夜 1

 いつもと同じ道を歩き、いつもと同じ景色を眺め、いつもと同じ家に帰る。いつもと違う時間に玄関をくぐっても、お父さんがいないのはいつもと同じ。


 仕事もあるんだし、それは当たり前。ただいまと癖で言っても返事が帰ってこないのも、今では当たり前。


 いつもと同じように汚れ物を洗濯槽に入れて部屋着に着替え、いつもと同じ合成緑茶のボトルを手に二階の自室のベッドに腰掛けて、目を閉じながらいつもと同じように今日の出来事を振り返る。今日のハイライトと言えば、やっぱりぞなもしの用法だ。ぞなもしを全国区に押し上げたのは、やっぱり夏目漱石の「坊っちゃん」だろう。耳慣れない身にしてはひょうきんな印象だが、使い方としては丁寧ぎみな疑問形。決してワルガキ共のように相手を煽るように使うものではないのである。まあ、死語なので、実際の用法上はおどけたようになることには同意するけど。


 ひょうきんと言えば、矢橋なにがしだったかしら、タモツだっけ。あの子も大概ひょうきんというか、妙な子だった。まるで転入生というより新入生のふるまいというか。もしかしたらこれまで家庭学習で済ませてきたのかもしれないけれど、本人の言を信じるなら40人教室にいたことがあるらしいし。とはいえそれが見栄からきた嘘でも、本当のことでも私には関係ないか。仮に私のクラスに転入してきたなら、少しは気にかけて上げても良いかもしれないけど、それぐらい。先のことなんて成るように成るわよね。


 一度深く深呼吸する。と、頬に柔らかいものが当たる感触がした。目を開けてみれば九十度傾いた部屋の景色に、右耳が下になっているという三半規管の訴え。


 これはいつもの事ではないけれど、たまにある。


「どうも退院後の体力が戻りきらないのよねえ」


 誰ともなく呟く。


 一年前、この地域を覆うドーム、人の常時は住めなくなった外の世界と私達の世界を隔てるためのアーコロジティ計画で作られたゆりかご、その外でおきた事故によって、私は半年ほど植物状態だった。


 事故の内容は水源管理システムの老朽化を見過ごしたことで発生した土砂災害。死者13名、重症者2名を出した近年稀に見る大事故。その被害者2名の内の一人が私。一緒にお出かけしていたお母さんは13名の一人。逆だったかもしれなかったのを、お母さんが私をかばって交換してくれたということは、私だけが記憶していることだ。


 諸々のことは飲み込んで、心の整理はつけた。つけたのだけれど。


「肉体の方はそうもいかないってのが悲しいところよ、ねっ、と」


 愚痴を言いながら勢いをつけて起き上がる。心は先に進みたがっているのに、体がいつまでも引きずっているのだから困ったものだ。ため息を一つ吐いて、窓ガラス越しにドームの上の空を見上げる。少し長く寝すぎたようで、空は六角形で分割された星空になっていた。


 昔は死者が空の星になっていたらしいけれど、今の夜空はドームの構造材で区切られた境界のある空。あれじゃあ、昔よりは窮屈だろう。むしろ住まう分には広すぎる地上のドームの中の方が快適なんて、ご先祖様は夢にも思わなかったに違いない。


 硬くなった体をストレッチでほぐしながら、寝る前に考えていたことの続きを考えようとしたけれど、あくび一つと一緒に頭の中から抜け出てしまった。まあ私は自他共に認める懐の深い少女、去ったものは追わないでおいてあげよう。


 伸びをしながら階下に降りると、リビングの照明が扉の隙間からほのかに廊下を照らしている。


「おかえりなさい」


 そこにいるであろうお父さんに挨拶をしながら扉を開けると、案の定リビングのソファーにお父さんが座っていた。ただし、仕事帰りのスーツのまま、靴下だけ脱いだ格好で。見るからに疲れていますという主張を全身で表現しているようだけど、これだけは言っておかないと。


