第9話 好きは隠せない

 約束の知真おきまの日。

 大浦の上屋敷に、サラームは正面玄関から、兼久、萌子の護衛の供回りとして入っていく事が出来た。


 その前日の勇進よすすみの晩。

 萌子とサラームは、兼久の書斎で色々と注意を受けていた。

「明日、大浦家で”触れてはいけない事”を伝える。心して聞くように」


「触れてはいけないこと……?」

 萌子は目をぱちくりさせて、一回、サラームと顔を見合わせ、兼久の方に向き直った。

 兼久の書斎には、彼の好きな東ウラシアの音楽が流れていた。それだけではなく、書斎には、昔めいた東ウラシア風……加羅から物と呼ばれる調度品が床の間に品良く並べられていた。壁の片側は、百年でも持ちそうな重厚な本棚になっており、辞書や辞典も多いが、何よりも、彼の関わってきた犯罪の資料なども多いらしい。萌子は子どもの頃から、そこも触ってはいけないと言われていた。


 兼久は、くつろいだ長着姿で揺り椅子に座っていたが、萌子とサラームは、その手前の長椅子に並んで腰掛けている。


「これから話す事は、俺がいいと言うまで、口外にしてはならない。その方が、萌子達の身のためだ」

「はい」

 萌子は従順に返事をし、サラームもそれに習った。


「あれは、25年前の事だが……萌子、それどころか、亜沙子も生まれていない頃の事だ。俺も、中町奉行で捜査班に入隊して二年か三年……まだまだひよっこの頃だ。その頃に、俺と大浦藩の前の藩主と俺は知り合いになり、その後、交流が続いている。何故かというとな……」

 兼久は後悔のため息をついた。


「大浦藩の先代藩主、晴信殿の娘、小夜香姫が、25年前に誘拐された。……その後、行方はわからない。現在も、捜査班は粘り強く姫の行方を捜しているが、手がかりすらもつかめないでいるんだ」

「…………」

 萌子は驚いて目を見開いている。

 サラームは、予測の範囲内のことなので、無表情だった。だが、腹の中が、ずっしりと重くなるのを感じた。

 母は、やはり、奴隷などではなかったのだ。


「晴信殿も、必死だったのだが、やがて失意の末に、息子に代替わりした。それが現在の晴季殿、小夜香姫の兄君に当たられる。小夜香姫の事は、心配しているのはもちろんなのだが、今回、上屋敷を訪問するに当たって、小夜香姫の事は伏せて起きなさい。向こうから何か聞かれたとしても、俺が返事をするから余計な事は言うな。小夜香姫の無事を心待ちにしているのはよくわかるんだ」

 兼久は、また、後悔のため息をついた。


「25年前の捜査網は大変なものだった。ひよっこの俺も、かり出されて、連日連夜、灯京中を走り回ったもんだ。だが、それも、二年経ち三年経ち……十年経ち二十年経てば……傷跡は薄れるし、人の記憶もあやふやになっていく……。どうしても、捜査班の規模は小さくなり、俺も十八年前に、小夜香姫捜索の任務から解かれたんだ。そのことを、不満を言われた事はないが、娘を、妹を思う気持ちは変わらないだろう。今回の萌子の話を快く受け入れてくれたのも、小夜香姫捜索の任務にもう一度気合いを入れてくれまいかという想いがまるでないわけがない」

「…………」

 大浦(津軽)晴信からしてみれば小夜香は娘。

 大浦晴季からしてみれば澄香も娘。

 そして、福田兼久にしてみれば萌子は娘である。

 そういう、想いに引っかけて、捜索任務の拡大を……と言うのは、わからない話ではない。何しろ、福田兼久は中町奉行である。


「言い方は汚いが、腹の探り合いや言質の取り合いになるかもしれん。だから、小夜香姫の話はこちらからは出すな。聞かれても、俺が返事をするまで答えるな。わかったな」

 兼久は、辛そうな面持ちだった。

 その父の心境を、まだ女子高生の萌子がはかりしれる訳ではない。

 だが、彼女は彼女で、繋がったものを感じ、隣のサラームをそっと見つめた。


 サラームは、萌子の視線に気づいて、一瞬だけ目を合わせ、その後、視線を下げてしまった。

 既に、大浦家に何度も不法侵入し、調べていた事の裏付けがとれた。

(母さん……)

 大名の姫として生まれ育ちながら、若い時代に、何があったのか、奴隷としてアサド王国にたどり着き、夫と子どもには恵まれたものの、信じられないような辛酸を舐めて亡くなった母。

 そのことを、今、言うべきだろうか。

 だが、言ってしまえば……。


(俺が、シークの息子であることがばれる……回り回って、父さんの商売に傷がつくかもしれない……家名の名折れとなってしまったら、母さんの事も含めて、無限ループだ。人の口に戸は立てられぬは、母さんの口癖だった。よく考えて、慎重に振る舞わなければ)

