第11話 おそろいのストールで
夕飯前の時刻の福田家。
居間のテレビの前のソファに萌子は寝転んでいた。
行儀は悪いが、楽な格好に楽な姿勢で、熱心に読みむさぼっているのは、紙の書籍版の「天守物語」である。
今度の
「ちょっと萌子!」
ソファに寝そべりながら、夢中になって戯曲など読んでいる次女に、幸世が固い声で迫った。
「そんなところで本読んで。行儀悪い格好で。あなたそれで、トウダイ入れるの!?」
「あー……うん」
萌子は寝そべったまま生返事をした。
本の中の世界にどっぷりはまっていて、全然、聞いていないのはすぐわかる。
「萌子! 聞いてるの!!」
エプロン姿の幸世は、娘がソファでゴロゴロしているのが気に入らず、つい声を荒げた。だが萌子は生返事を繰り返すばかりで、天守物語の世界から帰ってこない。
「全くもう、この子は……」
幸世はブツブツ言いながら、萌子のいるソファの方に歩み寄って、次女を説教しようとした。そのとき、居間に、分厚い本を抱えた兼久が入ってきた。
「萌子」
「んー?」
萌子はぼんやりと顔を上げ、兼久が近寄ってくるのに気がついて、寝そべっていた体を起こした。だが、まだ視線は半分、天守物語の方である。
「俺の持っている歌舞伎年鑑に、お前の見たい歌舞伎が載っていたぞ。読むか?」
「えっ、本当!?」
萌子は体を兼久の正面に向けて、天守物語から顔を上げた。
「ああ。読みなさい」
兼久はしばらく前の歌舞伎年鑑を萌子に手渡した。
「ああもう、あなたと来たら、娘を甘やかしてばかりで! 萌子がいつまでも芝居見物やらに血道をあげて、大学受験失敗したらどうするんですか!」
幸世は今度は兼久に食ってかかり始めた。
「いや、その……」
兼久の方が口ごもっている。
萌子はその隙に、父と母の背後をすり抜けて、歌舞伎年鑑と天守物語を抱えたまま、居間を出て自分の部屋に向かった。
サラームは、小走りに二階に駆け上がっていく萌子を、台所で見送りながら、本当に勉強をする気があるのか気になった。彼は今回は、大きなカボチャを、幸世に「手が危ないから切って欲しい」と頼まれて、カボチャをサクサクと手際よく切っているのだった。
部屋に引き上げた萌子は、まっすぐに学習机に行き、椅子を引いて座ると、早速、歌舞伎年鑑を開いて、父の言っていた記事を見つけようとした。
そのとき、萌子のスマホが鳴った。
見ると、スマホのメッセンジャーアプリに、澄香から連絡が来ている事がわかる。
萌子は、即座にアプリを立ち上げて、澄香から送られたチャットの文字を追った。
「やった! 澄香様、チケットとれたんだ!」
思わず声に出して喜びを呟く萌子だった。
澄香からは、今度の
「凄い。劇場で見る歌舞伎なんて、初めてだし……」
さらに、澄香からの連絡は続いていた。
当日、歌舞伎を見た後に、今人気の和カフェに一緒に行かないか、もし行けるなら今から予約を入れるという話である。
「もちろん!」
萌子はやはり、チャットアプリに向かって声を出して返事をして、即座に承諾の返信を入れた。
澄香の方も喜んでくれているようだった。
「やったー! すっごい、幸せ……!」
萌子は思わず、部屋の壁際のベッドに飛び込んだ。そのまま、スマホを抱えてゴロゴロ転がり回る。
その後も、しばらく、澄香とアプリで話し合い、当日の駐車場からの道のりから着ていく服装の事まで決めていった。
萌子は、興奮して、今夜は眠れるかどうかわからないと思ったほどだった。
それでも、健康な娘なので、日付が変わる頃には自動的に眠るのだが。
そして|勇進の日。
13:30ちょうどに、萌子はサラームの運転で、寒梅町の大型の劇場の前に着いていた。
