第16話 織りなす楓
大浦晴季から借りた自動車に、萌子を乗せて、サラームは先を走った。
先、といっても、行く先は決定していない。
福田家に戻って、萌子の安全を確保する、それ以外はないはずなのだが、何故かそんなつもりにはなれなかった。
織田原市とは関係のない方角、夜の灯京都を、サラームは車を走らせていく。
萌子の方も、温かい缶のカフェオレをちびちびと飲みながら、無言で窓の外を見ていた。自分が、織田原市とは逆方向に連れて行かれていることは、わかっているだろう。
サラームも、ホルダに入れた、萌子が買って来てくれた熱いブラックコーヒーを時折飲みながら、あてどなくアクセルを踏んでいる。
「トウダイ……」
「うん?」
「今の時期って、トウダイの紅葉が綺麗なんだって」
「紅葉」
「銀杏並木が凄く綺麗ならしいんだけど、いろはもみじも見えるのかな」
「……」
サラームは、無造作に踏んでいたアクセルを緩めた。車のスピードがやや落ちる。
「行ってみるか?」
「この時間に?」
「大学はまだ、あいてるかも知れないだろう。亜沙子さんはいつも帰りが遅い」
阿茶の水大学で院を狙っている亜沙子は、確かに、毎日帰りが遅い、研究に没頭した人生を送っている。
それを知っているので、サラームはそう言ったらしい。
「そうだね。紅葉、見てみたいかも……」
「見に行こう」
イロハモミジは、イロハカエデ、タカオカエデとも呼ばれる落葉高木だ。単にカエデと呼ばれる事も多い。
その楓が、一年の間に最も美しく色づく季節が来ている。
そのことを、萌子は今更のように思い出していたのだった。
アサド王国にも楓はあるのかどうか、わからない。
あるのかもしれない。
だが、抱き楓の紋を追って、遠い赤道大陸からここまで来た彼に、一度、色づく楓の見事さを見せてみたかった。
サラームは、なんと言うだろう。
萌子も相当疲れていたが、サラームが、すぐに、彼女を福田邸に連れて帰らない理由はわかるような気がした。
魔法は、豊葦原では、よほど、高等教育を受けて修行した人間しか使えない。
それは、アサド王国でもそうだろう。
奴隷も、訓練すれば、魔法を使えるようになるかもしれない。だが、その機会を与えられる事はないのだ。
魔法……大名である晴季が、難なく使いこなせるようなこと、である。
奉行である兼久も、訓練で何らかの犯罪捜査に関する魔法を使えるはずだが、家族である萌子にもその件については話さない。情報を与える気はないのだ。
殆ど、晴季と同じレベルで、電気を使いこなすサラームが、奴隷出身だったことはあり得ない。つまり、アサド王国の相当な上流階級の出身と、自分からばらしたようなものである。
萌子達に。
切羽詰まっていたからどうしようもなかったのだろう。本来、奴隷の身分で、そんな魔法を使えるとばれたら、ただではすまない。氏素性の事も聞かれるだろうし、様々な思惑から、虐待や犯罪に巻き込まれる事も珍しくはないだろう。
だから、サラームは、今、萌子にその話をしたいはずだった。
自分の本性。素性の話。
アサド王国の事がほとんどだろうが、恐らく、抱き楓の懐刀の話も出てくるだろう。
場合によっては、萌子が……
(私に危害を与えるつもりなら、最初から助けなきゃいいはずよ。……変な事考えちゃったな)
妙な考えが脳裏をよぎったが、萌子はすぐに打ち消した。考え方によっては矛盾が生じるが、サラームが、自分に危害を与える事はないだろう。
萌子は、いつの間にか、彼の事を深く信頼している自分に気がついた。
奴隷身分におとしめられた魔法使いと二人きり、自動車で目的もなく走っていたのに、全く恐くない。
疲労は感じていたが、恐怖よりも、サラームの心境を心配していた。
(私に話しづらい事がたくさんあるだろうし、話していいかどうか悩んでいるだろうな……だけど、私も、サラームをこのまま奴隷にしておく訳にもいかないし、ちゃんと、お互いに言わなきゃわからないこと、話さないと)
そういう気持ちである。
