夜 2
いくらか晴れたとはいえ憂鬱なものは憂鬱なもので、家の玄関をくぐればひどい倦怠感と共にため息がこぼれた。これからしばらくは、あの推定アンドロイドの世話をしなくてはならないらしい。
人に嫌われているわけではないと思うけれど、自分が人に好かれているわけでもない自覚はあるし、顔が広いという自覚もない。正直、人との交流という点では明らかに人選ミスのような気がするのだけれど、この先どうなることやら。こう言うと他人事のようだけれど、本当に他人事ならばどれだけ良かったことか。どれだけ考えてもネガティブな感想しか出ては来ず、再びため息。
とにかく疲れた一日だったので、今日は早めに寝ることにした。
共通端末に今日は疲れたので早く寝る旨を書き残し、夕食はまるハンで済ませると決める。食品棚を物色、目についたのはオムライス味だったけれど、なんとなく嫌な気分になって、結局塩むすび味のまるハンを選び、食卓に置いた。
手早く着替えを済ませようとしたけれど、思ったよりも疲れていたらしくたたらを踏む。シャワーは明日の朝浴びよう。
まるハンを気力で頬張りながら、なんとなく仏間に目を向ける。もしお母さんが今も生きていたら、今日のことを聞いてなんと言ったかしら。人権団体に入っているぐらいだったから、矢橋くんの境遇は不当な扱いだと怒ったかもしれない。もしくは、本当にあの子がアンドロイドだったのなら、驚いた顔で根掘り葉掘り聞いてきたかも。好奇心の強い人だったから。
どちらにしても、それは叶わないことだ。仮にお母さんが生きていたとしても、誰にも話さないようにと強く念を押されたのだ。舌の根も乾かぬうちに誰かに話すほど、不誠実ではないつもり。その点では、お母さんがホログラムで良かったのかもしれない。
「お母さん、私どうしたら良いのかしら」
口に出してみても、位牌の上のお母さんはホログラムが笑っているだけ。それはそうよね。人工知能を積んでるようなお高い位牌じゃないもの。最も、お母さんのお葬式の頃に私が目覚めていても、そんなものを使おうとは思わなかっただろうけれど。終わってしまったものは、どんなに悲しくても終わってしまったままでなければいけないと思うから。
疲れのせいか、益体もないことばかりが浮かんでは消える。これは本格的によろしくない。と、言うことでまるハンを半ば丸呑みする形で食べきり、マウスウォッシャーで口を清めて二階の自分の部屋へ。布団に入ると、いつもは数分ほど考えを巡らせるのだけれど、今日は特にそんなこともなく素早く眠りの淵へと落ちていった。
けれど、眠る前に妙なことを考えたからだろうか。その日の晩は妙な夢を見た。
その夢の中で、私は赤ん坊を抱いていた。私の知る限り、私が赤ん坊を抱いたことは一度もない。けれどその感覚があまりにも現実的で、腕の中の重さが恐ろしくなるほどかけがえなく思えた。
ゆらゆらと揺れながら赤ん坊をあやしていると、唐突にこの子の名前が「勅使川萌音」、つまり私なのだと気がつく。改めて赤ん坊の顔を見てみると、考えてみれば小憎たらしい顔をしていて、将来捻くれ者に育ちそうな雰囲気をすでに持っている。別に私は捻くれ者じゃないけどね。
この猿みたいな赤ん坊が、将来私のような清楚な少女になるのかと思うと面白いものがあるが、これからどう育つとしても胸に感じる愛おしさは忘れることがないのだろう。しかし、眼の前にいるこの子が私なのだとすると、今思考している『私』は誰なのだろう。
そう思ったとき、『私』の口が勝手に動き出す。それは意味のある言葉ではなく、ハミングと歌唱の間の子。うろ覚えの歌をそれでも聞かせようとした苦肉の策。その歌は私も歌えないけれど、記憶の底からいつでも浮かび上がらせる事ができる歌。私の知るそれと同じように歌われるごまかし気味の歌は、お母さんが私に歌ってくれた歌だった。
お母さん、お母さんも私の面倒を見るときに、今の『私』と同じ感情を抱いたのかしら。こんなにも恐ろしくなるような深い感情で、私に優しく語りかけてくれたのかしら。『私』の感情に、私の胸が締め付けられる。
やがて歌が終わり、腕の中の赤ん坊はぐっすりと寝入っていた。それを見た『私』は立ち上がり、赤ん坊をベビーベッドへと静かに乗せる。そして、口を開いて言った。
「あなたを……」
続きの言葉が聞こえる前に、夢は形をなくし、その言葉も私に届く前に消えていく。けれど、続きの言葉は聞こえなくとも、この記憶が本物であるかにかかわらず、この胸にその感情は残っている。そしてその感情と共に目を覚ませば夜は白み、朝日がドームの天ガラスを淡く輝かせていた。
「お母さん、私もよ」
なんとなくつぶやいてみたが、小っ恥ずかしくなって首を振り、布団をかぶって二度寝することにした。今日からは一仕事増えるのだし、少しでも休んで備えて置かないと行けないしね。
今度は安らいだ気持ちで眠りにつき、何の夢も見ることはなかった。
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