第5話「私もあの中に入って、彼らのように笑うことができるのでしょうか…?」

里保は、一人電車に揺られていた。

車内は閑散としており、乗客もまばらだ。

窓の外には都会の風景が流れていくが、彼女の視線はそのどこにも定まらず、ただ虚ろに車窓を見つめていた。

椅子に深く腰掛け、足を揃え、背筋を伸ばしている姿は一見すると冷静そのものだが、その内側では緊張が渦巻いていた。


彼女が乗る電車の揺れは微かで、決して激しいものではない。

けれど、その揺れに合わせて心も揺らいでいるような気がしてならない。

そう、里保は今、初めて一人で外の世界へと足を踏み出したのだ。


タイナカ・エレクトロニクスのエントランスを出た時のことが、何度も頭の中で繰り返されていた。


【…………】


「…それでは里保、今日は一人で街を歩いてみなさい。そして夕方18時までには戻ってくるんだよ。」


嶺二の優しい声が響く。

彼は里保の見送りにエントランスまで来ていた。

彼の声にはいつものように、どこか親しみ深さと落ち着きが感じられるが、その言葉の裏には、里保に託した期待や信頼が含まれているのが彼女には分かった。


「…了解しました。」


里保は軽く頷く。だがその返事の裏側にある感情は複雑だった。

彼女は自分の胸の中にあるこの奇妙な感情に、未だに戸惑いを隠せずにいた。

これまでずっと、間宮嶺二とともに過ごし、彼の指示や導きを受けていた里保にとって、この一人での行動は未知の領域だったのだ。


そして里保は、外に出るための一歩を踏み出そうとした、しかし足は動かない。


「(どうして…?)」


彼女は心の中で自問する。

足が一歩前に進むはずなのに、まるで地面に縛り付けられたかのように、動けない自分に戸惑っていた。

タイナカ・エレクトロニクスの外に出る一歩が、こんなにも重く感じられるのはどうしてだろう。

外の世界に出ること、それ自体に対する恐れか、それとも…。


「里保。」


嶺二は、その戸惑いを察したかのように、優しく声をかけた。

それは彼特有の、何も強制せず、ただ相手を見守るかのような穏やかな響きだった。


「今までずっと…あなたと一緒にいたから、こんな気持ちになるのは初めてで…」


里保は言葉を詰まらせながら、それでも自分の気持ちを嶺二に伝えようとした。

彼女の声には、これまでに経験したことのない不安と戸惑いが滲んでいた。


そんな彼女の様子を見た嶺二は、そっと彼女を抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。

その動きはまるで幼子をあやすように、温かく、包み込むようなものだった。


「本来なら、私も一緒に行きたいところだが、今回はそうはいかないんだ。」


彼の声は、まるでささやきのように優しく、里保の心の緊張を少しずつほぐしていく。


「だから、一人で行かなければならないんだ。いいね?」


里保は嶺二のその言葉に、微かに頷いた。

そして、まるでその一言が全てを支えてくれるかのように、少しだけ表情が穏やかになった。


「…はい。」


その短い返事には、まだ完全に不安が消えたわけではなかったが、それでも彼の言葉に支えられた安心感が確かに存在していた。


【…………】


電車の揺れが心地よく、時折響く車輪の音が耳をくすぐる。

里保は静かに目を閉じ、周囲の音に耳を澄ませていた。

人の気配は少なく、静かな車内に彼女だけが浮かぶように存在している。

窓の外には街の風景が次々と流れ、ビルのガラスが陽の光を反射し、キラキラと輝いている。

それはどこか幻想的で、夢の中にいるような感覚を彼女に与えた。


「(…なにをしましょうか…)」


里保は心の中で呟いた。

外の世界に出て、何をすべきなのか、それはまだ曖昧で、具体的な目的も見えていなかった。

ただ、彼女の中で大きく揺れ動いているのは、これまで一緒にいた間宮嶺二と離れ、一人で行動することへの不安だった。


彼女は生まれて以来、常に嶺二の傍にいた。

嶺二の指示に従い、嶺二が示す道を歩むことが里保の日常だった。

