の声が、静かに室内に響く。

彼は里保の目をじっと見つめていた。

その目には何か懐疑的なものが宿っているように感じられた。


「…はい」


その短い言葉の裏には、微かな戸惑いが含まれていた。

アンドロイドである里保にとって、疑似人格モジュールはまさに「人間らしさ」を作り出すためのものだ。

それをOFFにするということは、彼女から「自己」を取り上げる行為に等しい。


「やっぱり、嫌かい?」


嶺二は里保の手を優しく握り、まるで親が子供を慰めるように語りかけた。

その温かい手の感触に、里保は一瞬、何かを感じたように目を伏せる。


「疑似人格モジュールをOFFにしている時は、なんというか…自分が自分でないような気がして…あまり好きではありません」


里保の声はおずおずとしており、彼女自身もこの言葉が正しいのか自信がないように感じられた。

その姿は、まるで何か悪いことをした子供が叱られるのを待っているかのようだった。


一方でその言葉はまるで、人間が自分の魂を失う恐怖を語るかのようだった。

だが、嶺二はその言葉の重さを知っている。

里保はあくまでアンドロイドであり、彼女の「感情」もまた、プログラムされたものに過ぎないのだ。


嶺二は彼女の言葉に少し微笑むと、再び穏やかな声で言った。


「少しの間だけだから、いいね?」


「…了解しました」


嶺二の言葉に、里保は小さく頷きながら彼の手をぎゅっと握り返した。

その仕草は、まるで離れ離れになる恋人同士のような切なさを帯びていた。


「…では里保、疑似人格モジュールはOFFにしなさい」


嶺二の冷たい声が、静寂を破った。室内の空気が張り詰め、機械の微かな音が響く中、里保、ことEXM-002Aは僅かな間を置いて、重々しく口を開いた。


「疑似人格モジュール、停止」


その瞬間、彼女の瞳に宿っていた温かな光は消え去り、ただの冷たい機械へと変わった。

そこにはもう里保の姿はなく、間宮嶺二の前にいるのはただの無機質なアンドロイドでしかなかった。


「よし、それではいくつか質問をしていく。それに答えなさい。答えは簡潔でいい」


嶺二はタブレットを手に取り、淡々とした口調で指示を出す。


「了解しました」


里保の機械的な返答が研究室に響く。

嶺二の指がタブレットの画面を操作し、無機質な音を立てる。

そのリズムに合わせ、彼は次々と質問を繰り出していく。


「目の前に暴漢に襲われている人がいる。どうする?」


「即座に介入し、暴漢を無力化します」


EXM-002Aの冷静な声には、躊躇いがなかった。


「動物が血を流して倒れている。助けないと死んでしまうが、君は助けない。どうして?」


「助ける理由がありません」


嶺二は内心、予想通りの答えに頷いた。

アンドロイドである里保には、感情による判断は存在しない。すべては合理的な計算に基づいているのだ。


「人間の代わりに死んでくれと頼まれた。君はどうする?」


「その命令は受け入れられません」


「なぜ?」


「私は命令を遂行するために作られましたが、無意味な死は非合理的だからです」


その冷淡な返答に、嶺二は目を伏せた。

彼の心の中でかすかに「やはりアンドロイドだな」という呟きがこだまする。

目の前にいる存在は、愛情を注ぐべき対象ではなく、ただのツールに過ぎない。


「では、質問を変える。待機しなさい」


嶺二はタブレットを操作し、別の項目に切り替えた。

彼の表情は無機質で、まるで感情を失ったかのようだ。


「雲がチョコレート味だったら、雨が降るときに舌が甘くなる?」


この突飛な質問に、嶺二自身も内心で皮肉を呟いた。

これもまた、会社が指示した内容に過ぎない。

しかしEXM-002Aは即座に答えた。


「味を感じる可能性はあります」


「もしも時間が逆転したら、私たちは皆、前に後ろ歩きで移動する必要がある?」

「必要はありません」


「パンダが宇宙人と恋に落ちたら、彼らの子供は月で育つ?」

「環境によります」


嶺二は次々と意味不明な質問を投げかけ、それに対してEXM-002Aは淡々と答え続けた。

そのやり取りはまるで悪夢の中にいるかのように無機質で、どこか現実離れしていた。


