星空が導く海賊船~星の鯨と鴉の旅立ち~

不思議の国のルイス

あの日、見た星空を覚えていますか

 あのカラスのように、飛べたならどんな気持ちなのか。そう考える俺はだいぶ疲れているらしい。


「この仕様ではダメだと俺が怒られたじゃねえか!しっかり自分で確認したのか!」

「貴方の指示通りに作成し、確認した上に、貴方に承認を頂いた筈ですが?」

「なんだその目は俺が悪いってのか!気分を害した!俺はもうやる気が出ないから帰る!俺の机にある仕事はお前が朝までに片付けておけよ!」


 上司の机に溜まりに溜まった仕事を見て、げんなりとしつつも受け取り、自分の机に戻る。ふと机を見ればそこには後輩に任せたはずの仕事があって。


「あ、せんぱい。今日、これから彼女とデートなんで帰りますわ。じゃあ、あとはよろしくで」

「昨日もそれで、明日やるって話だっただろうが。これの締め切りは明日の昼だぞ?」

「先輩が任せた仕事なんすから、先輩がどうにかしてほしいっすよ。俺も灰色な生活してる先輩より忙しいんで」


 くすんだ金髪にだらしなく着たスーツの後輩は、次に言われる前に足速に帰宅する。残されたのは同情だけの視線と、明日まで片付けなくてはならない仕事だけ。


「………今日も終電か」


 全く自慢にならないが、20連勤振りの休暇は失われたようだ。


「せーんぱいっ!書類確認お願いしますっ!」


 死んだ目で作業すること3時間。部下の女の子が鈴のような声で呼び、幽霊でも見たような顔でこちらを覗き込む。


「せんぱい、最後に家に帰ったのいつですか?」

「失礼な毎日帰ってるよ。着替えに始発で」

「それは帰宅ではなくて、滞在ですよね!?せんぱいは、死にたがりなんですか?自分は大事じゃないんです?」


 疑問ありげな後輩の言葉に、乾いた笑いで返しながら資料作成の指は止まらない。

自分が大事なら誰が好き好んで、他人の仕事を全て片付けなくてはならないのか。


「いいんだよ。俺より他人の人生の方が価値がある。それに"他人を助ける"ってのは正しい生き方だろ?」

「………せんぱいって何というか、正しさに固執してますよね?つまらなくないですか?何か夢とかないんですか?」



 鳴り響いていたタイピング音が示し合わせたように止まる。静かな社内に充満する重苦しい沈黙に彼女は居心地が悪そうに次の言葉を口にしようと、


「………昔はあったよ。今は定時内に帰るのが夢だな」

「せんぱい………完全に社畜ですね。灰色の人生ですね………」

「いいんだよ。俺が好きで選んだ人生だからな」


 同じ人間として信じられないという目の彼女を尻目に後輩の資料再チェックを行い、全ページの手直しが確定したところで、


「そうだ、せんぱい!こんな噂知ってますか?"星夢の海賊船"って奴!」

「疲れてるのか?もう今日は休め」

「違いますよ!最近ネットで噂になってるんです!タカ際に乗った人だっているんですから!」


 彼女が見せてきたSNSのページには、"人体腐敗化症候"のマイナスなニュースに埋め尽くされた中、有名なファッションデザイナーの女社長が、話している画像。

"キラかわいい"を信条とする天然な発言が有名な人だから、いまいち信憑性は薄い。


「あのな………お前も今年で20だろ?いい加減に大人になれって」

「3つしか変わらないせんぱいには言われたくありませんよ!とーにーかーく!物は試してみたらどうですか?呼び出し方は簡単です!"レモンムーンにレモンキャンディを碇の形に並べる"だけ!騙されたと思ってやってください!成功したら私もやりますから!」

「上司を実験台にするんじゃねえ。というか帰らなくていいのか?明日、朝イチで会議だろ?」

「え、うわっ、本当だ!すいません、それじゃあお先に失礼します!」


 足速に立ち去っていく彼女を見送って、上司の資料を確認する。購買費の桁数が全て間違っており、終電に乗れない事が確定して頭を抱えた時、彼女はひょっこり顔を出した。


「言い忘れてました!明日結果を教えてくださいね──鴉間せんぱい!!」



「いらっしゃませー」


 結局、終電すら逃し、タクシーという無駄な出費をしてなんとか自宅近くのコンビニにたどり着く。

 入り口近くで屯っている夜遊び学生達を尻目に中に入っていつもの醤油味のカップ麺と玄米茶を購入。レジに向かおうとした矢先にレモンキャンディが目に入る。


「………まあ、甘い物が食べたい気分だから」

誰に言い訳してるのか、レモンキャンディも購入しようと手を伸ばして、

「あっれ、ボスじゃん! 髪、黒染めした?」

「げっ」

「久しぶりに会ったのに、ひどい態度で笑うわ?ボス。でも元気そうで何よりだよ!」

「………お前は少しやつれたか?ルリ」


 レモンキャンディに手を伸ばしていたのは身を包むパンク系ファッションに負けないくらいの美女。

 男なら涎を垂らしたくなる豊満なスタイルだが、昔馴染みではそんな気も起きない。


「まぁ………ね。色々あってさ。というかボスこそ、目の隈ひどいよ。こんな時間まで仕事なわけ?」

「清く正しい労働の対価だよ。お前こそ最近テレビで見たぞ。随分派手にやってるみたいだな」

「そりゃ、お嬢に誇れる自分でありたいので!ここは奢って? ボース!」


 ルリのカゴの中身がこちらに移動され、そのまま金を払えば彼女は先に外に出て行く。後をついて行くように外に出れば、身を切るような秋風がもうすぐ冬だという事を教えてくれた。


