君を知らない物語
夢の世界で悪夢を見る感覚ってのはこうなのかと思った。
「私に何をしろと言うんですか………」
「は、え、セイ……?」
夜を思わせる墨を流したような髪の彼女は目の前の光景に言葉を失う。目の前に広げられた無数の紙を前に、彼女はこれから起こるであろう事実を前に目を逸らす。
しかし、彼女が進みたい出口を前に立ち塞がるのは3匹の烏。たった1年で渋谷を抑えたクズ達の頂点、ゴミ捨て場に住む鴉達だ。だが、この光景はあり得ない。だってこれは過去にあった最初の出会いなんだから。
「大した事じゃありませんよ。貴方の力を貸して欲しいだけです………悪いようにはしませんから」
そして、八咫烏時代の右腕であったタカが人の弱みに漬け込むような笑顔で、震える彼女に現実を突きつけた。すぐさま止めようとしたが、脇腹を力いっぱいつねられ座らされる。横を見れば若い頃のルリが黙って首を振っていて。直感で分かった。こいつは俺が知っているルリだと。
「どういう状況だ、ルリ!!」
「うちだってわからないよ!! 扉をくぐったら、昔の場面が広がってるだもん!!」
「馬鹿2人、何をごにょごにょ話してるんですか。貴方たちも頭を下げたらいかがですか?」
咎めるようなタカの言葉に俺達が戸惑っていれば、タカは俺達の頭を掴むと、床に押し付けた。怒る気持ちも最もだ。だってこの時は確か、
「この馬鹿2人に勉強を教えてあげてください」
「「おなしゃす!!」」
渋谷を制圧した烏達は床に頭をつけていた。赤点に加えて出席が足りず、留年間近だったから。
図書館じゃなかったら、俺たちの格が落ちていたところだ。元々、最底辺だったけど。
「何で、学校が違う私がアンタらの勉強を見なくちゃならないのよ!」
「図書館では静かにした方がいいよ、てか、口悪っ」
「不良のアンタに言われる筋合いはないわよ!」
彼女の元気な声を聴くだけで胸が締め付けられる。まだ彼女が元気で笑っていて、八咫烏がまだ健在な学生時代。屑だなんだと言われていても楽しかった青い日々。
目の前で繰り広げられる過去の描写に涙が出てきそうになる。思わず元気に動けている彼女に触れたくて、伸ばした手はルリに掴まれた。
「ダメだよ。ボス。まだお嬢が警戒してる頃にそんなことしちゃ! 気持ちは痛いほどわかるけど」
「っ!! そうだな。そうだよな……悪い。考えが及ばなかった」
要はリアルな蜃気楼、自分の記憶をもとにしたノンフィクション映画とでも言えばいいのか、彼女に手を伸ばすことすら叶わない。
「大体、私が協力する利点がないわ!! アンタらが留年を回避していい事ある!?」
「う、うちら八咫烏に恩が売れるから………周りに大きい顔ができる?」
「ゆ、有名になれるぜ? 後は………有名になれる!」
「そもそも! 私は! それなりには! 有名なアスリートよ! むしろ、イメージダウンに繋がるでしょうが! 私の未来を潰す気!?」
マジでごめん。いや、本当にごめんなさい。
過去の俺とルリには今すぐに土下座と金を献上しなくてはならないレベルで彼女には頭が上がらないと言うのに、よくいけしゃあしゃあと言えるものだ。
「メリットはあります。貴方、この間、鷲宮に喧嘩を売ったらしいですね。彼はオレたちの次に強く、総長を崇拝している過激派です。すぐにでも貴方に報復を仕掛けるでしょう。ですが、総長の留年の恩人となれば奴らも手を出しません。しかし、なんでわざわざ喧嘩を売ったんですか? 」
「べっつに? 頼りない幼馴染が私にかっこいいところ見せようとして喧嘩を売ったことは関係ないわ」