自分の方から、質問すればいいのかとも思ったが、サラームに何から尋ねればいいかわからない。
サラームの方から気を落ち着けて、話す事を話して欲しかった。
そんなふうに、黙っていると、自動車は花園町を遠く越して、萌子が1~2回来た事のある巨大な敷地内に入っていった。
「着いたぞ」
灯京大学。
灯京都のほぼ中心にある、豊葦原で最も有名な大学である。
近くの駐車場に自動車を止めて、大学の門から中に入っていくと、ライトアップされた銀杏の並木が見えた。
暗い夜、冷え切った空気の中、きらめくような黄色の葉。
遠くの棟に、ぽつ、ぽつ、といくつかの灯りが見える。まだ残って勉強をしている学生がいるのだろう。
萌子は17歳。
サラームは22歳だから、大学の中にいてもそれほど違和感はない。
サラームはクーフィーヤを解いて、羽織のように羽織っていたからだ。
「大学って凄いところなんだよね。外国人がそんなに珍しくないの」
無言でいるサラームに向かって、萌子は、笑いながらそう言った。
サラームは頷いた。
とはいえ、二人の視界には、自分たち以外の人影は見えず、萌子は、記憶にある道筋をたどたどしく歩いて行くしかなかった。
「こっちの方にね、池があって、多分、楓の紅葉が見られると思うんだけど……」
「ああ」
「楓とか好き? アサド王国でも、紅葉はあるんでしょう」
「……」
サラームは不意に顔を曇らせてしまった。
サラームが、話し出すのを萌子は待った。二人は無言で、萌子の言う池に向かって歩いて行った。
やがて、二人は、石灯籠にライトアップされた、一つの池の周りに青から紅、深紅まで色とりどりの紅葉が見える。ところどころに黄色の銀杏。
楓紅葉もあれば、桜紅葉も見えた。緑、そして柔らかな黄色から鮮やかな紅へ。
それを上空の月影が照らし出し、暗い池に同じ色合いを逆さまに移しだしている。
石灯籠に揺らめく光は炎で、きらきら、ゆらゆら、と橙色の明るい光を見せ、二人の足下を照らしていた。
石灯籠の周りに、自然と、サラームと萌子は進んでいった。
半月の美しい晩だった。
楓紅葉のグラデーションが、さやかな月光に照り映えていた。
「……話していいか?」
サラームはやっと、萌子にそう尋ねる事が出来た。
「うん」
早くも、遅くもなく、萌子はそう答えた。
「俺は奴隷の出自ではないし、元々奴隷ではない。俺の母も奴隷ではなかったはずだ。……そのことを確かめに、この国に来た」
サラームはそう言って、豊葦原で作られた抱き楓紋の懐刀を、萌子の方にまた見せた。
「これは、母の形見だ」
「やっぱり」
そこまでは、萌子でもわかっていたことだった。抱き楓紋の懐刀を、奴隷の身分でも最後まで手放さなかった。しかも、その、明らかに高額に見える懐刀は、由緒のあるものだということは、萌子の目にも明らかだった。
つまり……もしかしたら。
「俺の母の名前は、小夜香。大浦小夜香だ。……母は、アサド王国で生きて、俺の父と結婚し、俺を産んで、亡くなった。十二年前に」
「亡くなった!?」
そこまでは予測していなかった萌子は思わず、聞き直してしまった。サラームが、もしかしたら、小夜香の息子ではないかとは、気にしていたのだった。何しろ、年数が合うし。
サラームは頷いた。
「どうして……」
サラームは首を横に振った。
萌子の質問には、到底、答えられなかった。母が、アサド王国で、父の他の娘達にイジメられ、悲惨な死を遂げたなど。
「サラームのお父さんって?」
萌子は、どうしてもそれが気になって尋ねてしまった。
「俺の父の名は、クァドゥーズ・バタル・アル=アウス。あるいは、アル=ハーリサ」
「アサド王国の、ハーリサって、……ちょっと待って。ハーリサっていったら……」
萌子がわずかに身を引いた。
アサド王国、第二の地位を持つシークの名。それがハーリサである。
国交を持つ豊葦原でも、知らない者は滅多にいない。
「そうだ。俺の父はシークで、俺は世継ぎと呼ばれた男だ」
「…………」
気がつくと、萌子は膝から力が抜けて、池のそばで尻餅をついて座り込んでいた。
腰が抜けたのだ。
