第10話 変わらない庭
「後は若い二人に任せて……」
そうなるのに、15分とかからなかった。
何しろ、最初のうちこそ、控えめに源氏物語の”萌え場面”とか、推しは誰という話だったのだが、歌舞伎座の推し俳優の辺りから、萌子と澄香の話す速度は次第にあがっていった。萌子も澄香も、それでも、クラスメイトや仲間内での弾丸トークにならないように気を配っていたのだが、四十代前半後半の父親二人にとっては、それでも、かなりきついスピードと熱意だ。
しかも、萌子はそれでも、大学の話を聞きにした意識もあるし、澄香もそれはわかっている。だから、どういうことかというと、大学の科目の話と教授の話と文学の話と歌舞伎の話と推しの話とそれから大学(高校)の仲間ではやっている推しの話が適度に混ざってまだらになった状態で会話のキャッチボールをしているのである。ガールズトークにはよくある事だ。
それが若い娘というものなのだが、父親族にはもはや、なんの話をしているのかわからない。
だが、娘同士はよく通じ合って、仲良くなれそうだということだけは理解出来た。……のだった。
「澄香、お前の自慢の庭を見てもらったらどうだ」
「え……はい。そうします」
澄香はやっと話し込んでいた自分に気がついて、頬を別の意味で赤らめながら晴季に返事をした。
「鈴木、澄香についていけ」
「は」
護衛の鈴木をくっつけるらしい。
「サラーム」
「はい」
兼久の方も、サラームに、庭についていくように命じた。
澄香と萌子は連れだって、部屋を出て、澄香が日頃から手入れをしている中庭の方に歩いて行った。
「す、すみません。父上達の前だっていうのに、興奮しちゃって。思わず……」
「気にしなくていいのよ。私もだもの。推しの話をし始めると、いつもこうなの。恥ずかしいわ」
澄香と萌子は互いに謝りながら、パタパタと中庭の方へ急いで行った。
少し離れて、鈴木とサラームが歩いて着いていく。
サラームは、鈴木が30代前半程度の壮健な若者で、体の筋肉のつき具合や身のこなしから、かなりの手練れであることは見て取った。そうでなければ、大名家の一人娘の護衛など出来ないだろうが。
お互いに寡黙なタチなので、会話はなかった。
「うわあ、凄い綺麗な庭ですね!」
萌子は、秋の花々が様々な色合いで咲き誇っているのを見て、思わず声を上げてはしゃいだ。
「そう?」
澄香は控えめに相づちを打っている。
「これだけの庭、毎日管理されているんですか? 凄い」
「私一人じゃないわ。大学が忙しかったり、体調が悪かったりしたときは、女中や他のみんなに手伝ってもらっているのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。私一人の力で、こんなにたくさんの花は育てきれないわ。みんなの力があってこそなのよ、何事も」
澄香は、丈高い皇帝ダリアの花をいとおしげになでつけながらそう言った。
ダリアはまるで犬か猫のように、澄香の手に花を押しつけている。なんだか、犬や猫が額を撫でてもらって喜んでいるような仕草だ。
「みんなで力を合わせて、こんな綺麗な花を咲かせるんですね。それも考えてみると、凄いです」
皇帝ダリア、ローズマリー、コスモスだけではなく、庭の違う壇には、山茶花や寒椿が咲き、また別の壇にはプリムラやシクラメンが咲き誇っていた。
広い庭だ。それなのに、人の手がちゃんと入って、美しく整えられている事がわかる。
「凄いですね。素晴らしい」
綺麗な花の咲き誇る庭で、娘二人が楽しそうに笑い合っている。
それを見て、サラームも思わず顔をほころばせた。
「あの椿、見事ですね。何メートルぐらいあるんだろう」
ふと、萌子が紅の美しく映える椿の木を見てそう言った。
「そうね。12……13メートルぐらいかしら」
「大きいですね……樹齢、何年ぐらいですか?」
「さあ。詳しい事はわからないけれど、26、7……そうね。25年以上は、みんなで世話をしてきたはずね」
「25年以上?」
萌子は慌てて澄香を振り返った。気がつかなかった。もしかしたら。
澄香は、萌子の方を見て、その黒い瞳に哀しそうな光を見せた。
(知ってるの?)