だが、タカがここで取引条件を出す。それにセイの眉が顰められる。脅迫ととられたのだろう。というか脅迫でしかない。強気な彼女がそんなものを受け入れるはずもなく。
「それにその提案だと、私が"利用できる人物"だって公言するようなもんじゃない? アンタらって名前が知られている以上、そこそこ規模の大きい組織でしょ。私の平穏はどちらにしろ、亡くなるわけね」
「しかし、うちらはマヂで天使ノートが必要で………」
「漫画じゃないと全く理解できないからなぁ、ルリは」
「ボスもじゃん! うち1人にしないでくんない!?」
「喧嘩するなら、私は帰るわよ。大体、どこの誰よ、私のノートを天使ノートだなんて言っている奴は」
「貴方と同じ高校の不良がうちにいるんですけど、総長が頭を悩ませている際にそれを見せて、小テストを免れたものでして………」
「なるほど、そう………ところで知ってる? 鼓膜は破れても再生するんだって」
「おやめなさい、シャーペンかちかちするのは」
「安心して、私は医者の娘よ」
「安心する要素はどこにもありませんが?」
俺たちが通っていた底辺高校にいたのに、そこらの進学校でも問題なく卒業できるレベルだったタカのツッコミが冴え渡る。
「シャーペンくらいなら、ボスの鼓膜なら耐えられそうだよね」
「首吊り用の紐が耐えきれずに切れるくらいだしな。耳の穴も鍛えられてんだろ!」
「「あっはっはははは!」」
「このたわけ共の耳の穴を異物で満たしても大丈夫か実験しても構わないわよね?」
「ボンドはやめなさい………と言いたいですが、庇う気がなくなったのでご自由に」
あまりにも馬鹿すぎる………誰だ? 俺だ………。
もう彼女の目が毛刈りする前の羊みたいな生暖かい目になっているのが泣きたくなってくる。
「ともかく私は帰るわ。金輪際、私に関わらないで。助けてくれた例に天使ノートだけは貸してやるから、終わったら返して」
「わぁ、待て待て待て! まだお願いがあるんだって!」
鞄を持って、出口に向かう当然の行動に移る彼女をあの頃の俺が引き止める。今更ながら図書館で騒ぎすぎだが、当初の俺はつゆ知らず。
馬鹿みたいに何も考えていない能天気な笑顔で
「俺に──空の飛び方教えてくれよ!」
彼女のやっていたスポーツを教えてくれと、誰より自由に飛べるその手段を望んだ。
この後の流れは知っている。あの時は知らなかった。
何故彼女が俺たちみたいな屑に協力してくれたのか、何故勉強だけではなく、空の飛び方まで教えてくれたのか。
「──貴方に、教えるほど、簡単な物ではないわ。すぐにやめて徒労になってもこまる」
当時の俺は頭を下げていたから、彼女の顔がわからなかったけど、今は彼女の顔を真正面から見て言えた。だから、
「ノートは貸してあげるから、続きは追試を免れてから。そこまで頑張れるなら、私の翼を教えてあげる」
蕾が綻ぶ花のように──あんな風に笑っていたなんて知らなかったんだ。
「え、落ちる──!?」
「ああ、そういうことかよ。鷲宮の糞野郎」
彼女の笑顔がトリガーに世界が避けて俺達はぽっかりと空いた暗闇へと落ちていく。この流れで嫌でも理解した。これから始まるのは俺たちの傷跡の話だ。
7
走る、走る。ただ走る。そのままにただひたすらに走り抜ける。額を流れる汗が風に当たり、目の端を掠めるのを瞬きで無視。
吸い込む酸素に肺が痛むのを感じながら、鳩尾を中心に体が絞られていく。
それでも──彼女には届かない。
「へばらないの! まだ後10セットあるわよ!」
前を走る彼女の夜空のポニーテールが揺れている。
時折後ろを振り向き、利発そうな空色の目が膝に手をつく俺を射抜いていて。
