二十五、禍害
日暮れ前には、祭りに必要な分の提燈を拵え終えた。一路は酔いに任せて板間に身体を投げ出し、心地良さそうにいびきをかいている。他の何人かは、酒が切れたとみるやさっさと帰ってしまった。むわりと酒の臭いの充満する静かな社務所に残るのは、一路がやり残した太鼓を代わりに修理している者が一人、そして一路と同じように酔い潰れて横臥する者が三人だ。左慈は起きている男に自分は帰ることを告げ、社務所を出た。秋の外気が、屋内の熱気と久々口にした酒で火照る身体に心地よい。
香取社を出て集落に続く畦道を歩いていると、強風が前から左右からと吹き荒れた。それでふと、左慈は浜小屋の戸締りをしていたかと気になる。鍵などはかけていないが、悪天の日は戸が外れないよう、つっかえ棒をしなければならなかった。それに、人がいなければ彼女と会えるかもしれない。そんな期待がむくむく湧いて、左慈は自嘲気味に口角を上げた。誰にともなく誤魔化すように口元を撫で、鼻先を掻いて目を泳がせる。このまま家に帰っても、家族が酔った左慈を珍しがるだろう。考えるだけで窮屈な気持ちになってきて、熱を持った身体を冷ましがてら、小屋の様子の確認へ向かった。
浜の手前の松林を抜ける前からすでに、轟々と波の叫びが聞こえている。晴れているのに、風が潮の香も分からぬほど疾く荒々しい。左慈は巻き上げられた落ち葉や土に顔を顰めながら浜に降り、自分の網組の浜小屋へ向かう。
案の定、小屋の戸につっかえ棒などしておらず、半分開いた戸板は鴨居から外れかかっていた。左慈は小屋にあった木切れを手に取ると、戸板を鴨居に噛ませて閉め切り、木切れをつっかえ棒にした。
水平線の彼方から浜辺へと暴風が吹き寄せ、立ち並んだ浜小屋が音を立てて激しく震えた。腕を顔にかざして砂塵を退け、左慈は沿岸をぐるりと見回す。
西日を照り返しなお深い濃紺の沖は、ゆっくり大きく上下して巨大な肺の収縮じみて見えた。緩慢で不気味なその海面が、影海岩に断続して覆い被さるたび、真中の穴から灰白色の水煙が立ち上る。汀に長く伸びる白波が砂礫を巻き込みうねる様は、蛇がのたうつのに似ていた。
夜中に訪れたときに、うっかり波打ち際に近寄らないようにしよう。左慈はつらつら思い巡らしながら、無意識に女の影を期待して浜辺の端、断崖に穿たれたあの岩窟の方へと目を走らせ————怪訝に細め、すぐに見開いた。
崖の下は入り組んだ岩場となっているために、波は一層高く、白く泡立ち、暴れ狂うように流れ込む。その狂乱に紛れて、小さな人影が四、五。
童女だ。年端もいかない童女たちが、奔流の合間を縫うように、手を繋いでひょこひょこと岩場を渡り歩いている。左慈は酔いとともに血の気が引いて、
「————おいっ!」
叫び、駆け出した。
どうして、どうやって。左慈の見たことのない子供もいる。こんな日に度胸試しか。女児だけで? 何故誰も止めなかった。
疑問を置き去りにしたまま、岩場まで辿り着く。刹那、左慈と童女たちの間に、泡立った波が轟々と流れ込み飛沫をあげた。
「待てっ、戻って来い!」
左慈はほとんど悲鳴に近い怒声を上げた。しかし童女たちは、細い畦道を散歩するような足取りで、荒波の隙間をするすると抜けて岩窟へと入って行った。その間にも、波が弾け飛び散り、霧の如く左慈の目の前をけぶらせる。左慈は波の大きく引いた隙にまた駆け出そうとした。が、濡れた岩に足を取られてもたつく。
刹那の静寂。くすくす、童女たちの悪戯っぽい笑声が鼓膜に触れる。
中の子らを掴み取ろうとするかのように、厚い波が左慈の眼前で岩窟に押し入った。左慈は声も出ず息を呑む。波が引き下がり辺りが束の間しんとする。左慈は我に返ると、ひたひた滴の垂れる岩窟に駆け入いった。
水浸しの岩壁はぬらりと光り、巨魚の口内のようだ。柊木犀の香りはなく、泥と海水の生臭さが充満している。奥の暗がり、岩壁の陰まで近寄っても彼女たちの姿はない。忽然と消えていた。左慈は群青の海原を振り返った。外の岩陰にも、荒波の間にも、人らしき影は見当たらなかった。波のせせら笑いが遠くに聞こえる。焦燥がうなじを伝い、左慈は目眩を覚えた。
「……そうだ、早く」
早く戻って、皆に知らせなければ。はっと顔を上げ、波の乱舞する外へと出ようとする左慈。空洞に風が吹き荒れた。烈風は低く不気味におおおん、とこだまする。
俄に、空気の咆哮すらかき消すようにして、海泥を巻き込んだ無彩の波と夥しい泡が、左慈の視界を覆い尽くした。
厚い波が左慈の身体を嬲り、圧し潰し、岩窟の外へと引きずり出す。
海面に出なければ。焦りもがくほど体が重く沈んでいった。奔流に抗うことすらままならず上下が混乱した。ごぼごぼと不吉な音を響かせて、死が身体に流れ込む。
——終わるのか、俺は、ここで。
心残りはない。心残りができるほど何も残せていないのだから。悟ってしまえば、生にしがみつこうと足掻いていた四肢は弛緩した。
力の抜けた左慈の腕に、ふと生温かい流れが巻きついた。それが無性に心地良くて、少しだけ名残惜しくなる。左慈は途切れかけた意識を繋ぎ、その潮流に指を絡ませる。最期にその名を呼ぼうと開いた唇から、小さな気泡が逃げていった。
海罪ノ木深版 ニル @HerSun
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