劇場は花園町に近い寒梅町にある、かなり大きな施設で、二百年近い伝統と歴史を誇っている。そのためか、初めて見る萌子には白い壁に黒い屋根の映える、とてもレトロで瀟洒な建物に見えた。建物の周りには俳優やタイトルの幟がいくつも立てられ、大勢の人で賑わっていた。
「萌子さん!」
萌子とほぼ同時に、澄香も護衛の鈴木を連れて、劇場の玄関前に現れた。今回は伝統的なデザインの着物だった。上品な紫色に吹き寄せの柄物であり、品の良さの中にも洒脱な華麗さがある。
萌子の方は、朱赤の地に色づいた楓紅葉の柄の着物である。まだ高校生の萌子は着物に着られているような印象があり、まるで高価な人形のようだった。
二人とも髪を後ろにまとめ髪にしてすっきりと項を見せていた。
そしてはしゃいでいる二人が、チャットで示し合わせて身につけていたのが、ストールであった。
今をときめく歌舞伎の名俳優の家紋、「三入り小枡紋」を背中に染め抜いたストールを、防寒のためも兼ねて身につけていた。やはり澄香のものが一回り大きくゴージャスなストールだったが、萌子の方も、肩を覆って晩秋の寒さをしのぐには十分なものをつけていた。
当時の灯京の娘達が推し活をする時には何も珍しくない格好である。実際、劇場では、ブロマイドやだけではなく、俳優の家紋やシンボルをうまく取り入れたグッズが山と売られていたのである。
「澄香様。今日はよろしくお願いします」
伝統デザインの着物を着込んで淑女の気分、しずしずと頭を下げる萌子に澄香は微笑んで、「こちらこそ」と答えた。
澄香は可愛らしく着込んだ萌子が自分に期待と緊張の表情を向けてくるのを見て、自分も嬉しくなってきた。澄香も、初めて上京して歌舞伎座に来た時には、おのぼりさんで期待の中にも恐怖に似た緊張感があったのである。今ではすっかり慣れたけど。
「はい、萌子さん、チケット。今日は楽しみましょうね」
澄香はなんだか自分がすっかり大人になったような気分だった。自分だって三歳しか変わらない、学生なのに。でも嬉しい。
澄香から観劇のマナーを教わりながら、萌子は歌舞伎座の中に入っていった。二人の護衛達はすぐ後ろを着いてくる。
護衛達も、澄香からチケットを受け取っていた。
「開演前に、ショップに寄っていかない?」
「はい。もちろんです」
澄香に連れられて萌子は劇場内の、推しグッズにまみれたショップに向かった。少し後ろを鈴木とサラームがついていく。
ショップの中は既に、歌舞伎ファンの娘達が何人もいて、興奮冷めやらぬ顔できゃあきゃあと、推し俳優のブロマイドやグッズや、分厚いパンフレットを手に取って見比べていた。
同じ事を、澄香と萌子もした。二人並んで、品々を一つ一つ手に取りながら、推しの魅力や噂話を際限なく語り続け、まだ話したりない。
そこで、澄香が、推し俳優の新しいストールに目をつけた。
今日の天守物語を演じるタマサブロウの花勝見である。
赤紫の上等な毛織物に、美しく染め抜かれた花勝見と、先ほどの感動を思い出した澄香は、すっかりひとめぼれしてしまい、早速手に取って、レジに向かうことにした。
だがそのストールはかなり大きく立派なもので、荷物が増えて目立つしかさばってしまう。
一方、萌子の方は、パンフレットを一つ手に取り、美麗なブロマイドのコーナーでああでもないこうでもないと必死に見比べていた。
澄香は会計をすませると、すぐに花勝見のストールに着替えて、萌子のところにきちんとたたんだ三入小枡紋のストールを持って行った。
「萌子さん」
「あ、はいっ」
「これ、あげる。今日の記念に」
なんと、澄香は、その場で萌子に、まだそれほど使っていない新品同様のストールを手渡してくれた。
「え、……ええッ!? いいんですか!?」