萌子は、澄香が自分にそう尋ねたような気がして怯んだ。
萌子が緊張のあまり黙っている間に、澄香が言った。
「誰にも言わないでね。この庭は、叔母が造ったものなの」
「そ……れは」
萌子は父から触れるなとは聞いているが、澄香の方から話すパターンについては考えてなかったので戸惑った。
「噂されることが多いから。だから先に言うのだけど。私の父には妹がいたの。……誘拐されて25年になる人なんだけど。その人が、最初に設計して、作ったのがこの庭なのよ。それを、みんなが守ってきたの。いつか、その人……小夜香が帰ってきた時に、安心出来ますようにって」
「……」
「叔母が好きな花ばかりを取りそろえたら、こうなったんですって。叔母が誘拐されて20年以上。もし帰ってきたとしても、叔母はとても不安でしょう。だから、当時の叔母が愛した花や好きだったものは、できるだけ残しておこうって。父上が。当時のまま植物も何もかも変えないで残してるのよ。……叔母は凄く、愛された人だったんだわ。父上に」
「そうなんですね……」
萌子はそれ以上、声が出なかった。
サラームは、小夜香に酷似した澄香の美貌を見つめながら、目頭が熱くなるのをこらえきれなかった。
鈴木の目がなければ、泣いていたかもしれない。
(母さんは……愛された姫だった)
サラームはそれを、父のシークが知っていたかどうか、知りたかった。まさか知らないということはないだろう。だが、父は、母がどれだけ家族や仲間に愛されていたか知っていたのだろうか。
(そうだったんだ……母さんは、愛された人だったんだ……)
あの穏やかさや優しさ。辛抱強さ。そうしたものは、庭の花を日々、世話しながら培ったモノなのかもしれない。植物はなかなか思い通りに育つものではない。そんなときに、周りの話を聞いたり、力を合わせたりして、母は庭を育ててきたことだろう。
その母がいなくなり、残された人々は、25年の間に代替わりをしながらも、ずっとずっと、庭の面倒を見続けてきたのだ。
椿も。
コスモスも。
皇帝ダリアも。
ローズマリーも。
何もかも、何もかも。
母、小夜香の愛した花を、そのままそっくり残して。愛して、愛して。育ててきたのだろう。
そのことを、息子のサラームが、今、知った。
サラームは、澄香が優しく微笑みながら、萌子と何か、やくたいもない俳優の話などをしながら、寄り添って立っている光景を、一生忘れられないだろうと思った。
(ありがとう……)
サラームは母のかわりに、そう言いたかったが、言えなかった。
何もかもぶちまければ、小夜香の無事を信じて、今まで庭を守ってきた澄香達が、あんまりにもかわいそうに思えた。
小夜香が亡くなったのが12年も前なのに。
イジメ殺された同然の死に方など、澄香や晴季に話せる訳がない。
不意に嗚咽が漏れそうになり、サラームは、着物の袖で顔を隠した。
「? どうしました?」
一緒に並んで立って、警備をしていた鈴木が、サラームの事を挙動不審に思ったらしい。サラームは返事の声も立てられず、ただ首を左右に振った。
中庭をしばらく行き来しながら、推しの話などを、萌子達は小一時間は堪能した。すっかりリフレッシュして元気になった顔つきである。
一方、サラームは、心理的な衝撃が凄く、ずっと黙ったままなので、鈴木に不審がられている。
「大学の話も出来たしよかったです~」
女中達が、そろそろ食事にしませんかと声をかけてきたので、萌子達は廊下に上がったのだった。
「それより、次の、”天守物語”、一緒に見に行かない?」
不意に、澄香がそう言い出した。
「”天守物語”って、……泉鏡花の?」
「歌舞伎座で、来週からやるのよ。どう? 一緒に行かない? チケットなら、今からでも手配出来るわ」
「いいんですか!」
今にも本当に、キャー! と言い出しそうな空気で萌子がまた手を打ち合わせた。
「”天守物語”だったら、歌舞伎も文学も一緒に勉強出来るでしょ。受験勉強ってお堅い事ばっかりだけど、そういうところでも勉強出来るんだって、お父様に言ってるといいわ。私も、同じ手口で、通っていたから」
「通っていたって、津軽で?」
澄香は少し悪い顔になって頷いた。
「そうだったんですか……でもそれで受験合格しているんですよね」