 サラームは萌子の方を見た。

 萌子は、いい子だ。


 萌子に傷をつけたくない。これ以上迷惑をかけたくない。


(……)

 萌子はサラームの視線を感じて、かすかにたじろいだが、すぐに気丈な彼女に戻った。


「私だったら大丈夫よ。余計な事は言わないわよ」

「ああ、わかってる」


「それじゃあ、お前達。頼むぞ。澄香姫に受験のコツを教わるのは、いいことだ。萌子の勉強の成績はいいようだが、澄香姫からのお話をよく聞いて、これからの励みにして欲しい。お前が、俺の母校の後輩になってくれるのは、正直言って嬉しい」

 兼久は緊張を解いてそう言った。

 萌子は安心して深く呼吸を取った。


「はい。わかりました。お父さん」


「サラーム。当日は、護衛を頼むぞ。お前は優秀だと、幸世からも萌子からも聞いている。明日の大浦家で何かあるとは限らないが、十分注意を払ってくれ」

 兼久はサラームの方を振り向いてそう言った。

「はい。わかりました」

 サラームもそう言って、主人の親に頭を下げた。彼の実質的な主人は、兼久になる。いくら萌子の護衛と言っても、給金を払っているのは、兼久だからだ。


 それが、11/19の前日のことであった。




 当日。

 サラームの運転で、萌子と兼久は、時間通りに上屋敷町の大浦邸に訪れた。

 10:30ちょうどである。


 すぐに、大浦の長屋門から案内の人間が出てきて、兼久達に挨拶をした。兼久は鷹揚に返事をして、萌子を連れ、サラームに守られながら、案内の人間についていった。


「旦那様は昨夜のうちに、特急で到着しております」

「息災でいらっしゃるか」

「はい、それはもう。澄香お嬢様へのお土産と土産話をたっぷり携えて……本当に、旦那様はいつも賑やかで忙しいのですよ」

 案内の女中は笑いながらそう言った。晴季が上屋敷の人間も好かれている事がよくわかる。


「そうか。澄香様は、お元気でらっしゃるか」

「はい。旦那様の状況を心待ちにしているうちに、どんどんお顔の色が晴れ渡っていって……」


(本当、親子仲がいいのね)

 萌子はそういう感想を漏らした。 

自分も兼久と仲が悪いわけではないのだが。

 兼久は案内の女中と天気の話題や大浦家の故郷の津軽の話題をしながら先を歩いて行き、萌子はサラームを連れてついていった。


 やがて、二人は、広い清潔な客間に通され、革張りのゆったりした椅子にそれぞれ座るように促された。

 それから五分と経たずに、大浦晴季が、娘の澄香を伴って現れた。


 大浦晴季は、四十代だろうか。白髪の目立ち始めた兼久とは違い、真っ黒な髪と黒い瞳、血色とはりのいい顔立ちをしていた。背は中肉中背。娘の澄香よりも背が高い。

 黒と紺を基調とした伝統的な長着に、はっとするような鮮やかな紅葉を染め抜いた羽織を着ている。


 澄香の方は、今日は女子高生の萌子と会うと聞いていただろうか。伝統的な着物ではなく、流行の二部式で、細いくるぶしが見えるタイプのものを着ていた。着物スカートの部分は深緑で、上衣にはこの秋流行の紅とピンクの秋桜を花吹雪のようにちりばめた柄ものを着ていて、今風でもあったが上品な美しさを見せていた。


 萌子はめかし込んできてよかったと思った。出がけに、妹の真紀子にも見てもらったのだが、いつもいつも撫子ではつまらないので、襲の色目の「移菊」を参考にして、下の袴は紫色だが、上衣は黄色の濃淡で菊を染め抜いたものだった。澄香姫が、今時の流行を気にしたのに対して、萌子は伝統色を気にしたのだから、逆に釣り合いがとれているかもしれない。