ようやく今回の状況を理解する。留年を免れた俺がセイから空を飛ぶ技術、すなわちパルクールを教えてもらうところ。確か、この日はルリは検診でタカはその付き添いだったはずだ。
息を整えた俺に冷たいペットボトルが投げ渡される。日本が誇るスポーツ飲料。それを飲む彼女は疑うような目でこちらを見ていて。
「体力ないんじゃない? アンタ、中学の陸上で全国2位だったんでしょ?」
「調べたのか? まあ、過去の話だよ。今は肺が真っ黒黒の社会の屑だ」
「煙草吸ってるから肺が腐るのよ。アスリートになりたいなら煙草をやめなさいってば」
「正気?? 毎日1箱吸ってるニコチン中毒者だよ。俺!!」
「知らないわよ。大体、アンタはいつも煙草臭いの。いきなりやめろとはいわないけど、本数は減らしなさいよ、もう。じゃなきゃ、天使ノートも見せられないし、教えられない」
「それだけは………それだけは………勘弁してくれないか………天使ノートがないと、単位が、留年が………」
「というか、私の天使ノートやらにお世話になっている奴ら多すぎない!? あのタカって男も男よ。八咫烏での保護が嫌だって言えば、まさか天使ノートに世話になっている奴らだけ参加させる協定を通す!? 普通!! しかもお世話になってる奴過半数!! 完全に嵌められたじゃない!!」
タカの案はシンプルなもので。天使ノートを使っている者に世話をさせる。というもの。それなら、俺達3人くらいだろうと高をくくった彼女だったが、実は八咫烏の半分が愛用者だとまでは知らなかったようだ。
「まあ、だまされたと思ってやってみよう。な?」
「世の中には一回でもやっちゃいけないことがあるのよ……特に薬とか、煙草とか」
彼女は鍛えられたカモシカのような腰に手を当て、聞き分けの悪い子供を諭すような声色に俺は目を反らせば、彼女のため息が耳に届いた。
「アンタもアスリートに返り咲くなら煙草をやめなさいよ。まずは1日半分。次に5本。慣れたら、1日1本。最終的に1週間に1本のペース。それが出来ないならさっさとやめてもらえる?」
彼女の死刑宣告のような物言いに曖昧に頷けば、彼女は再びホイッスルを加えて、走り出す。背後から見えるのは健康的なアスリートの肢体だ。
過去の俺は気にしていなかったが、鍛えられている分、引き締まった肉体が彼女の美乳と美脚を浮かび上がらせていて。ルリとはまた違った健康的な色気があるスタイルだとタカが言っていたっけ。
「………何処を見てんのよ」
「え? 体の輪郭がエロいってタカが言ってたから見てた」
「はあ!? パルクール現日本王者に何たる言い草よ!! 10セット追加!」
「鬼! 悪魔! えーと………名無しの権兵衛!!」
「名前くらいあるわ! アンタらに教えたら碌でもないから教えてないだけよ!」
今更ながらに馬鹿な小学生のようだった。
それに対して付き合ってくれる彼女は本当に天使のようで。
「??っ! じゃあ、まずは今のタバコをやめる! だから名前を教えてくれよ!」
「ふん、いい心掛けね。いいわ、とりあえず名前を教えるまでは………」
「そして、タバコの銘柄を変える! バニラの匂いとかいいかな!?」
「そうじゃないわ!タバコを止めろと言ってんの!」
笑った彼女の眩しさに耐えられなくて、俺は目を逸らしてしまう。あの時の俺は臭い匂いに苛つくならば、甘い匂いにすれば彼女の機嫌もいいと思って。
「じゃあ名前を教えてくれたら頑張って1日1本にする!」
「無茶苦茶ね、アンタ………まあいいわ。なら、私のことは『セイ』と呼んで。分かった?」
彼女が………セイが好きそうな──バニラの香りにしようと決めた。
そして、世界は切り替わる。
8