「そうよ。私に出来た事なんだから、萌子さんにだって出来るわ。それより、次の
「行きます、もちろん!」
萌子は二つ返事で頷き、澄香は実に嬉しそうに笑っている。
その日はたっぷりと心ゆくまで推し活してやるという心意気の伝わる笑い方だ。
(いいんだろうか……)
サラームが思わず鈴木の方を見ると、鈴木は肩を竦めている。
(姫のこういうところは手が着けられない)
というように、今度は彼が頭を左右に振っていた。
話を決めてしまうと、澄香と萌子は早速、父親達のいる客間に、また、パタパタと軽やかな足音を立てながら歩いて行った。
サラームと鈴木は癖で、足音を忍ばせながら移動。
「おお、来たか」
客間で、将棋をしていた晴季と兼久はほぼ同時に、将棋盤から顔をあげて娘達を見た。
「それでは、大浦殿。私たちは、これで」
兼久はタイミングをはかって、椅子から立ち上がろうとした。
それを、晴季がとどめた。
「まあ、待て。杉原に行って、今日は弁当を取らせている。食べていけ」
晴季がそう言ったので、兼久は恐縮して身を引いた。
「そういうわけにはいきません。大学の事で突然訪問しただけでも……」
「そういうのはいいから。それに、もう、杉原に弁当を取るように言ってしまった。お前達が帰ってしまったら、誰がその弁当を食べるんだ」
そこまで言われてしまったらどうしようもなかった。
「お気になさらないでください。父上は、自分の気に入った人には本当に気前がいいんですよ」
澄香は萌子とすっかり仲良くなったので、その調子でそんなことを言ってしまっている。
「澄香。俺は誰にでも気前がいいぞ」
「あら、私、嘘はついていませんよ」
晴季と澄香は親子でやり合って、すぐに顔を見合わせて笑い出した。
「そ、そういうことなら……」
確かに、そこまでしてもらっているのに、勝手に帰っては、余計に気を遣わせる事になるかもしれない。
そう思った兼久は、萌子やサラームと、昼食を大浦邸で取っていくことにした。
弁当は近所の老舗から取り寄せたものだった。
鶏の塩麹焼き弁当。
全員で食べる事になった。
というのも、杉原が手配した弁当を持ってきた時に、サラームと鈴木は弁当を受け取った後、挨拶をして退室しようとしたのだった。鈴木は、奴隷と言う訳ではないようだが、やはり身分が違うと思っているらしい。
すると、晴季が言った。
「おい。お前らが別の部屋に行ったら、誰が俺たちを守るんだ?」
杉原だけが噴き出しそうになった。というか、噴いていた。
晴季は、杉原にもう二つ、椅子とテーブルを用意するように言いつけた。
「お前らもこっちで食っていけ」
ぞんざいな口調でそう言って、本人はまるで気にしていない様子である。兼久は兼久で戸惑っていたが、大名の晴季がそういう態度に出ているのだから、協調性を発揮するより他はない。
(…………)
サラームは、晴季が、澄香と何やら話し込みながら、弁当の紙紐をほどくのを、黙って見守った。
サラームが見た感じでは、晴季は、相当体を鍛えているだろう。はっきり言って、鈴木の護衛はいらないかもしれない……そう思わせるレベルだった。さすがに、大名家である。
その晴季が、鈴木やサラームに気を回すのは、やはり、自分一人では澄香や萌子まで、完璧に守り切れるかどうかわからないということもあるかもしれないが。
(それがたとえ嘘でも、自分を護衛している人間と、一緒の飯を食べてみたいからだろうな)
サラームはそういう考え方に触れたことがあったので、それほど違和感を持たなかった。
その考え方は、父、そしてその上の祖父にも共通するものがある。
祖父は敵に対しては冷酷だったが、味方や身内に対しては、甘いと注意されるぐらい慈悲深い男だった。だから、父は小夜香と結ばれる事が出来たのだと思う。
小夜香の悲運を、不意打ちのように知ってしまった後だったので、サラームはなんとも言えない気持ちで弁当を食べた。
弁当は、うまかった。
少なくとも、誰とでも分け隔てなく、一緒の場所で同じ弁当を食おうという、男が一人いるだけで。
とてもうまいと、思った。
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