 兼久の方は、どこでも通用する、代わり映えのしない九曜紋の紋付き袴。

 かわっているのはサラームで、相変わらずクーフィーヤを頭に巻いたままだったが、兼久に言われて九曜紋の羽織袴になっていた。


 それと、澄香の護衛らしい鈴木すずきと呼ばれる男が同席し、萌子は澄香に紹介してもらうこととなった。


「福田殿、久しぶりだな。長い間、挨拶もそこそこにしてすまん」

 晴季は闊達な笑顔でそう言った。

「いえ、こちらこそ……ご無沙汰しております。突然の訪問にこたえていただきかたじけない」

「いや。大事な娘の大学受験となれば、どこの親も血眼で駆け回るところだ。確か、ご息女は高校二年だったか? 今が一番大事な時期だな」

「は、……そこはなんといいますか」


 などなど。

 最初は、大浦藩主の晴季と、中町奉行の兼久のそういう季節の挨拶と社交辞令のターンが何回か繰り返された。

 その間に、女中が茶と茶菓子を持ってきてすすめたり、幕府の政策についての世間話がかわされたり、それだけで、あっという間に時間が経ってしまう。


 もちろん、そんな世間話が目的ではないから、適当なところで切らなければならない。


「……というわけだ。そういえば、澄香、お前今度の単位で政治学を取っていたと言ったがどんな調子だ? 今の幕府の経済対策について……」

 父親が人前でそんな話を娘に振るというのも珍しいが、澄香の方は大して気にもとめていなかった。


「政治学のレポートで、前回やったところです。父上。このところ、豊葦原の物価は高値で止まっています。そのために有効な政策を、現在の将軍は打ち出そうと懸命ですが前の前の政権から足を引っ張られている格好ですね」

 などと三行でまとめた後に、澄香は、萌子の方ににっこりと上品な笑みを向けた。


「萌子さんは、大学に来たら、どんな学問をおさめるつもりでいるの?」

「はい。私は、文学部で、編集者になるために必要な知識と技術を学びたいんです」


 父親同士の腹の探り合いに飽きていた萌子は、澄香のフリに素早く乗って、さっさとそう答えた。

「編集者。それはいいわね。どういう編集者を目指しているの?」

「女性が元気になれる雑誌か、本」

 そこも、萌子は滑らかに答える事が出来た。

「女性が元気になれる?」

「はい。世の中には男性向け女性向け、色々あるけれど、私はやっぱり女性だから、どんな年代でも女性が自分らしく元気でいられる雑誌か本を作りたいんです」


「……」

 澄香は感心したというように目を見開いて萌子を見た。


 兼久もそこまでは聞いていなかったので、びっくりしているし、サラームは知らなかった萌子の一面にぽかんとしている。


「萌子……女の子向けって、灯京大学行って、お前女の子向けの雑誌なんか作るつもりなのか?」

 どうやら、兼久は、娘が編集者になると言うのを、一流文芸誌か総合雑誌か、もしくは純文芸の編集者だと頭から決めつけていたらしい。

「いい夢じゃないか」

 晴季の方が兼久にそう窘めるが、それを聞いて、兼久は晴季と萌子を見比べ、その後、澄香のおっとり微笑んでいる顔を見て、頭に手を当てて考え込んでしまった。


「一言に女性向けといっても、色々な年代の女性がいるし、萌子さんもそう言ってるわ。男性もそうでしょうけど、女性も年齢によって求められるものが違うから、違う入れ物にはなるわよね。それでも、一貫して、女性は女性ですよ」

 澄香はゆったりとした口調でそう言った。

「女性ということを、深く感じる事が出来る本は、世の中にたくさんあります。萌子さんもそういう本を出してみたいのね?」

「はい!」

 思わず勢い込んで、萌子は澄香にそう答えた。


「雑誌となると、また求められるものが違うけど、本だと何が好き?」

 澄香が尋ねると、萌子は源氏物語と更級日記、それに吉屋信子をあげた。後は、豊葦原の現代小説を何冊か。


「そうなのね。なんだかわかるわ。それじゃ、泉鏡花はどう?」

「あ、好きです」

「私は歌舞伎で見たんだけど」

「好きです!」

 萌子は思わず手を叩いて喜んだ。


 澄香の優しそうな瞳に、強い輝きが宿る。それは、まごうことなく、推し活をする同志を見つけた時の女性の共通の光そのものであった。


「歌舞伎も好きなの? どういうのを見た事ありますか?」

「えっと……そんなには知らないんです。でも、鏡花以外なら、日本橋とか鷺娘とか、あ、次に来そうなのだったら阿弖流為とかが好きです!」


「鷺娘が好きなの? 私もそうよ」

 澄香が萌子の方に身を乗り出してくる。二人はそのまま、好きな歌舞伎や映画の事で、話し込み始めた。


「……澄香は、歌舞伎が好きでな。俺が、灯京大学を目指せと言った時も、最初乗り気じゃなかったんだが……帝都に行けば、好きな歌舞伎をいくらでも見られると言ったら、途端に火がついたように勉強を始めたんだ……」

 ため息交じりに、晴季がそう言った。出された茶を一口すする。

「あ、わかります」

 兼久は簡潔にそう答えた。そして兼久も茶をすする。

 娘二人はきゃあきゃあと、父親の前だというのにはしたなく、それでも華やかな笑い声を立てて話し続けている。


 サラームは呆気に取られて、伝統衣装に身を包んですましこんでいた萌子と、姫扱いされる才媛の澄香の、すっかり血色のよくなった顔を見比べるのであった。

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