朝 2

 電子音。1800から2200 Hzの音が100から140の間のBPMで不規則に聞こえるように鳴る。


 Hz、音が一秒間に何回だけ空気を揺らすか。BPM、音楽が一秒間に何拍だけテンポを刻むか。どちらも規則的な繰り返しを表すもの。けれどそれが複雑に絡まり合うと、まるで不規則なように聞こえてしまう。つまり感じるものと正体が別ということ。


 まあそんなことは珍しくもない。動いていたと思っていた空が実は動いていなかったり、取り出したと思っていた熱が実は運ばれていたけだったり、有ると思っていたものがそこに有るとは限らなかったり。


 だから、もしかしたらこの電子音もそんなものの一つかもしれない。そうだ、曲という芸術に聞こえているだけで、実は音波の重ね合わせでしかない。ひるがえって、この電子音、つまり目覚ましが私に目覚めよと呼びかけているのも、実はそう感じているだけなのかもしれないのだ。ほら、毛布を頭から被り直せば、同じように目覚めを促す太陽の光で照らされた瞼の裏も、暗闇に逆戻り。これで安心して眠りに落ちることができる。


「そんなわけ、ないわよねえ」


 観念して上体を起こす。枕元の電子時計を手に取れば、時刻は六時半を回ったところ。昨日の轍を踏まないよう寝る前に三回チェックした甲斐あって、目覚ましは正常に機能したらしい。心情的には鳴らなくても良かったところだけれど、理性的には鳴って一安心。


 自分に活を入れるために伸びをすれば、フルヒと身震い。もしくは春の朝方の寒さが原因だろう。もう一度、今度は軽く伸びをして手早く着替える。脱いだ寝間着をひとまとめにして、今日の学校のための荷物を再確認すれば起きがけの習慣は完了だ。


 丸めた寝間着を手に階段を降りていけば、香ばしい匂いがリビングから漂ってくる。朝のお供、コーヒー、のまがい物。けれど味は元のコーヒー豆を忠実に再現しているので、絶滅したジャコウネコがいなくてもコピルアックが格安で飲めると、概ねの愛飲家からは好評だ。ちなみに、嘘か真かゾウはタイやインドのアーコロジティで保護されていると言う噂で、ブラック・アイボリーという銘柄はまだ天然物が金と同じ値段で取引されているとか。


 そんなスカした話はどうでも良いのだけれど、お父さんもコーヒー愛飲家の例に漏れず、朝食が終わるまでにコーヒー三杯は飲む。銘柄にはあまりこだわりがないみたいで、日によって違う香りが充満し、以前は独特のクラリとくる匂いが苦手だった。でも、最近はむしろ好き。苦酸っぱくて飲むことはまだできないけれど、香りだけはご相伴に預かっている。


「おはよう」


 扉を開けると、お父さんが先に挨拶。ホログラム上で流れているニュース番組は、今日の地区別天気予定を垂れ流していた。今は南3号地区の天気予定、私の地区は北4号の南西24番だから、予定の放送はもう少し後だ。


「おはよう。今日の銘柄は何?」


「これは確か、ええと、グアテマラSHB風R3フレーバーみたいだ」


 お父さんが個包装のコーヒービーンズのパッケージを裏返して答える。


「SHBって、この前味が合わないって言ってた奴じゃない。癖になる味だったの?」


 牛脂を溶かして飲んでいるみたいだとか言っていた気がするけど、それが良かったりするのかしら。私だったらちょっと遠慮したいけれど。


「前のは二世代前のR1だったからね。R3はかなりコクが自然でなかなか美味しいよ」


「ふうん。香りはあんまり変わらない気がするけどね」


「飲めるようになったら、飲み比べてみると良い。個人的には、再購入リスト入りだな」


「R3とやらならともかく、不味いと解っているR1なんて飲みませんよおだ」


「それが、まだR1が販売されてるんだ。どうも熱心な愛好家たちがいるみたいでね」


 その言葉に、合成牛脂を口の中で溶かして狂喜乱舞するおじさんたちが、脳裏で輪になって踊りだす。牛脂風味は調理のワンポイントとしては嫌いじゃないけど、あれ単体が好きな人もいるのだろうか。世の中は狭くなってもなお、まだ広いままだ。


 そのあんまりな想像に食欲がクタクタと萎えていくのを感じるが、朝食を取らないと一日が始まらない。とりあえず、ベーコンエッグの予定は合成ベーコン抜きにチェンジだ。


「今日はプレーンの目玉焼きにするけど、何個食べる?」


 今日は私が朝食を作る番なので、洗面所に向かいながら背中越しにお父さんに尋ねる。


「昨日は自分で作りすぎたからなあ。控えめに三個で」


「十分多いわよ、それは」


 呆れて思わず顔を後ろに向けるが、お父さんは肩をすくめるだけ。肥満リスクが昔より減ったとはいえ、リスクはリスクなんですからね。まあ注文されたからには、言われたとおりに作るけれども。


 ため息を吐きつつ、エプロン片手に台所へ立つ。ヒーターにプレートを乗せ、冷蔵庫から卵を四個。豚や牛は育てるのが大変で、それこそレジャー施設にいかないと本物は食べられないけれど、鶏ぐらいなら私達庶民の食卓にも並べられる。肉のタンパク質と、おまけで卵の脂質やビタミンも提供してくれる主婦の味方だ。……まだ主婦じゃないってば。


 栄養だけなら、まるハン、多用途機能性携行糧飯で十分で、それだけで生活している家もあるぐらいだ。けれど、我が家ではなるべく調理した食事を摂るようにしているし、多くの家がそうらしい。私達の場合はどうせ食べるなら楽しいほうが良いという単純な理由だけれど、多分他の家も似たような理由だろう。生きるだけなら何もしないで生きていける時代だからこそ、楽しみは自分で見つけないといけないのだ。例えば、この目玉焼きの半分はサニーサイドアップ、もう半分はターンオーバーに挑戦してみるとか。


 白身の縁がパチパチと弾ける音を聞きながらいたずら心と格闘していると、黄身の縁が薄く色付き始める。お父さんの趣味が移って、私も半熟派だ。両面を焼くのは次の機会として、卵を三個と一個に盛り分ける。付け合せに冷蔵庫から個包装のサラダパックを持ってきて、皿に空ければ主菜の完成だ。


 食卓へと配膳すれば、お父さんが既に六枚切りの食パンをバスケットに開けてくれていた。私は一枚で十分だけど、いつも残りはお父さんが平らげてしまう。前みたいに病的に痩せているのも心配だけど、これでまた太りすぎるのも心配。でも、言って聞くならここで悩む必要もないのよね。言葉ってなんだかんだ不便だわ。


 手を合わせて牛乳を飲みながら、瞬く間に消えていく朝食を眺めつつ、そんなことを思う朝だった。


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