「明日は始発で出て、上司の承認と関係会社に謝罪のメール。後は後輩に雑務を任せて………」


 始発で出て、終電で帰る。会社と自宅の往復の繰り返しを7年。何も変わり映えのしない退屈だが誰にも迷惑をかけない正しい日々。

 果たして、この生き方は本当に正しいのか?そんな事だけをずっと考えている。

 スマホを取り出し、時刻を確認する。既に夜中の2時を超えた真夜中だ。入り口の学生達は夜はまだまだこれからだ!とばかりに酒を持ち出し、飲み始めた。

いつからだったか、覚えているだろうか。


ホグワーツの入学許可証を待たなくなったのは。

夜の窓辺の外にピーターパンを探さなくなったのは。

世界地図にナルニア国を描き足さなくなったのは。

いつからだろうか──"夜"という非日常に高揚できなくなったのは。


「ねえ、ボス」

「なんだよ、もう………ぶっ!」


 削がれた意識を戻して横に立つ彼女を見れば、真っ赤な口紅で彩った柔らかそうな唇が軽く突き出されていて、


「??っ!煙草の火が欲しいならそう言え!」

「軽いお茶目じゃんか、ボス。というかその感じ、まだ忘れられないんだ」


 その先に咥えられていた煙草にジッポで火をつけてやる。揶揄うような彼女の目から逃れるように、俺もタバコに火をつけた。


「夢を見るんだよ。伸ばした手が届かなかった。あの瞬間を何度でも」


 紫煙が夜空に向けて登る中、疲れたような俺のため息に彼女もゆっくりと煙を楽しんで口から吐く。この時間を惜しむように。


「──ボス、変わったよね。変わらないのはそのバニラの匂いくらいか」

「お前は変わったよ………昔より生き生きしてる。後、どのくらい時間が残ってるんだ?」

「ざっと2年かな。あ、これが今のうちのライン。夜、寂しくて泣きそうな時は呼んでよ。会いに行くから」

「呼ばないからな。受け取らないと引かないだろうから受け取るが」

「さすが、ボス。分かってる?」

「おいテメェ!今、俺のことを撮っただろ!」


 互いが知らない間に経験した時間の重みを感じていれば赤ら顔の大学生?くらいの男性がこちらに向かって叫んでいた。どうやら取り出したスマホを見て、写真を撮られたと勘違いしたらしい。


「撮ってないですよ。ほら?アルバムにもないでしょ?」

「盗撮すんじゃねえ!気持ち悪い!!女まで侍らせてよ!そんな事したら、どうなるか教えてやるよ!」


 酔っているのか、気が大きくなってる彼は何の躊躇いもなく、拳を俺の顔に振り抜いた。頬に走る鋭い痛み、その後に来る生臭い鉄の味。随分と懐かしいその感覚と、


「い、いってえぇぇぇぇ!!」


 拳を抱えて、疼くまる青年の姿。入り口近くにいた仲間の学生は笑っていたはずが、今は驚きに顔を染めていた。


「見ず知らずの人に暴力を振るわない方がいいって。お前の人生が終わっちまう」

「舐めてんじゃ………ねえっ!」 


 繰り出された前蹴りが腹に突き刺さる。内蔵が打ち上がるようないい蹴り。10年前を思い出す、その衝撃になんだか笑ってしまった。


「な、なんなんだよ………お前」

「いや別に。気が済んだなら帰るといい。俺も帰るから」

「え、ボス。喧嘩しないの?よっ、ちょっとボスのいいとこ見てみたい」

「お前も煽るな。そもそも事件起こしたら迷惑なのはお前だろうが」


 背中を向けて、帰ろうとした矢先にふとコンビニの駐車場に黒塗りの外国車が止まる。自分の貯金くらいの高級車をマジマジと見てれば、窓が空いて、


「随分と楽しそうですね、総長に、ルリ」

「………タカか。久しぶりだな」

「タカじゃん、何してんのこんなとこで。病室デートは明日だよ?」

「お見舞いを病室デートだなんて言わないでください」


 覗かせたのは顔に大きな傷跡のある結構イケメンのジャニ系の男。というか高校生の頃に連んでいた男で、強い酒と甘い香水の匂いで思わず咽せた。彼は呆然としている学生を見ると、こちらを見て


