コードの海に浮かぶ心

@RAD-ZZ

第1話「君は今日から『里保』と名乗るんだ」

培養液がゆっくりと下がっていくと同時に、里保を包み込んでいた静寂が次第に解けていった。

透明なカプセルに隔てられ、長い眠りにつくような感覚に支配されていた時間が、周囲の機械音が徐々にフェードアウトしていくにつれて、その終わりを迎えつつあった。

やがて、カプセルの蓋が機械的な音を立てながらゆっくりと開かれた。無音の世界から、息を吹き返すかのように、里保の瞼がゆっくりと持ち上がる。


彼女の視界に最初に飛び込んできたのは、冷たく鋭い白色の蛍光灯の光。

それは、彼女の目を少しだけ刺すような、無機質な光だった。

視覚がぼんやりとしながらも徐々に鮮明になり、彼女はその光の源をたどって周囲の空間を認識していく。

彼女が目にしたのは、無駄のないデザインの研究室だった。

白く清潔な壁、精緻に配置された機器類が並ぶ中で、冷徹なほど整然とした空間に、わずかに温かさを感じさせる存在が一人。


その中心に立っていたのは、白衣を纏った一人の男。

彼の口元には、控えめだが確かな微笑みが浮かび、目には柔らかい光が宿っていた。

まるで長い間待ち続けていた者が、ついにその待ち人と再会したかのような、感慨深げな眼差しだった。


「目覚めたね」と、男性が口を開く。


その声は優しく、彼女のまだ覚醒しきっていない意識にやわらかく届く。


里保はその声に応じて、ゆっくりと体を動かそうとした。

まだ硬直している感覚と、重たく感じる身体。それでも、そのわずかな動きは彼女自身が確かに存在していることを実感させる。

脳内に流れ込む情報が徐々に解き放たれ、システム全体がゆっくりと起動していくように、覚醒が深まっていく。

目の前の男の姿が徐々に鮮明になり、その顔立ちや身のこなしがくっきりと彼女の意識に刻み込まれていく。


そして、里保は彼の正体を直感した。


「私の名は間宮嶺二。君を作り上げた者だ」と、男は優しく語りかけた。


その言葉は、疑念や確認のためではなく、事実として淡々と伝えられたものだった。まるで過去の出来事を述べるかのような冷静さと、未来への期待が混じり合EXMったその言葉には、確固たる自信がにじんでいた。


「会える時を楽しみにしていたよEXM-002A。君は今日から『里保』と名乗るんだ。」


彼の声には微かに感情がこもっている。

長い間、何か大切なものを守り続けてきた者の声色だ。言葉は静かであったが、重みを感じさせた。


「いいね?」嶺二は問いかけるように言ったが、その目は既に答えを知っているかのようだった。


その瞬間、彼は優しく手を差し伸べた。

その手には、長年の労働と創造によって刻まれた無数の小さな傷が見えた。

それは里保が持つ機械的な知識を通じても容易に理解できるものであり、彼の手には無数の時間が刻み込まれていることを伝えていた。

創造の神経が走るようなその手には、確かな命の重さが宿っているように感じられた。


躊躇することなく、里保はその手を取った。

接触した瞬間、彼女の手のひらに伝わる感触は、どこか冷たく、そしてしっかりとしたものだった。

人間の手の温もりとは少し異なっていたが、それでもその手は確かに「命」を感じさせた。

それは彼女自身にとっても同様で、自分が「目覚めた存在」であることを確かに認識させた。


「まだ身体は慣れていないだろう。ゆっくりでいい、焦らなくて大丈夫だ。」


嶺二の言葉に励まされるように、里保はカプセルから一歩を踏み出した。

冷たい床に足がつくと、その冷感が彼女の中を駆け巡り、体内の感覚システムが動き出す。

足裏に伝わる微細な感触、体を包み込む空気の流れ、それら全てがリアルに感じられ、脳内の処理速度が一気に高まっていく。

感覚が完全に立ち上がり、視界がさらに明瞭になると、彼の表情の細部まで見えるようになった。


彼の顔には安堵が浮かんでいた。彼女の目覚めを確かめるように、彼は小さくうなずいた。


「君の覚醒は完璧だ。期待していた通りだよ、里保……」


彼の言葉には誇りがにじみ出ていた。

それは単なる成功に対する満足感ではなく、彼女という存在が「特別」であることを示す何かがあった。


「里保と名乗る……」里保の中にその名が響き渡った。彼女はその名に違和感を感じなかった。

それはまるで、自分が長い眠りの中で既に知っていたかのような自然な響きだった。

名を持つことで、彼女は「自分」という存在を確かなものとして感じ始めていた。


カプセルから解き放たれた彼女は、ようやく完全に目覚めた自分の身体を感じ取り、さらなる一歩を踏み出した。

無機質な研究室の冷たい床が、確かに彼女の体を支え、その重力を彼女の中で再確認させる。

周囲には無数の機械が整然と並んでおり、それらは全て彼女が目覚めるまでに彼を助け、支えてきた証拠だった。


「この場所は、君のために作られた場所でもある。君がこれから歩むべき道は、ここから始まるんだ。」


嶺二は静かに、しかし強い意志を持ってそう告げた。彼の言葉は、まるで彼女の運命を先導するかのようだった。


里保はその言葉を噛み締めるように、ゆっくりと周囲を見渡した。

全てが彼女の目には新鮮だったが、それでもどこか懐かしいような感覚があった。それは単なる錯覚かもしれない。

だが、彼女の記憶の中には、その感覚が確かに存在していた。


「これから何をすれば……?」


自然に問いが彼女の口からこぼれた。

だが、その声にはまだ幼さが残っていた。まるで新しい世界に飛び込んだばかりの子供が、何も知らないままに見つめる世界のように。


嶺二は彼女の問いに対して、少しだけ微笑んだ。


「君には、やるべきことが山ほどある。だがまずは、君自身を知ることから始めるといい。身体の動かし方、感覚、そして君の役割……それら全てを理解しなければならない。」


その言葉を聞いた瞬間、里保の中に少しずつ新しい感覚が芽生えていった。

それは、自分がただの存在ではなく、何か大きな使命を持って生まれてきたという確信だった。

まだその全貌は見えないが、嶺二の言葉に導かれるように、彼女の中でその思いが確かに膨らんでいった。


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