放課後 1

 さて。朝っぱらから気は重かったが、その後は幸い何事もなく夕方になった。昼休みに純子とぞなもしの用法について少しモメたが、とにかく何事もなかったのである。


 平穏無事に一日を過ごしたこともあって、夕方になる頃には私の機嫌もすっかり回復していた。他のクラスメイトもまばらな教室を眺めて、さあこれであとは細かいことを片付けて帰るだけと思っていた晴れやかな気分に水をさしたのは、またしても純子である。


「ところで、反省文はもうお済み?」


「言われるまでもない、当然」


 胸を張る。


「終わってないに決まってるじゃない」


 反省文で2000字は辛いものがあるのだ。


 落語を演りだしたペリカンを見るような顔で純子が私を見るが、校則上は品行方正な彼女も一度反省文を書いてみればそんな顔はできないだろう。今年度に入って十回は書いている私が言うのだから間違いない。


「大丈夫。反省文なんて骨子になるのはせいぜいが起承転結の四箇所だもの。あとは枝葉末節を盛っていけば良いのよ」


「なら早くおやりなさいよ」


 呆れ声を聞き流して背もたれに体を預ける。そりゃあ私だってさっさと反省文なんて終わりにしてしまいたい。けれど、けれどだ。


「反省文ったって、遅刻なのよね。そんなに書くこともないのよ。たんぽぽの茎に菊の花を接ぐにはどうしたものかしら」


「そんなに文字数が増えるほど反省を繰り返すのだもの。業の深いこと」


「反省文では反省しないという証拠よ」


「あなたの性格のおかげと思うのだけれど」


「その表現は正確じゃないわね」


「良いからお書きなさいな」


 そう言うと、カバンを持って自然なふうに廊下へと歩いていく純子。ちょっと待て。


「ちょっと、少しは待っていてあげようとか、友だちがいのあることは出来ないわけ?」


「あら、わたくしのような繊細な乙女には、友人が苦悩の内にいる姿をこれ以上眺めるのは忍びないのよ。小腹も空いたしね。それでは、また明日」


 胡散臭い笑い顔で純子が言葉を投げかける。と、なにか思いついたような顔になって足を止めた。そして右の人差し指を立てて一言。


「年貢の納め時ということぞな、もし」


 そう言って、今度こそ振り返らずに去っていく。彼女の姿が壁の向こうへと消えて、ようやく絞り出せた言葉は一言。


「……だから使い方が違うって。いや、あってるのか?」


 口に出してみるが、誰も答えない。そりゃそうだ。知らず口が尖るのを感じたが、構わず息を深く吐いて座り直す。そして、「反省文」とだけ書かれたまっさらなタブレットの画面と向き合って「細かいこと」を片付ける作業に戻った。純子のおかげで晴れやかな気分では書けないようである。


 そうして一時間ほどタブレットと格闘した後。私は職員室の前にいた。扉脇の室内の座席表が描かれたパネルを見てみると、藤堂先生の名前が書かれたマスは緑色。どうやら先生を探し回らずに済んだらしい。扉に手をかざしてロックを解除すると、ぷへぇと気の抜ける音を立てながら扉が開く。扉の近くの先生が訝しげにチラとこちらを見たが、すぐに視線を戻す。反省文も三回目ぐらいまでは用件を聞かれたものだけれど、今となってはすっかり常連扱いである。あまり嬉しくないが。


 それでも一応は小声で挨拶と会釈をしつつ、藤堂先生の机へと向かう。


「先生、反省文を書いてきました」


 それを聞くと、先生は操作していた端末を一時停止、椅子を回転させてこちらを向いた。


「読ませてもらいます」


 そして端末を私のタブレットに近づけて反省文をコピーする。他の教師はこの手の文書チェックを人工知能に丸投げするのだけれど、藤堂先生はこうやって自分の手で確認する。なんでも、人の書いた文章は人が読むべきだとかなんとか。先生のかけた黒いゴーグルの向こうには私の反省文が映っているのだろうけれど、外から見ている分には視線が全く読めないので、この時間の気まずさだけは何度経験しても慣れない。


 先生が反省文を確認している間の視線を持て余して周囲をなんとなく見回していると、私と同じくらいの歳の男の子が奥の席に座っているのが見えた。座高は、私より少し高いぐらい。肩幅は、少し華奢な感じ。顔は、向こうを向いていてわからない。でも髪型はちょっとダサい。よく見てみればつむじが二つ有って、ちょっと珍しいかも。


 特に見るものもないので何となくその子を見ていると、不意に彼が振り返った。顔立ちは正直平凡。でも黒とも緑ともつかない不思議な瞳の色をしていて、なんとなく目の奥が虹色に見える気もする。その視線と見つめ合って、何故か私も目を逸らせなくなった。いや、逸らしてやるもんか。まだ実物を見たことはないけれど、猫という生き物も、目を逸らしたほうが負けだったっていうじゃない。負けるのは好きじゃない、むしろ嫌いだ。


 目に力を込める私と、不思議そうな感じの彼で見つめ合う。それが1分、いや30秒、もしくはもう少し短い間続いた。所で、先生が私に声をかけた。


「結構です」


 その声に思わず視線を先生の方に向ける。しまった、負けた。


「何箇所か強引な部分もありましたが、まあ、良いでしょう。次からは気をつけるように。と、このセリフも何回目かは解りませんが」


「気をつけます」


 ハハア、と曖昧に笑いながら頭を下げるが、内心では男の子のことが気になっていた。勝ち負けは、まあ少しは悔しいけど、どうでも良い。気になっているのは別のこと。あんな子、この学校にいたかしら。


