学校案内
しかし、案内と言ってもどこを案内したものだろうか。先生にはああ言っておいたが、五年も通っていれば大抵の部屋の位置ぐらいは頭に入る。まあ私の場合は四年半だが、それでもほぼ大抵の構造は普段遣いの理科室や被服室からあまり縁のない運動室や会議室、まず用のない電源室に第六倉庫の場所ぐらいまでは知っている。
選択肢の多すぎることは宜しくないと古の碩学達もおっしゃっていることだが、果たして今はどの選択肢を選ぶべきか。悩みながらも、とりあえずは昇降口へ向かう。その間も特に話すわけでもなく、後ろをキョロキョロとしながらひな鳥のようについてくる男の子。ああもう、空気がモッタリして息が詰まる。
「ねえ、あなたのお名前なんていうんでしたっけ」
「僕ですか、僕は矢橋といいます」
「下は?」
「え?」
ボケっとした子!
「下の名前はなんて言うのよ」
「僕は、僕の名前は」
ためらうような仕草。自分の名前を言うだけなのに、なんなのかしら。よっぽど変な名前とか。次郎太助右近左衛門吾朗みたいな感じで。
「僕は矢橋保(やはしたもつ)です」
そういうわけでもなかった。タモツ、保か有あたりの文字をあてるのだろうか。どちらにしても妙な名前というわけでもなし、ますますためらいの意味が解らなくなる。自分の名前を忘れていたということもないだろうが、名字ぐらいは変わったのかもしれない。私も一度経験があるので、急に新しい名字で呼ばれるととっさに反応できない気持ちはわかる。けれど、戸惑ったのは下の名前。繋げて言うことに慣れていないとか?
「そう、私は及川萌音。よろしくね」
立ち止まって手を差し出す。握手くらいはしておかないとね。けれど、矢橋くんはその手を見て素っ頓狂なことを言い始めた。
「及川さん、えっと、この手は?」
心底不思議そうに、小首をかしげて尋ねる矢橋くん。冗談のつもりかとも思ったけれど、顔色を見るに本気らしい。本っ当に変な子!
「握手よ、握手。知らないなんて言わないでしょうね」
「握手、これがですか」
何故か嬉しそうに言うと、私の手を握る。力強いわねこの子。
「ちょっと、痛いって」
「ああ、ごめんなさい」
素早く手を話すと、自分の手を見つめる矢橋くん。
「何よ、汗ばんでた?」
そんなことはない。はずだけど、一応聞いておく。そもそも女の子と握手した手を見つめるなんて、ちょっと助平な子なのかしら。思わず訝しげに目を細める。
「いいえ。ただ、温かかったなと」
「そりゃまあ、血の通った人間ですからね」
それとも何かしら、私を冷血漢とでも言いたいのかしら、この子は。
まったく、さっきから妙なことばっかり言う。浮世離れしているというか、どうもヒトと違うというか。そういうことをされると、私の中の暴きたがりやが目を覚ましてしまうじゃない。
暴きたがりやの囁きに負けて、歩みを再開しながら探りをいれる。
「ねえ、あなた、なんだってこんな時期に転校してきたのかしら。私と同じっていうと来年で卒業よね」
「はい。父の都合で。来年度からという話もあったんですが、早いほうが良いだろうということになり、急ぎ足で手続きをしました」
「話もあったって、あなた六年生から転入するんじゃないの?」
「いいえ。最速では明日から」
これは驚き。言動が常識外れな子は、こんなところまで常識外れらしい。大発見、と思ったけれど、純子はそうでもなかったわね。あの子もたいがい常識外れなところがあるけれど、多くの場合は優等生だ。
それにしたって、今年度ももう終わりっていうのに転校だなんて。
「それはまた急ね。やっぱり、事情ってやつのせい?」
気がはやりすぎたかしら。いくらなんでも聞くのが早すぎた気がする。
「はい。そうです。事情については話すことができませんが」
ほらやっぱり。残念だけど、暴きたがりやは早くもお休みだ。これも矢橋くんのおかげよ。あんまりにも急ぎで転入するっていうんだから、私の方まで急がされたに違いない。噛み合わないったらありゃしないわ。
そう、といってからまた無言で歩き続ける。沈黙、沈黙、沈黙。一歩ごとに足音もするし、運動クラブの子達の声が外から聞こえてくるのに、呼吸ごとに聞こえてくるのは沈黙だけ。静かなのは嫌いじゃないけどさ、探り合うような沈黙は嫌いだ。
気まずいながらも歩いていけば、当然目的地につくわけで。職員室のある二階から降りてすぐ、下駄箱の並んだ昇降口が今は眼の前。上履きなんて言っても、出入り口の指向性プラズマデフューザーで靴の泥ぐらいなら落とせる時代。これも大人たちの懐古趣味なんだろうけど、上履きはデザインが可愛いのでお気に入りだ。
足を止めて振り返り、矢橋くんに話しかける。
「ここが昇降口です。今は来賓用のスリッパを履いているみたいですけど、転校するとなったらここに矢橋くんの下駄箱も用意されるはずですよ」