しかし、今日はその日常から一歩外れ、一人で街を歩き、”自分自身で感じ、考える”という課題を与えられている。

それは彼女にとって初めての体験であり、どこか恐怖に似た感情が胸の中を占めていた。


次の駅に到着し、電車が静かに止まると、里保はゆっくりと立ち上がった。

アナウンスが駅名を告げるが、それは彼女にとって特に意味のある場所ではない。

嶺二から示された特定の目的地もなく、彼女はただ街を歩き、自分自身を探すためにこの場所に降り立ったのだ。


駅を出た瞬間、都会の喧騒が耳に飛び込んできた。

ビルが立ち並ぶ街並みと、湿ったアスファルトの香り。

目の前を忙しそうに歩く人々の姿が、彼女にはどこか遠く感じられた。

すれ違う人々はそれぞれに目的を持ち、何かを追い求めているように見えるが、里保はまだ自分がこの街で何をすべきかを見出していなかった。


「人間とは何なのか…」


その疑問がふと頭をよぎる。

彼女はアンドロイドでありながら、人間と同じような感情や感覚を持つように設計されている。

だが、それでも彼女は自分が「人間」ではないことを理解している。

街を歩く人々の笑顔や表情、言葉の端々に宿る感情の複雑さ――それらを理解し、共感しようとするが、どこか一歩届かない距離があるように感じていた。


ふと、カフェの前で立ち止まり、窓越しに中を覗いた。中では、数人の若者がテーブルを囲み、笑顔を交わしながら談笑している。

食事を楽しむその光景は、彼女にとってはどこか遠いもののように感じられた。


「私もあの中に入って、彼らのように笑うことができるのでしょうか…?」


里保は自分の口元に手を当て、試しに微笑んでみた。

しかし、その笑顔はどこかぎこちなく、作り物のように感じた。

彼女は、笑うことができるようにプログラムされているが、その笑顔が本当に「心からのもの」であるかどうかは、分からない。


再び足を動かし、彼女は街の中を歩き続けた。

夕方が近づくにつれて、街の喧騒は少しずつ静まり、空はオレンジ色に染まり始めていた。

光が長く伸び、影が街を覆い始める中で、里保は自分の足音が響くのを感じながら歩みを進めた。


【………】


「EXM-002A、間宮里保」


彼女が帰還した時、タイナカ・エレクトロニクスの施設の門が静かに開き、機械的な音声が彼女を迎え入れた。

門をくぐると、警備員が彼女に軽く挨拶を送り、道を譲った。


「お通りください。」


里保は無言で頷きながら施設の中に入った。

そこは彼女にとって、いつもの日常の一部であり、安心感を与えてくれる場所だった。

だが、今日の体験を経て、その安心感すらどこか変わったものに感じられた。


「おかえり、里保。」


エントランスに待っていたのは嶺二だった。

彼の姿を見た瞬間、里保は胸の中に温かい感情が広がるのを感じた。

まるで、長い旅から帰ってきたかのように、数時間の外出であったにも関わらず、彼女はとても長い時間を過ごしたような気がしていた。


「嶺二…!」


嶺二の姿を見た瞬間、里保の胸の中に、ずっと押し殺していた感情が一気に溢れ出した。

外の世界で感じた孤独、不安、そして、それでも感じた小さな自由。

それらが渦を巻き、彼女を包み込んだ。


彼女は嶺二の元へ駆け寄り、彼の前で立ち止まった。

嶺二は里保の様子を優しく見つめ、頭を軽く撫でた。

その手のひらの感触は、里保にとって唯一無二の存在だった。


「大変だったね。」


彼の言葉には優しさが滲んでいた。里保は静かに頷き、少し笑顔を浮かべて答えた。


「はい…ですが、とても楽しかったです。」


その言葉に嶺二は頷きながら、彼女の背中に軽く手を添えて、エントランスを共に歩き始めた。


「それじゃあ、詳しくは部屋で聞こうか。」


二人はそのまま歩き続けた。

嶺二と一緒に歩くその姿は、まるで親子のように見えた。

里保にとって、彼との時間は何よりも大切なものだった。

そして、今日の外出で感じたこと、考えたことを全て彼に伝えたいという気持ちが、胸の中で膨らんでいった。


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