「もう、お父さん。何度言ったら解るの。スーツはしわになっちゃうからすぐに脱いでハンガーに掛けて。ズボンも吊るすんだって言ってるでしょ。ほら、霧吹き持ってきてあげるからさっさと着替えて」


 名前返事をするお父さんの肩を軽くはたいてから、洗面所に霧吹きを取りに行って少し待つ。父親の着替えをジロジロ見る趣味はないもの。待つついでに乾燥まで終わっていた洗濯槽の中身をかごに入れ、洗剤タンクの残量を確認する。まだ四割は残ってるけど、そろそろカートリッジの在庫を確認しておかないと。洗面台の下に備え付けの収納を確認すると、洗剤カートリッジは残量1、洗濯システムの乾燥用ダストフィルターも残り3。お父さんに買いに行かせたいところだけれど、少し前に任せたら廉価品の粗悪な商品を買ってきて服が毛玉だらけになったので、私が行くしかない。


 洗面台脇の共通端末から、やることリストにメモを書いておく。これだけ待てばそろそろ良いかしら。


 洗面所から出ると、ルームウェアに着替えたお父さんがスーツの上下を吊るしているところだった。って、ああもう。


「ほら、ちゃんと小物は出して。形が崩れるでしょ。昔から大雑把なんだから」


「すまんな芽衣」


「構わないって。それより、晩御飯どうする?」


「この時間だしなあ。出前でも取ろうか」


 時計を見れば午後七時を回ったところ。少し寝すぎたようだ。たまには出前も良いか。箪笥の上においてあった共通端末を引っ張り出して出前サイトにアクセス、お父さんと店舗を選ぶ。今日は肉の気分だ。メニューを物色していると、カート内の商品数がみるみる増えていく。あわてて顔を上げれば、自分の端末を真剣な顔で操作するお父さん。


「ちょっと、お父さんったら。頼みすぎよ。弁当三つにお惣菜二つって、私の分を入れたら何人家族なの」


「しかしだな、これぐらいなら腹四分目で」


「四の五の言わない。せっかく痩せたのにまたリバウンドするわよ」


 そんなふうに眉間にシワを寄せても、怖くありませんからね。


「わかった、弁当は一つ減らすよ。まったく、変なところだけ芽衣に似てきた」


「聞こえてるんだからね」


 及川芽衣。私のお母さんの名前。少し怖いところもあったけれど、明るくて優しかった、私のあこがれの人。もう名前を聞いてもセンチメンタルになることはなくなった分、似ていると言われると純粋に嬉しい。って、ん?


「お父さん、さっき私のことお母さんの名前で呼んだでしょ」


「ん、そんな事あったかな」


「確かに言ったわよ。霧吹きをかけながら」


「記憶にないなあ」


「言ったってば。やめてよね、意気地のないったらありゃしない」


「そんなはずはないんだが」


「言ってたの」


 私が家に戻ってから、お父さんはたまに私の名前を間違える。最初はお母さんの面影を引きずっているのかと思ったのだけれど、それにしてはお母さんのことを話題に出しても特に反応もないし、なんだっていうのやら。入院の影響でまだ第二次性徴が来てないから良いようなものの、それまでに直しておいてもらわないと家庭内不和の種になりかねない。


「あのねえ、もうすぐ思春期って娘相手に、デリケートな間違いをしないのね」


「それはまあ、そのとおりです。はい」


 気まずげなお父さん。ところが、ふと何かを思い出したような顔をする。


「思春期といえば、萌音。お前、今朝の格好は何だ」


 しまった、やぶ蛇だったか。


「あのなあ、思春期が近いというなら家族とはいえお父さんの前で」


「わかった、わかったから。その話はあとにして、早く晩御飯を決めちゃおう。遅くなっちゃうし、ね?」


 こうして一度は逃れたものの、結局出前が届くまでの二十分の間お叱りを受けたのであった。

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