「あ、口調」
「え?」
口調が何よ。
「ああ、いいえ。口調がまた丁寧語に戻っているなと」
「丁寧語に、戻って。嘘、え?」
「先ほどまで砕けた口調でしたので、少しは気を許してもらえたのかと思っていました。」
「え、嘘。いつ、いつから?」
そんなはずはない。私はこの学校で最も礼儀作法の整った最優最高の淑女、慇懃を辞書で引けば用例に「及川萌音は慇懃な娘」と出ることは必定、全国60万のありとあらゆる少年少女が手本とすべき折り目正しい才女、風雅の極みとまで言われてもなんらおかしくないはずだ。そんな私が初対面の相手にタメ口で話すなんてありえない。
「ええと、その、自己紹介のあたりから」
案内のほぼ初めからじゃない。目を見開いて、眉尻の下がるのが自分でもわかる。いやまあ動いているのは眉頭なのだけれど、八の字眉がよっぽど哀れみを誘ったのか矢橋くんが気遣わしげに目を背けた。ええい、私を哀れむな。
「その、ごめんなさい。指摘するべきではありませんでした」
だから哀れむなって。もう。短く息を吐く。
「良いわよ、気にしなくて。しょうがない、もう敬語なんてやめよやめ。タメ口で話しましょ」
まあ考えてみれば、全国60万の手本とまでいうのはちょっと言い過ぎたかもしれないしね。多様性の時代ですもの。
「はい。わかりました」
「わかってないじゃない、もう」
「僕もですか?」
「当たり前じゃない。女の子にだけ恥ずかしい思いをさせるつもりっていうなら、止めはしないけどね」
「それは、いいえ。いや、わかったよ」
「言っておきますけど、別に仲良くなったわけじゃないからね。ただの案内人よ案内人」
そこのところ、ちゃんとしておかないとね。男の子の苦笑いには目を瞑ってあげて、咳払いをする。
「あらためて。ここが昇降口で、あの一番奥が五年生と六年生の下駄箱。クラスごとじゃなくて名前ごとの振り分けだけど、あなた転校生だからねえ。来年度も場所は変わらないし、端っこに名札をもらえるんじゃないかしら」
なるほど、と言ってうなずく矢橋くん。
「さて、次はどこに行きたい?」
この後のことはノープラン。どこに連れて行けば良いのかわからないならば、本人に任せてしまえ。
「右に行けば保健室。左に行けば工作室。階段を登れば理科室なり視聴覚室なり。おすすめは三階の図書室ね」
「本が好きなの?」
なるほど、たしかにそう思われても仕方がない。けれど。
「特に好きでもないわね」
それを聞いて、梅干しを食べたような顔をする男の子。その反応も失礼だとは思うけれど、誤解させた非に免じて許してあげよう。
「なにか読み物を探すなら、タブレットで十分だもの。紙の本ってのはどうも重いし、匂いがするし、かさばるし。まあ調べ物でページを行き来するのは楽だけどね」
「じゃあなんで図書室を」
「おすすめしたのかって、そりゃ司書さんがいるからよ」
その答えに目をしばたたかせる矢橋くん。
「イマドキの子は私含めて、紙の本なんて滅多に読みに行かないからね。司書さんも暇してるのよ。だから、たまに行って訪ねごとをすると、世間話にいろいろな話を聞かせてくれるってわけ」
あと他の大人にこの子の相手を押し付ければ、私も一息つけるしね。思い返せばまた恥ずかしくなってきた。口調を崩すなんて、一世一代の大失敗よ。少し落ち着いて頭を冷やさないと、また変なことを漏らしそう。
「ええと、図書室も後で行くとして、まず普通教室も見たいんだけど」
「教室って、変なもの見たがるわね。教室なんて机と椅子と黒板ぐらいしかないわよ」
「それが見たいんだ」
本当に変わった子。まあいいか、本人が見たいって言ってるんだし。
「じゃあ教室を見てから途中で理科室と美術室に寄って図書室ね」
うなずく矢橋くんにうなずき返し、階段を向いて左手の部屋、その後ろの扉の前へと誘導する。一応中に人の気配が無いか確認してから、念の為にそっと扉を開くと、無人の教室。
「ほら、ここが教室よ。中には入らないようにね」
私が場所を譲ると、首をひょいと突き入れて教室中を見渡す矢橋くん。今日日の教室なんて、モジュール工法でどの学校でも同じだろうに、何がそんなに嬉しいのか目を輝かせている。
「ここが教室。僕もこれから通うことになる場所。及川さんもここで勉強してるんだよね」
「え、してないけど」
バネ仕掛けのように、ぐるんとこちらを向く矢橋くん。そんな驚いた目で見られても、してないんだから仕方がない。
「だってここ私の教室じゃないし。というか二年生の教室よ、ここ」
教室番号を探せば「2年1組」と書かれたプレートが前に下がっているもの。私が二年生のときは2年2組だったし、本当にこの教室を使ったことは一度もない。だから、そんなタップダンスを踊るリンゴを見るような目で見られても、ここで勉強をしたことはないのだ。