「……シーク?」
その彼を、自分は、奴隷扱いしてこき使ったのか。にわかには、とても信じられる事ではない。だが、……本人がそう言っている。
「どうして、そうなったのよ」
やっとのことで、萌子が言った。
「俺も、何故、母さんが、奴隷の身分になったのかは知らない。だが、今日の事でわかったのは、杉原が何か……したんじゃないのかということだ。それは、杉原の事を調べていけばわかることだろう」
「……」
「母は24年前に、アサド王国に、祖父の身の回りの世話をする奴隷として連れてこられた。その後、父に愛されて結婚した。その頃から、母の身分を保障するのは、この懐刀だけだった。……奴隷とはそういうことだからな。母の死後は、俺が形見としてこの懐刀を持っていた」
「そうだったんだ。……辛かったね」
萌子がか細い声でそう言った。
何かを不安がっているようにも見えて、サラームは萌子のそばに行き、隣に座り込んだ。
「お母さん、小夜香様は、どうして亡くなったの。晴季様の妹っていう事は、まだ若いはずだよね」
「……話さなきゃ、ダメか?」
「知りたいわ」
それが、サラームが豊葦原を目指した原因なのだから、省略する訳にもいかないだろう。サラームは、哀しかった記憶を掘り起こし、少しずつ話し始めた。
「俺の母の他にも、父には何人かの妻がいた。俺の母は、奴隷の身分出身ということで、他の妻達に、軽蔑されて憎まれていた。それでいて、妬まれているようでもあった。それで、母は、散々、侮辱されたりやりこめられるようなことをされて、心労が重なって病気になって……死んでいった。俺が十歳の時に」
「そんなに前に?」
萌子は驚いたようだった。
自分が十歳の時に、何を考え、何をしていたか思い出そうとした。十歳といったら、本当にまだ子どもだ。
「ひどい……」
恨むような萌子の声に、サラームは、ただ深く頷いた。
そのままサラームは黙ってしまった。
やがて、萌子がまた、尋ねた。
「お母さんの親戚を訪ねて、豊葦原に来たの?」
「それもある」
サラームは、ゆっくりと大きく呼吸をして、それから話し始めた。
「母は、懐刀は持っていたが、自分の元の身分の事を言わなかったんだ。自分が豊葦原の津軽家の出身の事は何度か言っていた。だが、それぐらいだ。母は、俺には、大浦家の季節の風物の話や、兄である晴季様の話などを、いくつかしてくれたが、自分が奴隷の出自だともそうでないとも言わなかった。……今思えば、そうするしかなかったんだろうな。母には奴隷の出自を思わせる所は、どこもなかったが、父の妻達は、そこがどうしても気に入らないらしく、集中攻撃していた。お前は卑しい奴隷の母から生まれたんだろう、と……」
「そんなことだったの?」
萌子はかすかな怒りを覚えた。
「母はそうして死んでいって。その後、俺がシークの跡継ぎに選ばれると、父の妻達は、俺の事を一斉に攻撃し始めた。何度も殺されかかった」
「こ、殺されかかったって!」
サラームは、不思議そうに萌子を見た。
「萌子は奉行の娘なのに、殺されかかったことはないのか? 俺は、子どもの頃から何度も命を狙われてきた。だから、俺はいつも強くなくてはならないんだ。自分の命は自分で守らなくては」
「……そりゃ、確かにそうだけど。それで、サラームは強い魔法も使いこなせるのね?」
「そうなる」
それはそれで納得だった。命を狙われてきたシークの息子が、恐らく、高位の魔法使いに弟子入りするかどうかして、電撃の魔法をマスターしたのだろう。
「俺を暗殺しようとした証拠を、父に見せて、他の妻達の非道を訴えると、他の妻達は、……俺の出自と、母の出自を侮辱した。さすがに、俺も怒ったさ。女相手に、あんな怒りを感じたことは初めてだった」
「……それは無理もないよ。今までの話を聞いて、私も、腹が立つもの。そりゃ、自分以外の奥さんなんて、面白くないけど。殺すところまでやる必要ないじゃない」
そのことには、サラームは答えなかったが。萌子を見て、かすかに笑った。
