始まり③
「あ……、その、お金払いますね。1000円で大丈夫ですか」
下らない思考を振り払うように会話を振った。
「いいよ。奢るよ」
「え、でも……」
「上司なんだから奢るだろう」
流石御曹司。黒部さんは会社の飲み会がある時も1円たりとも部下に払わせない。
「ありがとうございます」
「それより平手」
かがみ込み私と目線の高さを合わせた。その上、頬に手を添えられた。お陰で顔を背けることができない。
私の顔は一瞬で熱を持った。触れられている部分をやたら意識してしまう。対して黒部さんは冷静そのもの。
けれど私の中で微かに残る理性的な部分が訴える。
黒部さんの行動って非常識じゃない。
部下の頬に気安く触るなんてセクハラじゃないの。
そんな私の思考は彼の言葉で簡単に打ち消された。
「お前、キャバクラで働いてるのか」
「……え」
一瞬で頭が真っ白になる。何か言わなきゃと思うのに言葉が出ない。
「ラクサ総合会社の山本さん、知っているだろう」
「はい」
入社1年目。仕事が全く分からない次期。最初はとにかく黒部さんについていった。黒部さんの仕事ぶりを見学しながら仕事のやり方を学んで行った。その時ににラクサ総合会社も伺った。
山本さんは社長でありながら誰にでも気さくに話しかけてくれる。温和で面倒見の良い性格で従業員にも好かれている。
ただし女好きでよくキャバクラに通うことでも有名だ。
自分の会社で働く女性従業員には決して手を出さない代わりにキャバクラ店で自身の女好きの欲を発散する。
「山本さんがキャバクラ店で平手を見かけたって。確か『ミモザ』という名前の店だったかな」
店の名前を出され心臓が大きく跳ねた。動揺から上手く呼吸ができず息苦しい。
それは山本さんの勘違いだ。私は会社のルールを破ったりしていない。
思いつく言葉を並べてなんとか誤魔化そうと思った。
けれど黒部さんから変わらず強い視線を向けられ続けて気づく。
彼がずっと私の目を覗き込んでいるのも、視線すら逸らせないよう頬に触れるのも私を観察するためだ。
もし私が嘘や誤魔化しを述べたら一瞬で暴かれる。
「……」
「無言は肯定と受け取るよ」
その言葉を聞いてなお私は無言を貫いた。つまり認めた。
「とりあえず会社で話し続けるのはあれだから場所移そうか」
黒部さんはようやく私の頬を解放した。目線を合わせるのも止め少しだけ後ろに下がる。
「あ、ごめんなさい」
「なんだよ」
「明日使う資料作り終わってなくて」
黒部さんは黙って私を見つめた後、静かにため息を吐いた。
「ごめんなさい」
「いいよ。俺も手伝うから。何の資料」
「え、いえ、私の仕事なので、黒部さんを頼る訳には」
私はぶんぶんと手を振り遠慮する姿勢を示す。
「大人しく言うこと聞かないと副業のこと会社に言うよ」
「……はい」
完璧な脅し文句に反論は一切出てこない。しゅんと俯くと優しく笑う気配を感じた。
「平手は知らないかもしれないけど俺ってかなり優秀なんだよ」
「知ってますよ」
この年で主任になった期待のエリートだ。誰しもが黒部さんのことを優秀とみなす。
「だから書類くらい素早く作るよ。任せて」
嫌味にならないくらい軽いノリで自慢されて素直に書類を渡す。
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