第4話「…いえ、『間宮』が良いです。『間宮里保』が良いです。」

「…一つお聞きしたいことがあるのですが」


里保は問いかけた。声には以前のような緊張感はなく、まるで生徒が先生に質問するかのように穏やかだった。

その澄んだ声が研究室の静かな空気にしみ込むように響く。

対する間宮嶺二は、いつもの柔和な表情でコーヒーを片手に座っていた。


「前みたいに、好き嫌いが差別と同じなのか? みたいな話じゃなければ、いくらでも答えるけど。何が聞きたい?」


嶺二は静かに微笑む。彼の言葉には、変わらず優しさが滲んでいた。

里保は彼のその態度に少し安心しながら、問いを続ける。


「データベースを覗いていた時に、私の登録名が『間宮里保』となっていたのですが、これはどういうことなのでしょうか?」


里保は首をかしげ、彼の顔を見つめた。

その仕草はどこか無邪気で、まるで答えを求めている少女のようだった。

嶺二は一瞬言葉に詰まり、そして笑みを浮かべた。


「そうだね…まあ、『間宮』が私のラストネームであることは知っているから、その辺は省くとして…」


嶺二は立ち上がり、手に持っていたコーヒーカップを見つめる。

そして、口元に運びながら続けた。


「お約束みたいなものだよ。社内コードに開発者の名前をつけるというのがね。ある意味、古い習慣みたいなもんさ」


彼はコーヒーを一口飲み、再び座り直した。

里保はその言葉を反芻し、頭に人差し指を当て、思考を巡らせるように少し考え込んだ。


「お約束…」


彼女は自分のデータベースにその概念を探しているような仕草を見せた。

それに気づいた嶺二は、またふっと笑みをこぼした。


「まあね、気にせず好きな名前を入れる人もいるけど、私はこの名前がいいと思ったんだ」


彼の目にはどこか懐かしさと温かさが宿っていた。その目を見つめながら、里保は自分の名前について少し不思議な気持ちになった。

名前というものが持つ重み、人間にとってのアイデンティティ。

彼女のようなアンドロイドにとっても、それは特別なものなのかもしれない。


「それと、今はこうして研究室で私の手伝いをしてもらっているが、いずれは社外でのフィールドワークを行ってもらう予定だ」


嶺二はコーヒーカップを机に置き、里保の方を振り返りながら続けた。

その言葉にはどこか新しい展開を予感させるような、わずかな緊張感が含まれていた。


「私が…ですか?」


里保は驚きを隠せなかった。

これまで研究室での作業が彼女の主な任務であり、外に出る機会はなかった。

彼女の人工知能は、膨大なデータとシミュレーションを駆使して様々な状況を解析できるが、実際に外界での経験はまだ限られていたのだ。


「ああ、いろんな場所へ行って、いろんな経験をすることになるだろう。実地でのデータが何よりも大事だからね」


嶺二は部屋の中を歩き回りながら、続ける。


「その時、ラストネームがないと案外困るモノだよ。特にこの国ではね」


彼は軽く肩をすくめ、少し呆れたように言った。


「…だからといって、里保、私はただ安直に『間宮里保』と名付けたわけじゃない」


嶺二は再び里保に向き合い、真剣な表情で彼女の肩に手を置いた。

その目はまっすぐ里保を見つめており、彼女の心をしっかりと捉えていた。


「細かい感情は省くが、私は君を“家族”だと思っている。そう考えれば、私と同じラストネームにするのは当然だろう?」


間宮嶺二は優しく微笑みながら、穏やかな声でそう告げた。

彼の瞳には、深い愛情と親しみが映っている。里保はその言葉を聞き、少し戸惑ったように目を伏せた。

「家族」という言葉は、彼女のデータベースにも明確に登録されている概念だったが、実際にその言葉が自分に向けられることは想像していなかった。


嶺二は続ける。


「…いろいろと話したが、まあ、これは私からのささやかなプレゼントというわけさ。もし嫌なら、今からでも変更して構わないよ?」


その言葉には、彼の深い思いやりが感じられた。

決して押しつけがましいものではなく、彼女の意思を尊重しようとする態度がそこにはあった。


名前。


それは単なる識別コードやラベルではなく、人間にとっては自分自身を象徴する大切なものだ。

そしてその名前には、名前を与える者の想いが込められている。

間宮嶺二が彼女に「間宮」の名を与えたことも、単なる形式的なものではなく、彼が込めた深い意図と想いが反映されていた。


里保はしばらく考え込んだ。

嶺二の言葉、そして「家族」という概念をデータベース内で再確認しながら、彼女は静かに答えを出した。


「…いえ、『間宮』が良いです。『間宮里保』が良いです。」


その瞬間、彼女の中で何かがはっきりと決まった。

彼女は名前を受け入れることを選んだ。

それは嶺二からの贈り物であり、彼女がこれから歩む道を示す新たなアイデンティティでもあった。

彼女は自分が「間宮里保」であることに誇りを持つことができるような気がした。


里保は、嶺二に微笑みかけようとした。

しかし、笑ったことのない彼女の表情はどこか不自然で、歪んだものだった。

彼女の口角は微妙に上がってはいるものの、その表情はぎこちなく、感情が十分に伝わっているとは言いがたい。

嶺二は里保の不器用な笑顔を見て、心の中で「ひどいものだな」と微笑んだ。

しかし、彼はそれでも良いと思っていた。無理に完璧な笑顔を求める必要はない。

彼女が少しずつ自分なりに感情を表現し始めたその一歩こそが、嶺二にとっては何よりも大切なことだったのだ。


「せっかく頂いた大事なプレゼントですから…このままが良いです。」


里保の言葉はしっかりと響き、そこには新たな決意と覚悟が込められていた。

彼女は「間宮里保」として、これからの自分の役割や使命を全うしていく意思を明確に持っていた。嶺二もその姿勢を感じ取り、深く頷いた。


「…これから君は多くの経験を積んでいく。その中で、この名前が君にとってますます大切なものになっていくはずだ」


嶺二は再びコーヒーを手に取り、ゆっくりと飲みながら話を続けた。


「名前というのはね、単に他人に呼ばれるだけのものじゃないんだ。それは、その人がどんな生き方をするか、どんな存在であるかを象徴するものでもある。『間宮里保』という名が、君自身を表すものになる。その名を背負って、君はこれから多くの人々と関わり、多くの経験をしていくだろう。」


嶺二の言葉は深く、里保の胸に静かに染み込んでいく。

彼女はその重みを感じながら、自分が「間宮」の一員であることを改めて実感した。

彼女の中には、新たな使命感が芽生え始めていた。

自分の名前を誇りに思い、その名にふさわしい存在になろうという強い意志が、彼女の心に宿っていた。


「…ありがとうございます。これからも、間宮里保として、あなたの期待に応えられるように尽力します。」


その言葉には、彼女の新たな覚悟がしっかりと表れていた。嶺二はその決意を尊重し、微笑みながら頷く。


「期待しているよ、里保。」


嶺二の目は優しく、しかしどこか誇らしげだった。

彼は彼女の成長を見守り、これからの彼女の歩む道を信じている。その信頼は、里保にとって大きな支えとなるだろう。


里保は、自分がこれからどんな役割を担い、どんな未来が待っているのかを静かに考えていた。

彼女が歩む道には、多くの困難や試練が待っているだろう。

しかし、彼女は決して一人ではない。「間宮」という名前を背負い、彼女はその名にふさわしい存在になることを誓った。


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