朝 3
呻きが漏れる。眠りから抜け出そうとする身体に、苦痛を恐れる精神が最後の抵抗を試みている証だ。
苦痛、生命が自分を守るために感じる最後の警告。肉体の感じるものもあれば精神の感じるものあるし、忘れてしまえるものもあればいつまでも残り続けるものもある。ダーウィンの進化論を信じるのならば、苦痛を遠ざけるために正しい道を進んだ生き物が、言い換えるならば正しい苦しみと向き合った生き物が今も生き残っている。
正しい苦しみとはなんだろう。体が痛い、飢えが襲う、動きが制限される。身体の感じる苦痛には、個体それぞれが生き残る上で避けるべきという意味では、向き合って排除するべき正しい苦しみが多いかもしれない。
では精神の苦しみはどうだろう。怒り、哀しみ、憎しみ。どれも遠ざけたいと思わせる感情だ。事実、歴史を見ても人はこれらを遠ざけるために技術を発展させ、社会を形成し、宗教を創造した。けれど、それらが本当に苦しみを遠ざけただろうか。人が遠ざけようとする苦しみは、人類が遠ざけるべき苦しみだろうか。私達は、本当に正しい道を歩いているのだろうか。
少なくとも、今の私に言えることは一つ。この目を覚ますという苦痛、抗いがたい苦痛から逃げることは正しくないということだ。なぜってそりゃあ今日も学校は平常通り、登校しないといけないのだもの。
ぐっすり寝たとはいえ二度寝は二度寝。目覚まし時計が鳴る三十分は前に目を覚ます。身体を起こして背をそらして伸びをすれば、目覚める前の呻きとは違った、筋肉のコリがもたらす呻き。
「グゥ」
と言ったのは私の口ではなく私のお腹。昨日の夕食が早かったので、お腹がぺこちゃんだ。今すぐリビングまで駆け下りて行きたいけれど、その前に今日の学校の支度をしないといけない。早々に寝てしまうと次の日の朝が大変。
今日提出の宿題は全部終わらせてあるはず。念の為にタブレットを確認して、全てのデータが揃っていることを確かめる。着替えは箪笥から適当に見繕うとして、他の物理的な準備が必要なものはあったかしら。大抵の教科はタブレットの中のデータで完結するのだけれど、体育なり家政なりは未だに準備が必要だ。確かにモノがないと何をしようもない教科なので当然といえば当然だけれど、持ち運ぶ身としては荷物が増えてげんなりする。
幸いなことに今日はその手の教科は無かったので、これで学校の支度はおしまい。時間で言えば5分もかかっていないのだけれど、ひと手間あるということ自体が十分大変なのだ。
大変なひと仕事を終えて階下に降りると、お父さんが台所に立っていた。そういえば今日はお父さんが調理当番だったわね。
最初の頃は炭と生焼けの何かが出てきてネチネチと嫌味を言いながらまるハンを食べたものだけれど、半年も続けていればお腹を下さない程度の調理はできるようになる。まあ調理と言っても、「肉、焼きました」とか「野菜、炒めました」みたいな料理だけどね。私が法律で定められた揚げ物をして良い年齢に達していないので、自家製の揚げ物は久しく口にしていない。お父さんにはそのあたり頑張ってもらいたいところだけれど、その手の中であばた顔になったゆで卵を見るに先は長そう。私が高校生になって法律から揚げ物を許可されるのと、どちらが早いことやら。
「お父さんおはよう」
「おはよう、萌音。目が赤いぞ」
ゆで卵と格闘していたお父さんに挨拶をすると、顔を上げたお父さんがそんな事を言った。思わず目に手をやるが、そんなことをしても色までわかるはずもない。
「本当?」