「あのぉ」


 我慢できずに先生に声をかけると、先生は作業に戻ろうとしていたのを止めてゴーグルを外す。何事かと疑問に思うその目は、先生にしては大きく開かれていた。


「いえ、反省文のことじゃないんですけど、あそこの奥に座ってる男の子は?」


 そう途中まで問いかけて言葉に詰まる。「誰?」それとも「何故?」何を訪ねれば良いんだろうか。けれど、先生は得心して頷く。


「あれは転校生です。及川さんと同じ学年ですよ」


「この時期にですか。珍しいですね」


「まあ、事情があるんですよ」


 あれ、先生が少し言い淀んだ。よっぽどの事情なのかしら。下世話な話は好きだけれど、ここで聞くのもちょっと気が引ける。


「そう、事情があるのです」


「ペェア!?」


 ペェアって何さ。後ろから突然声をかけられて、「へぇ」と打とうとした相槌が奇妙に上ずる。この生ぬるい声、彼だ。


「菱田先生、そうやって生徒を驚かすのは控えてくださいとあれほど」


 藤堂先生が諌めた男性。白髪交じりで短めの髪に、いつも笑顔の見知った顔。今朝方私達に授業をする予定だった理科の先生。菱田智則(ひしたとものり)先生が音もなく後ろに立っていた。


「驚かすつもりはなかったんですがね」


 絶対嘘だ。菱田先生は、こうやって音もなく後ろに立っていることがたまにある。普段はパタパタとうるさいサンダルで歩くからすぐわかるのに、同じサンダルでも足音もなく背中に立つものだから急に声をかけられて驚かされる子が後を絶たない。その度に「驚かすつもりはない」なんて言うけれど、声が笑っているものだからわざとに決まってる。


 イイ性格をした先生ではあるけど、それ以外の部分は優しいし授業も面白いので、好かれてもいないけど嫌われてもいない、人気はそこそこだ。


「知りたいかな?」


「え、いや。特には」


 かけられた言葉に面食らう。曲がりなりにも教師が他所様のプライベートを話すのはどうなのよ。とっさに否定すると、しょぼくれたチワワのような顔になる菱田先生。可愛くない。


「そうかい。では、彼にこの学校を案内してくれないかな」


 え。


「菱田先生」


「まあまあ、懸案もこれでケリがつくでしょう」


 いや待って。


「それは教師の仕事では」


「子ども目線というのも必要ですから」


「あの」


 私をおいて会話を始める先生たち。たまらず口を挟む。それを聞いてこちらを見つめる二つの目線。


「私、やるなんて言ってません」


「おや、このあと用事があるのかな」


「そりゃあ、無いですけど」


 ああ、ここで有りますと言っておけば良いのに。素直なのが私の美点の一つだけど、こういう場合は嬉しくない。助けを求めて藤堂先生を見ると、その思いが通じたのか先生が助け舟を出してくれる。


「菱田先生、私は賛成できません」


「しかしですね、受け入れるのは決まったことです。何時かは必要なことなら、何時かが今でも何ら問題はないでしょう」


 何さ、どれだけ深い「事情」なのよ。そう言われてみると、あの子がなんとなく恐ろしいものに見えてくる気がする。……いや、あのボケっとした顔じゃ無理ね。でも先生方がこんなにモメるなんて、どんな事情なのかしら。


 チラッと男の子の方を見ている間に、藤堂先生の意見は決まったらしい。深く息を吐くと、私の名前を呼ぶ。


「及川さん。すみませんが、あれに学校案内をお願いします」


「藤堂先生、『彼』ですよ」


「……ええ、彼に」


 ご冗談でしょう、藤堂先生。


「いやでも、私もこの学園の生徒であって、設立理念や教育方針については十全な知識を備えてはいないわけです。情報というのはまず正確に伝わることこそが肝要でしょう。そもそも、私だってよく使う部屋の位置や、大まかな校舎の構造こそ知れ、それ以外には全くの無知なわけです」


「それで?」


「もちろん転校が決まっている以上はそれらの如何に関わらずこの学校の一員になるわけですが、だからこそ私という不確実な情報源よりも、先生方という確かな人物から学校についてお伝えいただいた方が良いのではないでしょうか」


 こらそこ、菱田先生は笑うな。誰のせいでこんな早口で話す羽目になったと。


「及川さん」


 藤堂先生が口を挟む。


「このようなことを言うのは心苦しいのですが、お願いできませんか」


 もう。


「……わかりました」


 不承不承頷く。先生からお願いされたらしょうがないじゃない。


 話は決まったと、菱田先生が男の子をこちらに呼ぶ。


「矢橋くん」


 呼ぶ。


「矢橋くん?」


 ……呼ぶ?


 菱田先生が男の子に近づいて肩を叩く。


「矢橋くん、ちょっと良いかな」


「え、ああ、僕ですか?」


 見た目通りのボケっとした子ねえ。でも、アレを今から案内しないといけないのだ。安請け合いをしたかと、思わず真顔になってしまう。そんな私の気も知らず、先生は男の子を連れて戻ってきた。


「及川さん、彼は矢橋くん。矢橋くん、彼は及川さんだ。これから彼女に学校の案内をしてもらってくると良い」


「わかりました、菱田さん。及川さん、よろしくお願いします」


 そう言って頭を下げる男の子。正直言って全く気乗りはしていないのだけれど、仕方がない。つむじ二つに免じて、案内してあげるとしよう。


「こちらこそよろしく、矢橋くん」


 そう言って、藤堂先生の申し訳無さそうな目を背に、男の子と連れ立って職員室をあとにした。

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