「……母の秘密を知りたくなったんだ。母は本当に、何も話してくれなかった。話せなかった人だから。母の真実の姿を知って、そのことを、父にも知らせて。……父の妻達に、引け目を感じずに、シークの跡継ぎとして仕事をしたかったんだ。そのことは、父も許してくれた」
「そうなんだ。それで、小夜香様の家を探しに来て……?」
「父の妻達が、俺が母の故郷を探しに行くと言って、出てこない訳がない。それで、民間客船に、庶民のふりをして紛れ込んだんだ。そうしたら、その船が海賊に襲われた。俺も戦ったんだが、不意を突かれて海賊船に捕らえられて、気がついたら早田屋に……」
「酷い目にあったね」
何故か、萌子の方がうなだれている。
哀しそうな萌子を見て、サラームは、元気づけるように言った。
「だが、そのおかげで、萌子ちゃんに会えた」
「……え?」
「萌子ちゃんの協力がなかったら、俺は、どうなっていたかわからない。萌子ちゃんに買ってもらって、萌子ちゃんに話を聞いてもらって、萌子ちゃんとゲームをして、萌子ちゃんのおかげで澄香様に会えて……それで、初めて、母さんの本当の姿を知る事が出来た。母さんは、愛された、大名の姫だった。そのことを知れただけで、俺は、苦労の甲斐があった……」
「か、買ってもらったって……そんな。あのときは、他に方法も思いつかなかったから……だから」
萌子は顔を真っ赤にして、反対の方向を向いてしまった。
「サラームには、当然のことをしただけよ。褒めすぎよ」
「そんなことはない。萌子ちゃんが、協力してくれなかったら、何も出来なかったと思う。……ありがとう」
「……っ」
萌子は、顔を背けたまま、下を向いてしまった。なんだか、恥ずかしくて仕方なかった。
「その萌子ちゃんに、恐い思いをさせて悪かった。謝らせてくれ。すまない……」
「わ、私の方こそ。……足手まといでごめんなさい」
戦ってるサラームの後ろで、自分は、澄香を支えて立っているしか出来なかった。元々戦闘訓練も何も受けていないのだから、それは、どうしようもない話なのだが。
もしも、自分が、戦える女の子だったのなら……。
「それが言いたかった事なんだ」
サラームは、ゆっくりと立ち上がった。
「俺は奴隷ではないし、奴隷ではいられない。だから……萌子ちゃんには悪いが、もう、アサド王国に帰らなければいけないだろう。萌子ちゃんの父上は、話のわかる人だ。今日、福田の家に帰ったら、事情を話そうと思う」
「え……」
つられたように、萌子も立ち上がった。
「サラーム、豊葦原を出て行くの?」
「……多分」
サラームは、言葉を濁した。次代のシークになる自分が、いつまでも豊葦原で奴隷の身分でいるわけにはいかない。幸いにして、相手も奉行だから、話は通ると思うが……。
「嫌だ」
不意に、萌子がそう言った。
「萌子ちゃん?」
「嫌だ。サラーム、行かないで。……豊葦原から出て行かないで」
萌子ははっきりと、意思表示を行った。
紅潮した頬。いつの間にか、目に涙が浮かんでくる。
「萌子ちゃん、だが、俺は……」
「行かないで。そばにいて。……奴隷でなんかいさせない。私と父上と母上と、みんなの力で、サラームを奴隷から解放させてあげるから。だから、豊葦原から出て行かないで。私のそばにいて」
……そういうことであった。
萌子は、涙を手の甲で拭った。なんていう一日だったんだろう。この日は……。
「萌子ちゃん」
サラームは、涙を拭いた手を取って、その手の上に、軽くくちづけた。
「行かないよ」
「……っ」
それが嘘でも嬉しいと、思った。嘘か本当かなんかわからない。自分が滅茶苦茶を言っている事はわかっていた。
それでも、そう言ってくれたサラームに、何か言おうとすると、胸が詰まって何も言えない。泣きそうなのをこらえて、笑おうとするが、うまくいかない。
そんな萌子に気がついたサラームは、彼女の肩を抱き寄せた。そして、その栗色の髪に、そっと、くちづけを繰り返したのだった。
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