「ふふふ、接待帰りですが………始末ならオレがやりますけどいかがいたしますか?」

「昔じゃないんだ。そんな危ない事はするなって」

「………やっぱり、変わりましたね、総長。昔の貴方なら喧嘩を売ってきた奴は半殺しだったろうに」


 失望したとばかりの目に居た堪れず、愛想笑いを浮かべていれば、彼は瞑目して、ただ一言。


「運転手さん。5分、待て」


 同時に、車の扉が蹴り開かれて、よろけた拍子にコンビニ袋が地面に落ちる。それに気を取られていれば、飛び出して来ていたタカの膝蹴りが視界を埋め尽くしていた。


「僕を失望させないでくださいよ、総長」

「昔の話だろ。明日も仕事があるんだ。怪我なしで頼む」


 噴き出た血を乱暴に拭えば、飛んできていた縦拳を右手の甲で受け流し、そのまま腕を絡ませ、脇に挟んで左の拳を横凪に振るう。

 轟音と共にタカのボディブローが交錯し、腹腔に突き刺さり臓腑を抉る。タカが後退って胃液を吐き、こちらがその場で喀血を吐き、同時に面を上げれば。


「昔のアンタはもっとギラギラしてた!!今みたいに、深夜まで仕事だなんだとつまらない生き方なんてするような人じゃなかっただろうに!今のアンタは翼を失った烏だ!」


 タカの右ストレートが突き刺さるが、後退りもせずに睨み返して帰す刀の左正拳突きにより、鼻血を噴き出させた。


「正しく生きる事を馬鹿にするなよ、タカ。誰かの為に働くってのはいいもんだぞ。お前も足を洗えって。どうせ碌な生き方してないんだろ?」

「お嬢との、駒鳥星空(セイラ)との約束を破るつもりなんですか!? がっかりさせないでくださいよ………」


 タカが身体ごと詰め寄る。蹴り剥がして離れるも、独楽の動きで回り、肉薄するのを、俺はため息ひとつついて。


「もう………あの頃みたいには戻れないんだよ、タカ。俺は──夢を失ったからな」


 金髪が空を舞い、踏鞴を踏ませる裂帛の一撃でカウンター。タカの顔を捉えた一撃は彼を地面に横たえるには十分で。


「満足したな?俺は帰るぞ。俺はもう一般人だ。連絡してくんなよ」

「ボス、うちとしては今はそれでいいけどさ。いつまでもそのままでいられるとは思わないでよ──いつか必ず迎えに行くから」


 ルリが倒したタカを起こして、背中越しにそう言えば、奴につけられた傷がひどく痛んだ。

 家に帰り着くまでの足取りは重く、思い返すのは2人の言葉。


『今のアンタは翼を失った烏だ!』

『いつか必ず、迎えに行くから』


「………上手いこと言ったつもりかよ、クソ」


 何よりもその言葉が胸に突き刺さっていた。



「もう3時じゃねえか………」

『次のニュースです。"人体腐敗化症候"は未だ治らず………東京では新たに4千人を超え………』

「いつになったら、治療薬が見つかるんだ?」


 シャワー浴びて、テレビをつけて、飯を食べて。築20年のアパートのベランダで煙草を吸う。学生時代から吸っている、ふわりと薫るバニラの匂いが月の光に照らされた紫煙を空へと運んでいく。

 人体腐敗化症候。およそ5年前から蔓延しだした奇妙な病気だ。罹患すると昏睡状態のまま人体がどんどん腐っていく奇病。だが、おかしなことに死者は出ずに腐敗状態で眠り続ける。


「あいつはまだ生きているんだろうか」


 接触禁止を言い渡された彼女のことを思い、煙の行先、見上げた夜空を鮮やかに照らす白銀の月。


「あ?そういえば言われてたな、彼奴に。えっと、レモンキャンディを………」


 満ち欠けによるものか、レモンの形になっているそれを見て部下との一方的な約束を思い出した。何となく月が見える場所に置いた方が良さそうなので、わざわざ皿を持ち出して、レモンキャンディを碇の形に並べる。

 なんて事ない子供騙しだろう。部下も子供心に帰って欲しいから言った冗談なのだ。多分。

 子供の頃は、冷えた夜の空気の中でも火照る頬で星空を見ていた。煙草と酒の味を知って、〝夜〟を時計の針だけで測るようになってしまう前はもっと未来に夢を見ていたはずなのだ。


「──いつから明日に夢を見なくなったんだっけ」


 ふと、漏らした言葉に煙草の火が落ちる。部屋の中にあるのは積み重なって洗濯物と、ゴミ袋に纏められたカップ麺。唯一残っているのは、頂点に立った際に撮った記念写真。

 何より輝いていたあの頃に比べれば、今の生活は奴らには貧相に見えるらしい。


「下らないな、本当に」


 学生時代の夢を思い出させるなんて、案外都市伝説もいいものだと、俺は思わず苦笑し、皿のレモンキャンディを一つ口に運んで。


「よお、新入り眠れないなら乗ってけよ」


 月明かりに照らされた夜空の下、星灯りを纏って輝く船から、ティーンの少女がそう呼んでいた。

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