「ええ。私は新しいのを買ったから。萌子さんのストールはおしゃれでかわいいけれど、寒いかもしれないでしょう。これを使って」
実際に、小ぶりのストールは使いやすいが、劇場内はともかく、外では冷え込んだ。
「そんな……悪いです」
萌子は遠慮したが、澄香が強いてストールを受け取ってくれと言ったので、はにかみながら嬉しそうにストールを受け取り、その場で自分の小ぶりのストールの上に羽織ってみた。
「よく似合うわ。やっぱり、萌子さんはクールな色合いも似合うわね」
今年の流行色のシルエットグレーのストールは、女子高生にはやや大人びて見えるが、綺麗な着物の上に羽織るとなかなかエレガントで大人っぽくさせてくれる。
澄香が萌子を褒めながら男性陣を振り返ると、男達もそこは素直に萌子を褒めた。萌子は照れくさくて笑った。
「今度、お返しします。澄香様」
「気にしなくていいわ。私こそ、一緒に楽しませてもらっているんだから」
澄香は自分も花勝見のストールを手に入れたし、萌子は喜んでいるのがよくわかるので、すっかり上機嫌である。
その後、萌子は推しの俳優のブロマイドを何枚かとパンフレットを買い、それぞれに収穫を得た女子二人はやはりはしゃいで華やいだ声を立てながら外に出た。既に成人している男性二人の方は、苦笑いである。
女子はいくつになっても女子なんだろうなあ、と二人とも思った。
「まだ時間ありますね。私、買い込んだもの、駐車場の自動車においてきます」
「それなら俺がやる。車の鍵を持っているのは俺だ。萌子ちゃんは、澄香姫と早く指定席に行った方がいい」
サラームが気を利かせてそう言った。萌子は、買い込んだグッズと小ぶりのストールをサラームに渡して、自動車においてきてもらうことにした。
「サラームさん、よろしくね。私たちは先に行ってますので」
澄香がそう言って、鈴木と萌子を連れて劇場内の座席の方に向かう。
「帰りに寄る和カフェは、寒梅町なんですか?」
「違うわよ。今、流行っている”花まど”を、お店で食べられるところなの」
「あ、オーダーメイドのおはぎの? 都内にそんなお店、あったんですか?」
「そう。私も最近知ったのよ。寒梅町から町一つ越えた、夏椿町にあるんだけど」
「行った事ない~」
そういう話であった。
花まどとは、客のイメージする花や小物をおはぎで表現してくれるという珍しい和菓子である。その店でも一日に5セットしか作ってくれないらしい。それを澄香はうまくおさえることが出来たのであった。
「おはぎだから、早速、萩の花を表現出来ないかって、頼んでみたわ。お店は、桃や白や、さまざまな色でおはぎを作ってみますって言ってくれたの」
「楽しみ!」
そんな話をしているうちに、二人は広々とした劇場の指定された席に着き、これから始まる天守物語の情報について、小声で話し合い始めた。そうしている間にサラームが戻ってきた。
天守物語--。
言わずと知れた泉鏡花の戯曲の名作である。萌子はこれを、歌舞伎で見るのは初めてだった。
あらすじは大体こうなる。
白鷺城の天守に住む妖しい美女、富姫。
高みに住まう彼女の元へ、猪苗代湖の亀姫が訪問してくる。仲がよい故のやりとりを繰り返す義姉妹の二人。
富姫は可愛い妹分の亀姫のために白い鷹を手に入れる。
だがその鷹は、播磨守の鷹匠、姫川図書之助のものだった。大殿の鷹を逃がした咎で、富姫のいる異界の天守閣まで登ってくる図書之助。
富姫と図書之助は惹かれ合う。
富姫は異界に踏み込んだ図書之助を、その清々しい態度から一度は許して人間界に返してやる。