薬の匂いが混じるこの場所が嫌いだった。八咫烏の両翼が一人、大瑠璃日奈がいつも暗い顔をしてベッドで寝ている姿が嫌だったから。いつも通りの日々だった。発作が起きたのはパルクールの練習中。タカには才能がないって笑っていた俺の後ろで彼女が倒れていた。
「ごめんね~お嬢にも迷惑かけて」
「気にしないでいいわ。なんで私がお嬢呼びなのかは気になるけど」
「ボスに強く当たる姿がヤクザのお嬢みたいだから」
「全く褒められてる気がしないわね」
「体調は平気か? 何か欲しいものは?」
「パズルが欲しいかな。簡単なやつでいいよ。暇つぶしにできる奴」
「わかった。100均で買ってくる。タカ、頼むわ」
救急外来の廊下で俺とセイは並んで歩く。こちらをちらちらとのぞき込むような彼女が聞きたいことはわかる。ただ切り込みづらいから遠慮していることも。
「パズルが好きなの? ルリって」
「まあな。あいつ、必ずピースを一つ残して、次のパズルにそれを入れて組み合うのを楽しむっておかしな楽しみ方をするタイプなんだよ」
「それ一生、完成しないことあるんじゃないの?」
「あいつはそんなことしねえよ。自分をその残ったピースに重ねてる女だ。いらないと言われた存在でも、必ず輝く場所があるって信じてるからな。それを自分が否定するわけにはいかないんだ」
遠回しに告げた彼女の関係にセイが僅かに言葉を飲み込み、息を吐いた。そこまでしなくても、それなりに踏み込んでもいい関係性を築き上げていたつもりだが、彼女にはまだ緊張するらしい。
「ねえ、家族の人は来ないの?」
「来ないよ。ルリの母親はな、新しい男に首ったけで娘のことなんざいらねえんだよ」
「それでも親なの?」
「普通の親ってのは事故で死んだタカの両親くらいのもんだ。俺の父親はアル中の妄言野郎だしな。吸血鬼の奥さんがいたなんて酔って暴れるたびにほざくんだぜ? 陸上で高校進学するときも、勝手に推薦を断りやがって。しまいには飲酒後の入浴で溺死。親ってのは迷惑しかかけないもんだろ?」
世間一般は違うんだろうけど、俺達の小さな世界ではそれが常識だった。心臓が悪い娘のことを気にしない母親に、俺の夢を自分のくだらないプライドでつぶした父親。基本、親というのは子供に対して愛情なんてないことを。
「そうね、そうかもね。なんか、今日が一番、アンタらに親近感わいた気がするわ」
頷く彼女の言葉には嫌な実感がこもっていた。当時の俺は気にすることもなかったが、知った後ならわかる。彼女もまた親に振り回されたかわいそうな子供だったと。
「そしたらパルクール教えるのやめた方がいい? ルリは結構、呑み込みが早いから教えるの楽しかったんだけど」
「いやそれは続けてやってくれ。ただでさえ、短い人生を目いっぱい楽しむのがルリの夢なんだ。それに女友達ができてうれしがってたらしいしな」
基本的にうちは50人以下の少数不良集団だ。俺を首領に最高幹部2人で残りは配下。みたいな組織構成。実際、運営はタカに任せているだけのお飾りのトップくらいでしかない。喧嘩ならだれにも負けない自信はあるが。
だからこそ、まっとうな女の子の友人ができたことにルリは大喜びしていた。セイとクレープ食べた。ゲーセンで大きな人形を取った。些細な幸せを、遅れてきた青春を取り戻すように。
「できたら、ルリの奴に付き合ってくれ。もちろん、お前の時間の都合がつくときでいい」
「当然でしょ。初めてできた友達なんだし」
「お前、友達いなさそうだもんな」
「時代遅れのヤンキー精神疾患よりマシでしょうが」
その遅れてきた青春を取り戻しているのはセイもだと俺は知らなかったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます