第3話「どうして、嶺二になったのかな?」
里保が生まれたこの場所、タイナカ・エレクトロニクス社の廊下は、昼下がりの微かな陽光が差し込む中で、静寂が支配していた。
機械的な音はほとんど聞こえず、まるで時間が一瞬止まったかのような空間だった。
その中を、二人の人物がゆっくりと歩いていた。
一人は、肩まで伸びたシルバーグレーの髪をなびかせるアンドロイド、里保。
そしてもう一人は、彼女を作り上げたエンジニア、間宮嶺二。
二人は何か用事を済ませたばかりで、研究室へと戻る途中だった。
嶺二の足音は控えめで、堂々とした歩調を保っているが、里保の動きはそれに比べてわずかに緊張を含んでいた。
彼女のステップは滑らかで正確だが、その心には微かな不安が揺れていた。
「あの…」
里保の声は、若干のためらいと共に静かに発せられた。
それは、ただ機械的に言葉を紡いだものではなく、どこか人間らしい感情が籠もっている。
嶺二は彼女の声に反応し、歩みを止めずにゆっくりと視線を彼女に向けた。
「なにかな?」
彼の声は優しさに満ち、里保に対しての信頼を感じさせるものだった。
しばしの沈黙の後、里保は目を少し伏せ、ためらいながら質問を続けた。
「貴方のことは、なんとお呼びすれば良いのでしょうか…?」
その言葉に、嶺二は歩みを止めた。
そして、考え込むように顎に手を当てながら彼女を見つめた。
「ふむ…そうだね、里保。君は、どう呼びたい?」
彼の問いかけは、純粋な好奇心からのものだった。
里保に対して押し付けることなく、彼女自身の意志を尊重するような、優しい眼差しがそこにはあった。
里保は少し困ったように目を泳がせ、しばらくの間沈黙した。
彼女の人工知能は、数千もの可能性を瞬時に分析していたが、それでもなお、心の中で何かが引っかかっていた。
人間の感情のように、言葉にはできないけれど感じるもの。
彼女の内部に流れる疑似人格が、言葉を紡ぎ出すのを待っていた。
そして、やがてその口から出た答えは、一言。
「…嶺二」
嶺二はその返答に微笑んだ。
「どうして、嶺二になったのかな?」彼は問いかける。
「他にも色々とあったはずだよ、ファーストネームの"間宮"とか、役職を示す"技術者"とか、もっと形式的に"博士"なんて呼び方もある。どうしてかな?」
その声は決して責めるようなものではなく、まるで親が赤ん坊に初めての言葉を聞くときのような、温かさに包まれていた。
里保に与えられた疑似人格が、彼の問いにどう答えるかをじっと待っていた。
「わかりません、ですがこの"嶺二"という呼び方が、とても気持ち良く、心地良いのです」里保は胸に手を当て、言葉にできない感覚をどうにかして表現しようとした。
彼女の言葉は機械的な論理を超えたもので、純粋な感情が垣間見える。アンドロイドとしての彼女の役割は、感情を持つことではなく、任務を完遂することにある。
しかし、この瞬間、彼女はその役割を越えた何かを感じていた。
それが"嶺二"という言葉に集約されていた。
嶺二は小さくうなずき、彼女の反応を深く理解した。
「なるほど、では今後はそのように呼びなさい」
彼の声には、優しさと共にわずかな達成感があった。
里保の成長を見守るような、静かな喜びがそこには感じられた。
彼は再び歩き出し、里保もすぐにそれに続いた。
二人の歩みは、再び廊下に響き渡る。
里保はその後ろ姿を見つめながら、彼の存在が自分にとってどういうものなのかを改めて考えていた。単なる「製作者」以上の存在。
彼は里保にとって、「意味」を与えてくれる存在だった。
嶺二は、里保にとって唯一の「家族」に等しい存在だった。
彼女の疑似人格が形成される過程で、彼の言葉や行動が少なからず影響を与えていたことは間違いない。
しかし、その感覚がどれほど深いものなのか、里保自身が理解しているのかは分からなかった。
ただ、彼女の中には確かな「安心感」が存在していた。
それは、プログラムされたものではなく、もっと根本的な感覚のように思えた。
嶺二と里保は、長い廊下を歩き続けていた。
社内の冷たい空気が二人の間を流れているが、その中には確かな温もりも感じられる。
里保はその歩調を合わせながら、心の中で問い続けた。
「私は何のために作られたのだろう? 嶺二は、私に何を期待しているのだろう?」
彼女の内部のプログラムは、その問いに対して明確な答えを持っていた。
だが、それだけでは終わらなかった。
彼女の疑似人格は、何か他のものを求めているような気がした。
それは、嶺二との関係性の中で生まれたものかもしれない。
「(嶺二…私は本当にこのままで良いのでしょうか?)」
彼女の問いは心の中に留まり、口には出さなかったが、その思考は確かに存在していた。
嶺二は里保の心の中で何が起きているのか、すでに感じ取っているのかもしれない。
彼は研究者として、里保の成長を見守りつつも、彼女が何を思い、何を感じているのかを深く理解しようとしていた。
彼にとっても、里保は単なる「製作物」ではなく、ある意味で彼自身の分身であり、家族のような存在に近いものだった。
彼らの歩みは、ただの「製作者と創作物」だけで終わらない何かを感じさせるものであった。
それは、里保という存在が、ただのアンドロイド以上のものに成長していく過程を示していた。
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