だが妖に雪洞の火を消された図書之助は再び、富姫の前に現れる。約束を破ったことを富姫にとがめられながらも。富姫は、図書之助の男らしい言葉に感動し、白鷹は自分が奪ったものであることを告げ、図書之助を人間界に返したくないと言う。図書之助は未練が断ちきれない。それで富姫は秘蔵の兜を図書之助に渡す。
そして……。
図書之助は兜を盗んだ泥棒と言われ、追い回されて異界の天守閣に訪れる。
そこで富姫が、図書之助とともに生きようと決断する。
何もかも、彼とともに……。
そこからは一見、唐突で不条理なクライマックスとエンディングが訪れるのだが、そこは舞台の力と泉鏡花の妖美な世界観で観客を打ちのめすように導いていくのだった。
打ちのめされる、それほどに、ラストの「絵」は闇と光が交錯するように美しかった。
観劇を終えた後、割れるような拍手の中、澄香は放心しきって、自分が無意識に手を打ちあわせている事にも気づかないほどであった。
澄香の隣の席の萌子は、逆に、興奮に頬を染め、力いっぱい拍手をしながら、今すぐにも怒濤のガールズトークをしたくて、澄香の方を振り返った。
早く、澄香と萌えトークをしたくてたまらなかったのだ。
澄香はようやく萌子の輝く瞳に気がついて、振り返って微笑んだ。
「とても幻想的で美しかったわね」
「はい! 本当に。それだけじゃなくって、なんて言ったらいいんだろう、本当に凄かった……。私やっぱり、泉鏡花、好きです!」
澄香の言葉に萌子は強く頷いた。
「そうね。私もそうよ。それじゃ、和カフェに行きましょうか」
劇が終わった後にその場に長居して喋りつくすのはよくない。
澄香はすらりと行儀よく立ち上がり、萌子もそれに続いた。すると、すぐ後ろの席に座っていた鈴木とサラームも無言で席を立った。
四人は駐車場に向かい、それぞれの車の方に向かった。
広い駐車場に車がぎっしり詰まっていたが、サラームは萌子を連れてまっすぐに自分の車に歩いて行った。
「サラーム! これ何?」
自動車の助手席を見て、萌子は驚いた。
萌子の目立つ三入小枡紋のストールが、助手席の首に巻き付けられているのである。
「駐車場が混んでいたので、車の目印にしたんだ。すぐわかるだろう?」
「あ、なるほど。頭いいわね」
確かにその日の劇場は盛況で、駐車場は混み合い、同じような色合いの車はどれがどれだかわからない。それでサラームは、ストールを目印に使ったらしい。
二人はそれぞれ車に乗り込んだ。サラームは運転席。萌子はいつものように車の後部座席を広く使ってゆったり座り込む。
「……ん?」
車のキーを回してエンジンを入れた瞬間に、サラームは異変に気がついた。
パンク。
車の左前輪が、完全にパンクしている……。
「どうしたの?」
「……うん。パンクだ」
「ええッ!?」
びっくりしたのは萌子である。これから、澄香と予約を取った和カフェに向かうというのに……。
サラームも厳しい面持ちで、車の外に出て、タイヤの方を確認した。一目見た後、さらに厳しい表情になり、サラームは萌子に頼んで、スマホで澄香と連絡を取ってもらった。すぐに鈴木が来て、一緒にタイヤの確認をした。
鈴木とサラームが話し合って、サラームが萌子に話しかけた。
「萌子ちゃん、澄香様の自動車に行って。鈴木さんが、連れて行ってくれるから」
「どういうことになったの」
「俺は、ここから業者を呼んで、すぐにパンクを修理してもらう。その後、和カフェで合流するから。予約の時間があるだろう。萌子ちゃんと澄香様は、先に行っていてくれ」
「なるほど、そういうことね。サラーム、任せたわ。すぐに来てね」
萌子はぐずるような事は言わず、素直にサラームに礼を言って、鈴木に連れられて澄香の車に向かった。
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