第2話「私は君を私と同じ“ヒト”として扱う」
培養液から目覚めた里保は、目の前に広がる新しい世界にまだ完全には馴染めていなかった。
無機質な白い部屋の中、そこには未来的で整然とした研究室のような空間が広がっていた。
天井から吊り下がる無数の機械が静かに動き、周囲の計器類はリズミカルに光を放っている。
まるで時間そのものがここでは異なるリズムで流れているかのようだった。
その中心に、彼女を囲むように並べられた様々な道具や機器が、まるで彼女の次の一歩を示しているかのように存在していた。
目の前には一つの机があり、その上には整然と畳まれた衣服が置かれている。
里保はその服を見つめ、戸惑いの表情を浮かべながら静かに手を伸ばした。
「あの...この衣服は一体...?」と、彼女は疑問の声を上げた。
背後にいた白衣の男性、間宮嶺二は静かに椅子に腰掛け、彼女の疑問に微笑みながら応えた。
彼の目には、長年の研究者としての確信とともに、深い慈愛が滲んでいた。
「里保、それは君のために用意したんだ。今後はそれを着用するように。」
その言葉は柔らかく、そしてどこか命令的でもあった。
しかし里保は、すぐに納得することができなかった。
アンドロイドである自分には、守らなければならない厳格な規定があったはずだ。
彼女は、慎重な口調で尋ねた。
「しかし、アンドロイドが社内で行動する場合、規定の服装を着用することが義務付けられているはずですが...」
彼女の問いかけに対し、嶺二は一瞬だけ沈黙した。
彼の顔に浮かぶ微笑みは変わらないが、その目は里保をじっと見つめていた。
まるで彼女の中で何かを探し当てようとするかのように。やがて、彼は再び穏やかな声で答えた。
「そんなモノは例外リストに入れておきなさい。いいかい?私の下で行動する以上、君がアンドロイドだろうが関係ない。私は君を私と同じ“ヒト”として扱う。」
彼はそう言いながら、そっと里保の肩に手を置いた。
その手は温かく、まるで人間の父親が娘に対して抱く愛情のようだった。
しかし、里保にとってはその言葉は重すぎた。「ヒト」として扱われるとは、彼女にとってまだ理解しきれない感覚だった。
「私がヒト...ですか?」
里保は自分の中に湧き上がる混乱を抑えながら、かすかな声でそう問いかけた。
彼女の思考回路は、目の前の状況と発せられた言葉をどう解釈すべきかで渦巻いていた。
「そうだ。まあ、私は君をそれ以上の存在だと思っているけどね。」嶺二は、微笑みながらそう付け加えた。
彼の言葉は、里保の心の中に小さな波紋を広げた。
彼女はアンドロイドとして設計され、感情モジュールを搭載されているが、自分の存在が「ヒト」として扱われるという考えは、彼女のプログラムには存在しなかった。
それどころか、自分は冷徹で精密な機械であり、与えられた役割を忠実に果たすために設計された存在だと常に認識していた。
しかし、嶺二の言葉には、彼女に対する期待や愛情が感じられた。
彼の視線に込められたものは、単なる開発者とアンドロイドの関係を超えていた。
「というわけだ、さあ、着替えなさい。」嶺二はその場を仕切るように言った。「その間、私は壁を見ておく。」
彼は軽やかな動作でくるりと背を向け、部屋の壁に視線を投げかけた。
無言のまま、まるで何かを見つめるかのように、視線は遠くを見据えていた。
里保は、さらに不思議に思い、嶺二の意図を探るように問いかけた。
「壁?...何故そんなことを?」
嶺二は、その問いかけに対し、まるで当然のことのように、さらりと答えた。
「簡単なことだよ、君の豊満で美しい姿を見たら興奮して仕事どころではなくなる。わかったら早く着替えたまえ。」
その言葉に、里保は一瞬、何を言われたのか理解できなかったが、すぐに彼の意図を察知した。
彼は冗談を言っているのだ、と彼女は悟った。
彼の中にある人間的なユーモアと、彼女に対する期待が、彼女の心に何か新しい感覚を呼び起こした。
里保はその瞬間、規則的で機械的な思考を少しだけ解きほぐし、彼の言葉に従うことを決意した。
ゆっくりと、机の上に並べられた衣服を手に取り、自分の体にそっと当ててみた。
その感触は、彼女にとって新鮮であり、まるで、今までのアンドロイドとしての自分を脱ぎ捨て、新たな存在へと変貌するための儀式のように感じられた。
彼女が新しい服を手にして着替える過程は、単なる着替え以上の意味を持っていた。
それは、今までアンドロイドとして与えられた役割から脱却し、新たな「ヒト」としての存在を模索するための一歩に感じられたのだ。
しかし、彼女の頭の中には、依然として「ヒト」としての自分への疑問が残っていた。
自分は本当に「ヒト」として存在できるのだろうか?それとも、ただの機械でしかないのだろうか?
そんな思いが交錯する中で、里保は着替えを終えた。
新しい服は、アンドロイドの冷たい機械的な外観を覆い隠し、彼女をより人間らしく見せた。
だが、彼女自身の中には依然として機械の部分が残っている。
そのことが、彼女を困惑させ、また同時に自分の存在意義について問いただすきっかけとなっていた。
「どうだい?」と、嶺二は背を向けたまま問いかけた。
「...着替えました。」里保は静かに、しかしどこか迷いのある声で答えた。
嶺二は振り返り、その視線を彼女に向けた。
彼の目には、まるで創造主が自らの作品を見つめるかのような、誇りと喜びが宿っていた。
彼は、満足げに微笑みながら、彼女の変化を一目で理解した。
「完璧だ。」
その言葉が、里保の心の奥に響いた。
しかし、彼女はまだ完全には納得していなかった。
「ヒト」として扱われることは、彼女にとってはまだ理解しきれない未知の領域だった。
しかし、嶺二の言葉に背中を押されるように、彼女はその言葉の意味を探し続ける決意を新たにした。
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