そんな馬鹿なと思いつつ洗面所へ急ぐ。備え付けの鏡を見てみれば、確かにまぶたが腫れぼったく泣きはらしたようになっていた。ように、というより泣いていたのかしら。よくは覚えていないけれど、ひどく懐かしい夢を見たような気がする。けれど今重要なのは腫れぼったさを隠す方法、とりあえずシャワーを浴びて、目を重点的に温めておこう。洗面所の扉を閉めながら、そう決意した。
幸いなことに汗といっしょに涙の跡も洗い流せたようで、浴場から出たあとに鏡を見ればいつもと変わらない自分の顔が覗き返す。拭いてもなお濡れた髪はハイクラスのドライヤーがあれば十秒とかからず乾くのだろうけど、我が家にそんなものはないのでさっと熱風を当ててからタオルを巻いておく。技術がいくら進歩しても、物理法則に抗うにはなかなかのコストが必要だ。
ターバン初心者丸出しの格好でリビングに戻ると、食卓の上には不格好なゆで卵と冷蔵庫から出したばかりで露の降りた合成ハム、そして食パンがそのままデンと一斤。もはや見慣れた朝食だ。
「お父さん、そろそろ食パンも切るなりしてバゲッドにいれるとかしなよ。一人暮らしの大学生じゃないんだからさ」
「ちぎって食べれば良いじゃないか。そのすれば、好きな量食べられるだろう」
「言っときますけどね、普通の父子家庭は一食で一斤平らげないんですからね」
お陰で我が家のエンゲル係数、食事にかかる費用は『高水準』だ。とはいえ、こんなことはパンが出てくる日にはいつも言い合っているので半ば諦めている。「もう」と言いながら席について手を合わせ、食事を始めると昨日とは違ったコーヒーの香り。昨日よりスッキリとしたこの匂いは以前嗅いだことがある。
「今日はキリマンジャロ?」
「そうだ。昨日のグアテマラR3が美味しかったから、酸味の強いものが飲みたくなってね。良くわかったな」
「香りが特徴的なんだもの。私もこの香りは好き」
「キリマンジャロもG系までは匂いが再現できていなかったけれど、会社の頭が変わってから出たE系はかなりこだわって作っているからね。良い時代になったものだよ」
ご満悦のお父さん。コーヒーを口に含む間にも、一斤のパンがすごい速度で消えていく。私の分まで食べられないように自分の分を皿に確保して、ふと話のネタを思いついた。
「そういえば、昨日転校生が来たのよ」
「転校、この時期に。ずいぶんと珍しいね」
「なんか事情があるみたいよ」
人には言えないけれど。
「その子、矢橋くんって言うんだけど、その子の面倒を見ないといけなくなっちゃったのよ」
正直面倒よね、と続ける私の前で、お父さんの動きが鈍る。どうしたのだろう、と思ったがすぐに元の速度に戻ったので気のせいだろうか。けれど、自分の分を食べ終わったお父さんは私に質問してきた。
「その子、矢橋くんと言うのかい」
「ええ、何でも近所のあのアーコロジティから引っ越してきたみたいよ」
それを聞くと、お父さんは「そうか」と言って天を仰ぐ。珍しい苗字だし、親御さんと知り合いとか?
「これも縁なのか、それとも」
独り言を呟くお父さん。昨日散々な目に合わされた『縁』に思わず眉をひそめるが、お父さんは気が付かない。そして曖昧に笑って、コーヒーを一気に飲み干した。
「知ってる名字なの?」
「ん、ああ。ちょっとした知り合いでね」
そうか、と呟くお父さん。あまり嬉しそうな表情じゃないけれど、悪意は感じない。どんな知り合いなのかは気になるけれど、この歯切れの悪さは聞いてもはぐらかされるだけだろう。気になりはしたが、朝から湿っぽいことになるのも嫌だったので、この話は打ち切り。残りの時間は手早く自分の分の朝食を片付けて時間までニュースを見て過ごしたけれど、なんとなく繊細な空気が漂ってしまった。
それにしても、その御縁って何なのかしら。
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