朝 1
微睡みの中聞こえる鳥のさえずり。ハルルルと機嫌よく歌い上げる声は、おそらくツグミ。
ツグミ。スズメ目ツグミ科ツグミ属、越冬のために日本へと飛来する渡り鳥。
渡り鳥。環境とライフサイクルの兼ね合いで定期的に生活の場を遠くへと移動する鳥。冬鳥の場合は秋に日本へと飛来し、春により北の地域へと去っていく。よって、ツグミの歌声とも間もなくお別れ。……お別れ?
なんでツグミの声とお別れなのかと言えば、春になって北へと帰っていくからだ。春、具体的には三月半ばにツグミは渡りで姿を消す。今は三月になったばかりだから、ツグミの声が聞こえるのもあと何週間とない。冬鳥がいなくなると庭の木は少し寂しくなるけれど、やがて若葉が青々と茂る夏になる。寂しいといえば先輩たちが卒業してしまって少し寂しいけれど、春休みのあとには新入生がやってくるのだから、差し引きはゼロ。春休みは三月の、終わりの週から?
ぼんやりとそんな事を考えていたのが、今日の日付を思い出して冷水を浴びせられた気分になった。あわてて枕元の電子時計を祈りながら手に取る。どうか今日は三月の三十日ぐらいでありますように、と。けれど時計の液晶は残酷にも、三月六日の午前八時前を知らせていた。
「ゔぇあ」
思わずうめきが漏れる。私の通う小学校までは早足で二十分、朝の出席確認が八時十五分だから、朝ご飯を抜いて早歩きしても間に合わない。
「ちょっとお父さん、もう八時じゃない」
パジャマを脱ぎ捨て、昨日のうちに用意しておいた着替えとランドセルをひっつかんで階段を駆け下りながら、お父さんに文句をいう。シャツの袖に腕を通すのに少しだけつっかえたけど、強引に通した。その勢いで階段の手すりに肘を勢いよくぶつけ、大きな音が響く。これじゃまるで私が八つ当たりしたみたいじゃない!
「萌音、モノに当たるのは良くない」
リビングの食卓に座って新聞を読んでいたお父さんがそんな事を言いながらこちらを向くけど、慌てて顔を背ける。
「こら、お前、なんて格好をしてるんだ」
「しょうがないでしょ、寝坊しちゃったんだから。一時間早く起こしてくれれば脱ぎかけで降りることもなかったの!」
「だからって年頃の娘が。せめて服ぐらいは部屋で着てきなさい」
スカートを腰で留めて靴下をケンケン立ちしながら履いていると、お父さんがお説教の声色になる。もう、急いでるのに。
「お説教は帰ってからね。そもそもなんで起こしてくれなかったの」
するとお父さんは口ごもったが、ポツリと言った。
「年頃の娘にあんまり干渉するのもどうかと」
「乙女か!」
脱いだものを洗濯槽に入れる手を思わず止めてツッコむ。良い歳した大人が何言ってるんだか。まあ私にもそのうち反抗期がくればまた別の話なのかもしれないけれど、今のところそんな兆候はないし、そもそもそんなこと言ってる場合じゃない。
「もう、いい加減で慣れてよね」
しかしだなあ、と歯切れの悪いお父さんにため息を付きつつ、食品棚から小さな包みを取り出して玄関へ向かう。
「萌音、朝ご飯はどうするんだい」
「時間ないでしょ。まるハン食べながら行くから」
後ろから聞こえてくる呑気な声に返して下駄箱へ。と、向かう前に思い出して仏間へと入った。
「お母さん、行ってきます」
位牌の上、ホログラムで微笑むお母さんに手を合わせて挨拶してから、お父さんの「いってらっしゃい」の声を背に今度こそ家を出る。
外へと出ると春先のまだ冷たい風が背筋をなでて、思わず身ぶるいした。走り出す前に、後ろをチラッとふりかえり及川(おいかわ)と書かれた表札を見る。及川萌音、三年前まではお母さんと同じ苗字の勅使川(てしがわ)萌音だった私の名前。そして一年ぐらい前から、同じ苗字の家族がひとり減った名前。
どうして一年「ぐらい」なのかと言えば、私はその時のことをよく覚えていないからだ。私が覚えているのは、唸り声を上げながら雪崩かかってくる山のような土。そして、私を抱きしめるお母さんの肩越しにそれを見た光景。その次の記憶は、丸々としていた頬がすっかりこけて骸骨のようになったお父さんが枕元にうつむいている光景、それと規則的な電子音。その間に何があったのかは、理解はしていても記憶がない、あるいは実感がない。
私はその記憶を知りたいのだろうか、それとも?
考え込みそうになった私を、ツグミの声が正気に戻す。くそう、朝からセンチメンタルな妄想をしたせいだ。そうに違いない。気持ちを切り替えて学校へと走り出す私の横を宅配ロボがバイクで追い抜いていく。そのキンキラ頭に太陽の光が鈍く反射して、思わず目を細めた。
わざとらしいベーコン味の多用途機能性携行糧飯(まるハン)を口に放り込んで走り出す。二十二世紀まで残り四十二年、ガラス越しの空は今日も青い。
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