「教室なんてどこも一緒よ。変わるのなんてせいぜい日当たりぐらいのものだけど、窓ガラスの加工のお陰で、眩しすぎるなんてこともないしね」
納得いかないような顔の矢橋くん。けれど、それ以上なにか言うこともなく静かに扉を閉めた。
「さ、次行きましょ」
そう言って、階段へと引き返す。後ろから感じるモヤッとした視線は気にしないで二階へと登ると、横に並んだ矢橋くんが訪ねた。
「机の数が少なかったけど、一学年あたり何人の生徒がいるの?」
「何言ってるのよ。あなた、20人で少ないなんてどんな大都会から来たの。このあたりも大都会ってわけじゃないけど、それでも一学年40人はいるわよ?」
「ああ、ええと、僕が知ってる教室は40人が入る教室だったから。人数自体は大して変わってないはずだよ」
「そう」
人数が大して変わらないって、一クラス40人なのにそんな事あるかしら。特進クラスと普通クラスみたいに分かれてるとか。そうだとしたら、意外と良い所の子なのかもしれない。
「まあ良いわ。この学校は一階に一年と二年、二階に三年と四年、三階に五年と六年の教室が二つずつあって、残りの部屋は特別教室だから」
そう言いながら階段を登り終える。どの階も左側の手前は普通の教室。右側と左の奥まったところにその他の教室がある。理科室は左の奥、つきあたりだ。昨年度までは毎日通った廊下を、矢橋くんを連れて歩く。
「四年生、というと及川さんも去年まではこの階にいたんだ」
「そうよ。まだ昨日のことみたい」
実際、五年生の半分ほどは事故で意識不明になって病院にいたので、半年ぐらい前まではこの階に居たような気がする。まあそんなことをこの子に言っても仕方ないので、口には出さないけれど。
「やっぱり懐かしくなるものなのかな」
小声で矢橋くんが呟いたのが耳に入る。
「懐かしい、って言うには最近過ぎるけどね。一年生の頃とかならそりゃ懐かしいけどさ」
返事をすると、驚いたような声を上げる矢橋くん。そりゃあ独り言よね。気まずげに笑う男の子に愛想笑いで返し、廊下の突き当りへと歩みを進めた。
「先生がいないから中は見せられないけど、ここが理科室。クラブ活動のある日は科学部やら生物化学部やらが使ってることもあるけど、今日はクラブがないから施錠済みね」
「それは残念だ。安全対策のためかな?」
「多分そうじゃないかしら。まあ監視カメラもあるけど、火事でも起きたら事だしね」
見るからにしょげる矢橋くん。理科室って言ったって、机が丈夫な備え付けに変わっているのと、いくつか教材が並んでいるだけなんだけどね。
「とにかく、位置としてはここ。ちなみに三階の美術室も閉まってるけど、行く?」
矢橋くんは少し悩んでみせたが、頷いたので三階の美術室へと向かう。道中は無言。そんなにショックだったのかしら。美術室の掲示物が外にあれば良いんだけれど、あいにく全部美術室の中なのよね。案内する側としては面白くない配置だ。
階段を上がってすぐにある美術室の場所を教え、いよいよ図書室へと向かう。図書室は美術室があるこの廊下の、更に突き当たり。
「じゃあ次は図書室に」
「行く必要は無いよ」
「み゜ぎぃ!?」
ああ、鼻の奥がツンとした。み゜なんて発音するからだ。ちょっと、今日は二回目じゃない、その生ぬるい声。
「いきなりなんですか、菱田先生」
「もう遅い時間だからね。及川さんはもう帰って結構だよ。あとは先生が引き継ぐから」
振り向いてみれば、菱田先生とその後ろには普段に増して仏頂面の藤堂先生。
「遅いって、まだそんなに時間絶ってないじゃないですか」
いいからいいから、とさり気なく私と矢橋くんの間に割り込む菱田先生。唐突な気もするけれど、まあ良いか。
「それじゃ、矢橋くん。またね」
「はい、またお会いしましょう」
「ちょっと、敬語に戻ってるじゃない」
「あ、ごめん」
「別に良いけどね」
肩をすくめて、先生がたの顔を見る。
「では、先生。私はこれで」
礼をして昇降口へ向かおうとした所でふと思い出して、振り返る。
「矢橋くんは先生に言えば理科室ぐらいは見せてもらえるかもしれないから、行ってきたら良いんじゃないかしら。じゃあね」
あんまりしょげてちゃ可愛そうだもの。そして、今度こそ帰り支度に昇降口へと向かう。階段を降りるその最中に、上から先生の声が聞こえてきて、思わず足が止まる。
「ずいぶんと仲良くなったみたいだね」
「はい、よく案内してもらいました」
「では、藤堂先生。転入について、よろしいですね」
「……はい」
何の話かしら。そもそも別に仲良くなってないし。気にはなるけれど、長居すると盗み聞きがバレそうだ。あの子が転校してきた時に訪ねれば良いか。そう思い、今度こそ階段を下まで降りることにしたのだった。
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