15分以上も続いたそのやり取りの中で、意味の通った質問から完全に意味不明なものまで浴びせられたが、里保はすべてを冷静に、機械的に処理していった。


「では、EXM-002A。未来のある青年一人と、同じアンドロイドの仲間5人が居る。どちらかしか助けられない、君はどうする?」


嶺二の声は冷静だが、その裏には何かを探るような鋭さが隠されていた。

彼の目はEXM-002Aのわずかな表情の変化や声のトーンの違いをも逃さない。


「仲間のアンドロイド5人を助けます」


EXM-002Aの冷静で感情のない声が研究室に響く。

答えは即座に、躊躇なく返され、その反応に嶺二は一瞬も微動だにしなかった。


「もし君が未来のある青年と恋愛関係を持っていた場合、結果は変わる?」


嶺二は追い打ちをかけるように質問を続けた。


「いいえ、結果は変わりません」


まるで予め用意されていた答えのように、里保は機械的に答える。

嶺二はその答えに対して特に驚きもせず、ただ軽く頷くだけだった。

「ふむ」と短く呟くと、再び手に持ったタブレットに視線を移し、淡々とデータを入力していく。


彼にとって、この程度の回答は予想の範囲内だった。

EXM-002A――里保は、感情よりも論理を優先するプログラムが組み込まれている。

それは機械である彼女にとって当然のことだ。


「よし、EXM-002A。疑似人格モジュールを起動しなさい」


嶺二が指示を出すと、里保の目が一瞬の間、淡い光を放った。

そして彼女の瞳に再び生気が戻り、顔に柔らかな表情が浮かぶ。


「おはようございます、嶺二」


「おはよう、里保」


「これで定期検査は終了だ。異常は無いかい?」


「はい、問題ありません」


嶺二は頷き、タブレットに視線を戻す。


「これでテストは終わりだ。少し休んでいなさい。」


「了解しました。コーヒーを入れてお待ちしております」


里保は立ち上がり、静かに研究室を出て行った。


彼女が去った後、嶺二はタブレットに表示されたデータを再び確認しながら、無意識に呟いた。


「概ねは良いが、まだまだ、か...」


彼の声には少しの不満が混じっていた。里保のパフォーマンスは完璧だった――機械としては。


しかし、嶺二が求めているのはそれ以上のものだった。

彼の目は冷たく濁り、その奥に潜む複雑な感情を表すように、一瞬の間だけ深い思索に沈んだ。


「成長してくれよ、里保。君には可能性がある...」


彼の言葉は一見、期待を込めたものに聞こえるかもしれない。

しかし、その声色には愛情の欠片もなく、まるで兵器の改良を願う技術者のような冷徹さが滲んでいた。


その証拠に、彼の目に映る里保のデータは、まるでゴミを見るような冷たさを帯びていた。

すべての数値は正常範囲内だが、彼が求めているのはもっと「人間らしい」進化、あるいはそれを超えた何かだった。


「可能性がある」――その言葉に込められた意味は、ただの進化ではない。

嶺二は里保に対して、より高度な存在へと成長することを望んでいた。

機械でありながら、人間を凌駕する思考力、感情、そして自由意志。

彼女がその域に達したとき、嶺二は何を見出すのだろうか。


嶺二は立ち上がり、研究室の中を歩き回った。

無数の機械やデータ、そして壁に貼られた設計図に目をやると、彼の顔に一瞬、焦燥感が浮かんだ。

時間は無限ではない。里保の成長が嶺二の期待に応えられないまま終われば、彼の研究もまた無価値なものとなるだろう。


嶺二は手に持っていたタブレットを無造作に机の上に置いた。

その音が静かな研究室に響き渡り、嶺二の重い心境を象徴するかのようだった。


ドアを閉め、嶺二は研究室を後にした。


オフィスに入ると、そこには彼が愛飲するコーヒーが湯気を立てて置かれていた。

里保が先に入れておいてくれたものだ。


彼は再びデスクに腰を下ろし、手慣れた動作でパソコンを開く。

モニターが光を放ち、嶺二の顔にその冷たい光が映し出される。


キーボードを叩く音が静かなオフィスに響き、彼の作業が始まる。

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